白金の十字架(3)

「今月はアルビヨンの仮装行列祭りと薔薇祭が城下であるのよ! あれを見にいけないないんて信じられないわ!!」


「自業自得ですよ……」


 アナーシアは顔に押し当てていた布をエルムに向かって投げつけた。が、勘の良い従者は見事にそれを受け止めた。


「くっ!」


 アナーシアはエルムに練習用の剣を押し付けて、城内に向かってずかずかと歩き出した。


「姫、どちらへいかれるのです?」


 エルムが慌てて後から走ってきた。アナーシアは振り返った。その勢いで馬の尻尾のように結い上げた蜂蜜色の髪がふわりと舞う。


「汗をかいたから沐浴するの! 許さないから!」


 今ならエルムをその眼力だけで睨み殺せるかもしれない。アナーシアの瞳がぎらりと光る。


「わ、わかりました。ぼっ……僕は部屋で全力で待機してます!」

「ええ、そうした方があなたの身のためよ!」


 アナーシアはぷりぷりしながら城内に入った。沐浴場へ向かう石造りの廊下を歩き、角を曲がった所で壁を背にして息を整える。


 エルムが反対側の廊下へ歩いていく足音が聞こえる。勿論、こちらへ来る気配はない。アナーシアは深呼吸をした。あくまでも高ぶった感情を鎮めるためなのだが、怒りは腹の底で炎のように渦巻いている。


(ハルシオン……あなたが今どこにいるのか、私、知ってるんだから……)


 アナーシアは庭園へと出ていた。城の南側にあるそれは背の高い木々がこんもりと茂る小さな森のようになっていて、細い小道が散策の為に作られている。日暮れかけた茜色の空を見上げ、アナーシアは小道へと歩き出した。


 森へと入ると火照った首筋に木々の吐き出す新鮮な空気の冷たさを感じた。

 この森の奥には小さな東屋あずまやがある。

 アナーシアが小さい頃は、乳母がここまで連れて来てくれて、勉強したり疲れたら椅子に腰掛け眠ったりしたものだ。


 懐かしい小道を歩きながら、アナーシアは研ぎ澄まされた自分の気を徐々に鎮めていった。


 何故気配を消すまねをしたのか。

 木々の落とす木漏れ日が降り注ぐ光の下で、丸い天井がついた小さな石造りの東屋が見えてきた。東屋には緑の眩しいつる草がいくつも巻きついている。


 アナーシアは足音を立てないよう、息を潜んでそっと近づいた。

 アナーシアは知っている。

 いや、アナーシアだけが知っている。

 この東屋で、ハルシオンが夜警に出る数時間前に時々仮眠をとっていることを。アナーシアはことさら自分の気配を消して東屋の入り口まで歩み寄った。


 覗いてみると思惑通り、銀光騎士団の騎士長は中にいた。東屋の入り口に佇む聖人の像のように身じろぎ一つせず、壁に背中を預けて眠っていた。

 いや、アナーシアの目には彼自身が大理石の像のように見えた。


 夜警が主な仕事のせいか、ハルシオンの肌は陽に焼けた事がないのか、女であるアナーシアが羨むほど白い。

  銀光騎士団の白い制服の上にかかるハルシオンの長髪は、月光を思わせる見事な白金プラチナだ。しかもアナーシアのような癖の強い髪質ではなく、掌の上でさらさらと音を立てて落ちる流水のように美しい。


 そして彼の首には、アナーシアの見たことのない精密な文様で装飾が施された、白金プラチナの十字架が掛かっていた。

 すべてが白に彩られた中で、唯一の色――十字架の中央に嵌め込まれた真紅の宝石が一際鮮やかに見えた。


 銀光騎士団の至宝――今ではハルシオンしか扱う事ができない、【吸血鬼イモータル】を無に帰すことができる、『輝ける栄光Shining Glory』と名づけられた銃は、この十字架が形を変えて出現するのだという。


 アナーシアはハルシオンが自分の存在に気付いて目を覚まさないように、息を殺して彼の顔を眺めていた。


 ハルシオンが人目を忍ぶようにここで仮眠をとっているのは理由がある。

 初めて彼がここで眠っていたのを見つけた時、驚いて尋ねたのだ。


『眠いならちゃんと寝台で寝なさいよ』


 ハルシオンは、皆が仕事をしている真昼間から、自分だけ部屋で寝るわけにはいかないと答えた。


「馬鹿ね。ハルシオンは皆が寝ている夜に働いているのよ。ちゃんと仕事してるんだから、堂々と部屋で休めばいいわ。それをハルシオンがさぼってる、っていう輩がいるなら、これは――そう、命令。アルビヨンの姫としての。ちゃんと部屋に戻って休みなさい」


 その時ハルシオンは一瞬戸惑うようにアナーシアの顔を見つめていた。


「お気遣いいただいてありがたく思います。アナーシア姫。ですが部屋よりも緑の木々に覆われたこの東屋あずまやの方が、私は気が休まるのです。ここでしばし密かに仮眠を取る事をお許し願えませんか」


 この時アナーシアは十四歳だった。ハルシオンもまだ十代のあどけなさが瞳に残る十七歳の少年だった。

 そう。

 ハルシオンは『輝ける栄光Shining Glory』と名づけられた騎士団の至宝の使い手故に、三年前、銀光騎士団の騎士長を拝命したのだった。



 

「……私はもう十七になったわ。あなたの背に追いついて、共にあの化物を追い払いたいと思ってるのに――」


 ハルシオンは眠っている。東屋で眠っていたのを初めて見た三年前と、その寝顔は変わっていない。

 彼自身が言っていたが、森の落とす木々の葉の影や涼やかな風を感じられる東屋の方が気持ちが落ち着くのだと。


 アナーシアは無言でその場を立ち去った。

 吸血鬼イモータルと戦うハルシオンが、その緊張から開放される唯一のやすらぎの時を、自分の我侭で壊すべきではないと思ったから。

 城出を告げ口された怒りは、アナーシアの中からいつの間にか消え去っていた。

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