少女時代

 少女の影を、もうひとつの影が追っていく。列車の音が遠くから鳴り響いた。

 ひとつの影は止まる。さきを行く少女は農場の瀟洒しょうしゃな門に寄りかかる。彼女のちいさな唇が動いた。

「遅いってば」

 言葉を投げかけた先に黒髪の少女がいた。

「キャロル、俺はきょう、これから仕事って分かってるだろ?」

 キャロルと呼ばれた少女は口をへの字にした。

「そう言うなら。あした、また来て。同じ時間に」

「どんなご褒美ほうびをくれるんだい?」

いやしい子ね。クッキーを焼くから、それでどう?」

「分かった」

「あなたって見た目以上に子どもね」

 キャロルはナタリアの頭から足元をさっと見る。同年代の子たちより背は高く、細身でしなやかな体つき。ナタリアは自分のことを俺っていうけれど、キャロルは彼女が男性だったらと思う。頼りになるボーイフレンドになってくれたかもしれない。

 キャロルはふと空のむこうに鳥が飛んでいることに気づく。鳥にもう一羽の鳥が飛んでくる。絡み合うように飛ぶ二羽の鳥たちがどこか羨ましい。

 ここは農園だ。トウモロコシを育てている、このへんでは裕福な家でキャロルはその家の一人娘だ。ナタリアは従業員の娘で幼い頃からずっといっしょだった。背の高さが一緒だったとき、ふたりは手を繋いで農園の先のブランコに乗って、むこうをふたりで見渡した。遠くの街が、異国のように見えていた。いつかふたりでそこへ行けると誓いあった。ふたりだけの秘密を作って、契約書はちいさな木箱に入れて、ブランコの近くに埋めた。キャロルがその記憶も忘れたころ、ふたりは十五歳になっていた。

 幸福な黄色いトウモロコシが実っていた。

 ふたりがトウモロコシの入った籠を運んでトラックの荷台に積んでいると、ナタリアの黒髪をキャロルの父で農園主のブラッドが撫でた。葉巻を咥えた、小太りの男だ。ジーンズに手をつっこんで、ナタリアを観察している。キャロルはその視線が、嫌で、嫌で、たまらなくなって、ブラッドの注意を自分に向けさせる。

「ダディ、きょうの仕事はもう終わりなの?」

 ブラッドは尋ねた。

「キャロルこそ。仕事はまだまだあるんだ。すこし向こうに行ってくれないか?」

 ピクリ、と父の顔の筋肉が動いた。

 キャロルは苛立ってその場から立ち去った。

 キャロルは知っていた。

 父の、あの眼差しは、男が女を見る眼差しだと。

 そういう目でナタリアは見られていた。はっきりと分かったのは母親が弟を身籠みごもった頃だ。男はセックスができなくなると他の女をいやらしい目つきで見るようになる。従業員の女たちを、娘たちをブラッドは執拗に見つめていた。ナタリアもそのなかにいた。キャロルはその視線を嫌悪した。

 父は豚だ。

 豚箱に行けばいい。

 キャロルは肉をナイフで切る。何回も筋を切っていく。

 毎夜、見る夢のなかで誰かを殺している。それはきっと父への、言葉では言い表せない憎悪だ。

 夕食後、ブラッドがキャロルに声をかけた。

「ナタリアを連れてきてくれないか」

 キャロルの背筋が凍った。振り向いて父の顔を見る。豚の顔ではなく、愛していた父の顔だ。その顔でナタリアと呼ぶのはやめてほしい。ぞっとする。鼓動が速くなって、キャロルは部屋から出た。

 走っていた。

 ナタリアのもとに行かねばならないとキャロルは急ぐ。

 小屋の扉をノックする。なかにはナタリアがいるはずだ。

「はーい」

 ナタリアの顔だ。キャロルはこれまでのことを話して、ナタリアを小屋の脇の倉庫に連れてきた。

「聞いて。ふたりで逃げよう……」

「ば、バカなこと言わないでくれ」

「あなたが父の餌食になるのは嫌……。あなたのため」

「俺のため……。俺のためなんかじゃない。逃げたら、キャロル。お前だってどうなるかわからない」

 キャロルはナタリアのおでこにキスをした。

「キャロル……」

 ナタリアは彼女に抱きついた。

 ふたりの間で決心がついた。ふたりは夜の道を走った。

 

