失われし記憶(1)
「ちょっとルクシエル! これは一体どういうことよ?」
「どういうことかと仰られても姫様――」
ルクシエルは眉根を寄せた。一方アナーシアは、銀光騎士団の営舎の二階にあるハルシオンの執務室をいらいらと歩き回っている。機嫌が悪そうに蜂蜜色の髪が背中で揺れた。
「ハルシオンがまだ帰ってこないなんて、絶対におかしーーい!!」
アナーシアが体全体で怒りを爆発させている。
「あなただってそう思うでしょ!? 教会に行ったのは昨日の夕方よ? 今日だってもう日が暮れてきたというのに、なんでハルシオンが帰ってこないわけ? 無断で城を空けるなんて職務怠慢よ!」
今にも食って掛かりそうな勢いのアナーシアを、ルクシエルは苦笑いでなんとか押さえ込もうとする。
こういってはなんだが、ハルシオンは騎士長に任命されて以来この三年、私用で休みをとった日は僅か二日しかないのだ。
そんな彼のことをルクシエルは職務怠慢だとは思わない。
寧ろ、騎士長であるハルシオンが休みをとってくれないと、部下である自分も休暇の申請がしづらいのが本音だ。
「しかしですね、姫様。アルファージ司祭長につかまったら、一晩中酒を飲まされてしまうのは確実です。それにこの時間ですから……騎士長は教会を出た足で夜警に出てしまわれて、多分、朝方帰ってくるのではないでしょうか」
「ないでしょうかって――ルクシエル、それはあなたの憶測でしょう!? あなた、そんないい加減な仕事してるんなら私が容赦しないわよ!」
アナーシアの苛立ちはルクシエルと会話すればするほど高まっていく。
(しまった。地雷を踏んだか)
ルクシエルは額に汗を浮かべながら慌てて首を振った。
「い、いいえ。憶測ではありません、アナーシア様。騎士長の帰りが遅いので、ちゃんと教会に使いを出しました」
「それで?」
「やはりハルシオン様はアルファージ司祭長に酒を付き合わされて、まだ部屋でお休みになられていると」
ルクシエルは即座にアナーシアから目を逸らした。
目を逸らせながらさりげなく窓の外をうかがう。
「今までこんなこと、なかったわ」
沈黙が訪れた室内で、アナーシアがぽつりと漏らした。
それがあまりにもか細い声だったので、ルクシエルは耳を疑った。
部屋の中ほどで立ち止まったアナーシアは両手を胸の前で組み、やや顔を俯かせ目を伏せていた。
「ハルシオンだから大丈夫。そう、わかっているけど――でも、何かあったらどうしよう。ルクシエル」
「――アナーシア様」
いつも勝気な姫が静かにしてくれるのはありがたい。
できればいつもそうであればいいのだが。
けれどそんなアナーシアの様子をみながら、ルクシエルもふと内心不安が過ぎるのを感じた。
実はアルビヨン女王の家系は、近い先の未来を見通す『
しかもその力は女性のみに現れるので、代々アルビヨンの王位は女性が継ぐ事になっている。現女王の力は言うに及ばず、アナーシアも当然その力を持っているという。
「姫様、ひょっとして、不吉なものでもお感じになられたのですか?」
「……わからない」
アナーシアがのろのろと顔を上げる。
透き通った青灰色の瞳は戸惑うようにルクシエルを見上げている。
「そこまではっきりとはわからないけど、ハルシオンのことを考えていたら息が止まって、目眩がするくらい胸がどきどきして、たまらなくイライラしてくるの!」
「……」
「ルクシエル、私どこかおかしい?」
「――姫様。息が止まったらもう死んでますよ」
さらりとルクシエルは突っ込んだ。アナーシアの青くなった顔が一気に怒りで赤くなる。構わずルクシエルは言葉を続けた。
「ついでに申し上げると、姫様はおかしくはありません。どうして息がとまりそうなほど、目眩がするほど胸がどきどきしてイライラするのは、世間一般的な言い方をすれば、姫様が騎士長に恐らく恋しておられるからでしょう」
「――え?」
アナーシアが声にならない声を漏らし、両目を見開いた。
「一つご忠告すれば、
「……」
なんともわかりやすい反応だ。
ルクシエルは内心笑いを堪えながら、表情を驚愕に凍りつかせたアナーシアの肩に手を置いた。
「まあそれは置いときまして、私も騎士長がいつ教会を出たのかが知りたいので、これから伝令を出して確かめます。三十分もあればご報告できると思いますので、姫様は一旦部屋にお戻り下さい」
「でも――」
縋るような眼差しを向けられても、ルクシエルは表情を変えずただ首を横に振る。
「……わかったわ」
アナーシアは仕方なく、ルクシエルに誘われるまま、執務室の扉から外へ出た。執務室の前に待機している団員にアナーシアを部屋まで送るように言いつけてから、ルクシエルは営舎の一階へと階段を下りた。
営舎の一階は待機している騎士達の詰所である。
ルクシエルはそこにいた一人の少年騎士を呼び寄せた。
「教会へもう一度伝令に走ってくれ。
◇
ルクシエルは営舎の前でじっと待った。
ハルシオンが夜警を終えた騎士達を毎朝そこで待つように。
やがて日が暮れ周囲が夜の衣を纏い始めた頃――息を切らせた少年騎士がルクシエルの所へと戻ってきた。
「――どうだったか?」
「副騎士長……それが、何度教会の通用扉を叩いても、誰も出てこないのです」
「なんだと?」
ルクシエルは眉をひそめた。
これはアナーシアの悪い予感が当たったのだろうか。
「それで諦めて帰ろうとした時、扉の覗き窓が開いて、見知らぬ若い司祭が出てきました。銀髪で目の色は紫でした。アルファージ司祭長への面会を求めましたが、司祭長は留守でいないと言われました。仕方がないので、その司祭にハルシオン様はもう教会を出られたかききました」
「それで?」
少年騎士は俯き首を横に振った。
「僕と入れ違いぐらいで教会を出たと言われました」
「ふむ――よし、わかった。ご苦労だった。行っていいぞ」
「はっ」
少年騎士は営舎の中へ駆け足で入っていった。
その小柄な背中を見ながら、ルクシエルは右手を顎に沿え一人唸った。
アナーシアへこの事を報告すると約束したから行かなくてはならないが、正直気は重い。
いつもと違う教会の様子が気になるからだ。
それはきっとアナーシアも不審に思うに違いない。
「ルクシエル」
誰もいないはずなのに、呼びかけられルクシエルは身を強張らせた。
背後にはいつの間にかアナーシアが立っていたのだ。
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