グロリア~呼び声~
◆◆◆
――呼ばれているような気がした。
どうやってここまでたどり着けたのか覚えていないが、ハルシオンは這うようにして祭壇に近づく。
重い体を持ち上げると、そこには硝子の棺が置かれ、黒曜石と紫水晶の円環の冠を戴いた黒いドレスの若い女性が横たわっている。
年頃はハルシオンと同じぐらいだろうか。緩やかにうねる黒髪はむき出しの肩の上に流れ落ち、抜けるように白い肌の上で唇だけが熟れた林檎のように赤い。
その胸には中央に真紅の宝石が一つだけはめ込まれた、白金の十字架が突き刺さっていた。
ハルシオンはそっと手を伸ばす。
なぜか、それを抜かなければと思ったのだ。
十字架はハルシオンが握りしめただけであっけなく外れた。
けれどハルシオンの体力はそこで力尽きる。
彼女の眠る棺に体を預けるようにして目を閉じた。
辺りは雪の降る夜のようにしんと静まり返っている。
その時、女性の白い頬に影を落としていた黒い睫が震えた。
肘まで覆う漆黒の手袋をはめた手が棺の縁へと動き、彼女はゆっくりとその身を起き上がらせた。
「私を目覚めさせたのは、あなた?」
頬に優しく誰かの手が添えられる感覚でハルシオンは目を開けた。
深い
「……ええ」
そう答えたつもりだったが、口から出たのは自分の苦しげな息遣いだけだ。
頬に添えられていた彼女の指がハルシオンの顎をなぞり、鮮血が流れ落ちる
焼けるような熱を帯びる傷口に触れた彼女の指の感覚は、清水のように冷たくて心地良い。
「あなたはまもなく死ぬわ。私はまた、ひとりぼっちになるのね」
その声の響きは少女であったが、永い年を経てもなお存在し続ける事に、疲れを感じているようであった。
「長くはありませんが、ここにいます」
ハルシオンは右手を上げ、首に添えられた彼女の手を握りしめた。
「名前を、教えて下さい……私は、ハルシオン」
「……ハルシオン……それは、
彼女の声が少し明るさを増した。遠い昔を思い出すように。
「私は――グロリア。そう、呼ばれていた覚えがあります」
「グロリア……」
深い金色の瞳がゆっくりと頷く。
「――綺麗だ」
「……えっ?」
「あなたの金色の瞳。満月の光のようだ。慈愛に満ちて……優しい……」
グロリアが戸惑ったように瞳を見開く。
それを見つめながら、ハルシオンは多分自分は幻覚を見ているのだと思った。
さもなくば、夢を。
手足の感覚は鈍り傷の熱さえも失せていく。
いつしか視界は闇に覆われようとしていた。
「ハルシオン」
おずおずと呼びかける声。
ハルシオンはただそれを――暗闇の中で耳元で呼びかける声を聞いている。
「もしも命があれば――それが続く限り、あなたは私の傍にいてくれますか?」
(――どうして、そんなことを?)
もはや口を開く気力も失われた。
けれど闇の中で彼女の声が再び響いた。
「一人は寂しいから。あなたは寂しくないの?」
(――私は……)
すでに死に往く身であるのに、今更一人が寂しいとか思うことすら考えつかない。
けれど一人ここに残る彼女を思うと、その寂しさを想像することはできた。
だから名前を尋ねてしまったのだ。
そうして欲しいと望まれたような気がして。
(――あなたの傍にいます。私でよければ)
「ありがとう。ならば、これを与えます」
何かが唇に触れた。
ぽたりぽたりと岩を伝い落ちる、雪解け水のように冷たい液体が――。
それを飲み込むと、今まで感じたことがないほどの喉の渇きを覚えた。
(――これは?)
「焦らないで。ゆっくりと飲みなさい。そして――あなたにお願いがあります」
グロリアの指が母親のようにハルシオンの額に被さる前髪を梳く。
「あなたに血を与えた事で、私は再びここで眠りにつきます。決して『
(――あなたの、血だって?)
「そして、約束して下さい。もしも、私が『悪しきもの』として再び目覚めた時は、あなたが――『
「お願いよ、ハルシオン――私の
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