 息が、切れ切れになる。ふたりの手はしっかりと握られたままだ。広い農園のさきに、やっとのことで着いた。背後からは光が追ってくる。光は、父のもとで燃えている。

 断罪の火だ。キャロルだって分かっていた。ナタリアを守りたい。彼女だけは、と思った。

 ピストルの音がした。キャロルはその音に、どきりとして銃口が向けられた気分になった。ブラッドはキャロルを殺すつもりだ。キャロルは、自分だけは殺されないと考えていたのかもしれない。キャロルは、父が家族にだけは手を出さないと思っていたのかもしれない。

 そんなことはない、と分かった夜だった。


 キャロルは椅子に縛られて、ドアのむこう、ナタリアが殴られているところをただ見ているだけだった。

「娘をたぶらかしおって!」

 そんな、事実はなかった。彼女はキャロルに従っただけだった。

 ひどいうめき声と、彼女を殴る音がした。父は、ナタリアをその夜、犯さなかった。父はナタリアを害虫みたいに扱った。ナタリアはただ耐えていた。

 翌日、彼女は解雇かいこされた。

 農園を離れたら、どうなるかわからない。年頃の少女の行くところなんて、そう多くはない。キャロルはそれ以上、考えたくなかった。自らの身勝手さに吐き気をもよおしながら、胸を掻きむしる。きのう、ほんとうに罰せられるべきだったのは彼女自身だったのだ。

 キャロルはベッドの上で縮こまっていた。

 窓のカーテンの隙間から光が差し込んだ。トラックが家のまえの広場に来た。エンジンのくぐもった音がしている。窓を覗き込むと、ナタリアの姿が見えた。

 首をゆるやかに曲げた少女がトラックの荷台へとよじ登る。キャロルは花瓶に挿さった一輪の花を掴んだ。そうして階段を、音を立てて下りた。玄関を飛び出して、声を出した。声はかすれて、彼女に届かない。

 さいご、かもしれない。ナタリアを、抱きしめられるのも、キスできるのも。いまはそういう時だ。キャロルはナタリアにそっと一輪の花を手渡した。

「これで、これで……」

 許してください、愛しています、はなさない。なにも言葉にできなかった。自らを幼稚ようちだとキャロルはじた。

 涙が溢れた。それはナタリアも同じだった。

 トラックはナタリアを乗せて出発した。

 まるで家畜の出荷だ、とブラッドは言った。キャロルは耳をふさいで、永劫えいごうに自らの心をだれかに開くことはないと思った。


 三年後、キャロルは実業家のロバートと結婚した。街にレストランを開き、そこで店長になった。コーンかわいそうなダイナーと呼ばれる、この店は、昼は繁盛しているが、夜はならず者たちの隠れ家になっている。キャロルもその事情を知っており腕力ではそこらのチンピラには負けないのだ。

 午前二時といったところ。店のなかで不審な音がする。キャロルは恐る恐る銃を握りしめて、キッチンに向かう。

 暗い群青ぐんじょうのあかりの下に人影が見えた。食料を漁っているようだ。

「あんた、なに……」

 人影はキャロルに向き直って、獣のような双眸そうぼうでじっとにらんだ。数秒のあいだ、影はキャロルを観察して、さっと素早くキャロルに近づいた。キャロルの顔とその影の顔がひっしとくっついた。匂いを嗅がれている。キャロルは咄嗟にこの影を殺さないといけないと思ったが、匂いを嗅いで少しだけ躊躇ちゅうちょした。

 女の匂いだ。この辺のならず者たちのなかで女はいない、キャロルは素早く頭で理解した。

「コーンダイナーへようこそ……晩ご飯がないなら、開店時間にお願いね」

 影は距離を取った。

 すぐにキャロルは明かりをつけた。

 肩口があらわになった服。

 肩にはドラゴンと獅子の刺青いれずみ

 腰にはピストルを何丁か。

 明らかに堅気かたぎの人間じゃない。黒髪と痩せた白い頬、うつくしい瞳。妖精か悪魔のような気がしてキャロルはうっとりした。

 レストランの明かりをつけて、その女を座らせた。脚は泥だらけだったのでタオルを渡して、じゃがいもを茹でてバターと、焦げつくくらいパリパリに焼いたベーコンを添えた。

 皿のうえのものが無くなると、彼女から事情を聴いた。

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