予兆(3)

 アルファージは居室の扉を開いた。中では暖炉の赤々とした火が周囲を照らしていた。絨毯が敷かれた床は暖かそうで、暖炉の前に置かれた安楽椅子に銀髪の神官――ノムリスが腰を下ろし、足元には司書室から持ち出したのであろう、埃っぽい古めかしい書物が十冊ほど積まれている。


 話し声に気付いてノムリスが顔を上げた。

 眼鏡の縁に手をやり、ハルシオンの姿を見ると椅子から立ち上がった。


「これはハルシオン様。先日は危ない所を助けていただき、ありがとうございました」


 差し出された右手を渋々取り、ハルシオンは握手を交わした。


「いえ。私は自分の役目を果たしただけですから」

「どうぞおかけ下さい」


 ノムリスが暖炉のそばに用意してあった肘掛椅子をハルシオンにすすめた。


「俺は厨房で酒と肴の用意をしてくる。ノムリス神官、その間ハルシオンに【吸血鬼イモータル】の愉しい話でもしてやってくれないか」


 ノムリスの薄紫色の瞳が眼鏡の奥で微笑した。


「わかりました。私が知っていることならなんでもお話いたします。さ、まずは外套マントを脱いでおかけ下さい」


 ハルシオンは勧められたとおり外套を脱いで居室の壁際にあるマント掛けにそれをひっかけた。もしもアルファージの話が短時間で済むのなら、その後夜警に出るつもりなので、白い騎士団の制服を纏っている。


 アナーシアにも言ったが丸腰ではない。腰のベルトには六連発のシリンダー銃と銀の弾丸の入った入れ物を吊っている。ハルシオンはそれは外さず、ノムリスに勧められた肘掛け椅子へと腰を下ろした。


 暖炉を囲むように一脚、椅子が置かれている。その前には小さな円卓があり、幾何学模様が彫られた硝子の杯と黒い酒の瓶が載っている。


「実は先に、一人ちびちびとやらせていただいてたんです」


 ハルシオンの視線が酒と杯に向いたことに気付いたノムリスが口を開いた。

 杯は三つ用意されている。ノムリスの白い指が酒瓶を掴んだ。


「これは南方アギスで作られた薬酒です。まずはこれで体を温めてください。疲労回復、滋養強壮、精力増進……などなど、体に良いものですからぜひ」


 ノムリスは細長い酒瓶の栓を開け、硝子の小さな杯へと注いだ。

 暖炉の光のせいだろうか。それは葡萄酒のように赤く見えたのだが、それよりもずっと暗い色をしている。


「さ、どうぞ。ハルシオン様」


 杯をノムリスが差し出した。一口で飲めてしまう微々たる量だ。

 薬酒は一度に沢山飲むのが目的ではない。

 毎日欠かさず続けることで、その効力が出るというもの。


「ありがとうございます」


 ハルシオンは硝子の杯を手にした。

 やはりその酒は暗褐色をしていたが、薬酒独特の匂いはない。寧ろ熟れた果実を思わせる甘い香りがする。


 ハルシオンは杯を持ち上げ口に含んだ。ややとろみがかった液体が喉の奥に流れる。香りから連想するよりもずっと濃厚な甘みが口の中に残った。

 酒というよりも果汁のような気がする。ハルシオンは息をついて杯を円卓へ戻した。


「僅かな量でも効くのですよ。数分もすれば、手先の方までぽかぽかと体が温かくなってきますから」


 ノムリスがハルシオンの顔を覗き込むように微笑した。


「……神官殿は、いつもこれを?」


 ハルシオンの問いにノムリスが頷いた。


「ええ。なんせ私は旅の神官ですから。よく歩いた日はてきめん足にきます。それに、寝酒にも良いのです」

「……」


 ハルシオンはノムリスが言っていたように、はや頬が火照ってくるのを感じた。指先も暖炉の熱よりも、体の中からの熱の方が熱い事に気付いた。

 思わず右手をあげて額を拭う。じっとりとした汗をかいている。


「ほら、私の言った通りでしょう。この酒は体を早く温めて、心地よい眠りへと誘ってくれるのです――」


 ハルシオンは無意識のうちに右肘を椅子の肘掛に置き、下がりつつある頭をそれで支えていることに気付いた。隣の安楽椅子に腰掛けていたはずのノムリスが、いつの間にか目の前に立っていた。


「いい夢をご覧になることです」


 そう言ったノムリスの声が、四方八方から鐘の音のように鳴り響いて聞こえた。


「――、飲ませたんです?」


 脈が速くなり、それに合わせて呼吸も浅くなるのがわかる。

 ハルシオンは立ち上がろうとした。だが視界は霞のように白く、暖炉の炎のように揺らいで平衡感覚が保てない。


「ご安心下さい。毒ではない」


 ハルシオンはよろめきながら、ノムリスを手で押しやり、居室の外に出ようと扉へ歩いた。

 体の火照りは酷くなる一方で、口の中が燃えるようだ。そしてとてつもなく喉の渇きを感じる。夢中で体を動かし前に進もうとすると、霞の中で居室の扉が開いた――ような気がした。

 黒髪の黒い司祭服を纏った男が目の前に立っている。


「アル、ファージ……」


 ハルシオンはアルファージに向かって手を伸ばした。柔らかな布地の手触り。間違いなく目の前にいるのはアルファージのはず。

 司祭服の裾を掴んだまま、ハルシオンはその足元に倒れ意識を失った。


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