黒き聖母(1)
アルファージは司書室に入るとこほんと軽く咳払いをした。
揺れる蝋燭の光に映えるノムリスの銀髪頭が一瞬ぴくりと動き、彼はまるで時を忘れているかのように視線を彷徨わせた後、ようやく傍らに佇むアルファージの存在に気付いた。
「……随分と熱心だな。夕食の時間だと呼んだのに」
「ああ、これは司祭長様。すみません」
ノムリスはずりさがってきた眼鏡を手で押上げながら、ばつが悪そうに薄紫色の瞳を細めた。
「なんせ、
アルファージは内心辟易した。
(あんなおぞましいものの記録を読んで興奮するなど、俺にはさっぱり理解できん)
アルファージは様々な書籍や記録書が積まれているノムリスの卓上をげっそりとした顔で見つめた。
「まあ、見たい資料があったら声をかけてくれ。協力はするし、
「よ、よろしいんですか!」
がたん、と音を立ててノムリスが席を立った。子供のように瞳をきらきらさせてアルファージの両手を握りしめると、それをぶんぶん上下に激しく振る。
「ありがとうございます! いえ、これらの資料を読むのは勿論、分析したりするのにひと月ほど滞在させて欲しいと思っていたんです! 本当に本当にありがとうございますっ!」
「……あ、ああ……もう、好きにしてくれればいいから……」
アルファージは目眩を覚えながらも、この物好きな旅の神官の脳みそはどうなっているんだろうと思った。
「そこで、早速お聞きしたいことがあるのですが」
ノムリスはがさごそと積み重ねている卓上の本を漁り、比較的新しい表紙の冊子を取り出した。ぱらぱらと頁をめくり、小さく頷く。
どうやら自分用の覚書に使用しているもののようだ。
ちらりと見えた範囲でだが、そこにはびっしりと蟻のように細かく書かれた文字や、石碑の記号を写したような図形が描かれているのが見えた。
「アルファージ司祭長。実は尼僧の方にもお聞きしたのですが、アルビヨンは三年前に
「……」
アルファージは嫌悪感も露に顔を歪めた。
ノムリスから顔を背け、吐き捨てるように呟く。
「――アルビヨンの住人なら、あの時の事は誰も思い出したくないだろうよ」
それはアルファージの抱く正直な感想だった。
「ご不快な思いをさせて申し訳ありません。アルファージ司祭長。尼僧の皆さんにも同じように言われました。それは重々承知です。しかし――」
アルファージは右手を上げて後頭部を掻いた。
ノムリスは
「……アルビヨンの歴史の中でも、あの時が一番やばい状況だったことは間違いない。なんせ、突然だったからな。新月の夜、いきなり大群の
これは後になってわかったことだが、
「それは……まるで、最初からそうなるように、計画されていたみたいですね」
ノムリスの薄紫色の瞳は傍らの蝋燭の炎のように爛々と光っている。右手に握るペンが素早く覚書の上を走る。
それを横目で見ながらアルファージは両腕を組んで頭を振った。
口に出したものは仕方ない。
アルファージは観念してノムリスの隣の椅子に腰を下ろした。
「奴らはそう――その気になれば、いつだって三年前と同じように、我々を襲えるということだろう。本性さえ見せなければ、隣人として暮らしていたってわからないんだからな。でも三年前は違う。奴らは信じられない数で――恐らく三百は下らなかっただろう――アルビヨンを襲撃し、本気でアルビヨンを奪おうとしていたんだ」
「……」
アルファージはノムリスに向かって唇を歪め微笑した。
何も言わず右腕を上げて、黒い司祭服の袖を捲り上げる。
そこには獣にでもひっかかれたような惨たらしい傷跡が三本ついている。
よほど深くえぐられたのか、その傷の部分は肉が少し削げており、今も赤黒くみみず腫れのようになっている。
「俺も
「彼?」
多分ノムリスは、アルファージが誰のことを言おうとしているかわかっている。アルファージは司祭服の袖を元に戻し、再び虚しくため息をついた。
「銀光騎士団の撃つ銀の弾丸でも、上級の
彼らを守るため騎士たちが必死で戦ったが、最後は街を捨てて王城まで撤退を余儀なくされた。城門に詰め寄る
「それは……」
アルファージはうなずいた。
今でもはっきりと、あの日見た『夜明け』は覚えている――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます