蟠り〈3〉

川崎乃無職の家へ着くまで僕たちは無言だった。学生で込み合った車内の喧騒など物ともせず、彼女は口を噤んで僕の目を見ようとしない。別に彼女に事の顛末を赤裸々に話せと言っているわけではないのに。僕も僕でなぜだか依怙地な気持ちが募ってくるのが甚だ不思議だ。


横浜で大半の客が降り、開いた座席に二人並んで座っても僕と彼女は言葉を交わさなかった。立っている間、もしかすると彼女は途中で下車し、そのまま家に帰ってしまうのではないかと震えたが、閑散となった車内で、彼女は衝立になった端の方には座らず、空いた隣の席に腰を下ろし、端の席を僕に譲ってくれた。


川崎駅の改札を潜り階段を下がる。真夏の太陽がのっそりと昇ってきたせいか、先ほどよりも気温が僅かに高くなっていると感じられる肌の痛みに、「コンビニでお茶でも買いに行こうか?」と無邪気に言葉を交わせないのがもどかしい。横断歩を渡り多摩川の河川敷までは商業ビルの立ち並ぶ直線で、灼熱の太陽がアスファルトの割れ目を光らせると、そこで粛々と生き延びているな小柄な雑草の、なんとも小さな子葉が惨めだ。家までの道のりは、以前来たことのある僕にしかわからないから、彼女は自ずと僕の後ろに構えてノロノロと歩いている。持っていた日傘は先ほどの店に置いてきたのか手元にはなく、赤信号で歩を止める間にレースのハンカチで丹念に首筋の汗を拭うと、細く白い肌の輝かしさが染みるように目に入る。僕は男なのだから、淑女にはそれなりに気を使わなくてはならないと、風のように胸に掠めるが、飲み込んだ唾の粘り憑く重さが不自然に喉に掛かって、言いようのない不快感だけが積もっていく。


川崎競馬場の白壁のスタンドが空の中ごろに見えてきたところで右折し、人家の並んだ狭い路地を黙って歩いていると、彼女が

「やっぱり帰ろうかな」

と小さく呟いた。

「嫌になっちゃった。何もかも」

暗い顔とは対照的に太陽は増々威力を増していく。端にある公園からの油蝉の鳴き声が鼓膜を突き破って脳神経に流れると、彼女と過ごした様々な記憶が飽和して、渺とした霞が目前に現れる。徐々に暗くなる視界に太陽の日差しだけがじりじりと瞼を焼いている。喉は干上がるほど乾いているのに何故だか唾液は止まらない。

「どうして?まだ始まったばかりじゃないか」

「だって何もかもがつまんないんだもん。あっちにいったりこっちにいったり……結局あなたは何がしたいのよ」


何がしたいのよ。という言葉が水の中で旋回する金魚のように何度も頭の中で反芻している。これと言っておかしな文言でもないのに。彼女は俯いたままアスファルトに落ちる冥暗を眺めている。汗を伝う前髪の筋が重なって、昆虫の触角のように微かに揺れている。つむじ風のように炎天下の情事が頭を過る。彼女の白い肌、細い腕、湿る液の重なり、嬰児のように輝く瞳。


気が付くと、大きな青空の下に僕は立っていた。上を見上げると、どこまでも続く海のように澄んだ青色が一面に広がっている。

驚くほど綺麗な青空に見とれていると、先ほどの纏わりつく暑さが嘘のように消えていることに気が付いて、不思議に思い軽く腕や足を振ってみるが、汗の伝う気配はなくむしろ心持ち寒いような気さえする。風は吹いていないのに薄荷水のような清々しさが喉から胸へ抜ける。


下を見下ろすとアスファルトではなく土の道に変わっている。砂塵が靴の辺りを掠めて散っていくのは、先ほど足を動かしたせいだろうか。そのまま何気なく辺りを見回すと、目の前に立っていた彼女の姿がないことに今更ながら気が付く。


おかしい。どこへ行ってしまったんだろう。とうとう痺れを切らして家へ帰ってしまったのではないか。乾いた空気に不安が垂れ、二車線分の長い道に沿って歩を進める。足を前に出すごとに砂利の混じった赤土が奇怪な音を出す。じゃりじゃりと、慣れぬ足取りに戸惑いながらも進んでいると、突然視界が広がったように周りの街並みが現れた。


パッと目前の霧が掃けた様に、それまで音もなく佇んでいた人々の営みが目の前に聳えていた。

西部映画に出てきそうな木造の平屋が道沿いに幾棟も並んでいる。赤土を被った支柱の様子から、しばらく人の手が届いていないと思われる酒屋のような建物に、頭に付けられた看板の「L」という文字のペンキが剥げてよく読めない。目を凝らすと、暗い店内は荒廃しているようで、木枠だけの窓から差し込む淡い太陽が、木くずと藁の散乱した内部の様子を鮮明に表していた。


ここで腐敗した白骨などが見つかれば、僕は多少この世界に対して安堵することができただろう。が、現状はそうもいかずただ彼女を探す時間だけが過ぎていた。この世界が何なのだろうと不安に似た焦りが脇汗を滲み出す。太陽の見当たらない青空に両手を伸ばし叫びたいような衝動を抑え大きく深呼吸をする。乾いた空気と赤土の香ばしさが鼻腔を擽るだけで、なんとも静かな荒れ地だった。


バス停のような柱が一本道路脇に立っていて、その横に朽ちたベンチの残骸がこんもり盛られているところに腰を下ろし、自分はいつも一人であることをつくづくと感じていた。それは見知らぬ土地で人間を探す疲労や困惑を乗り越えて、予想だにしない号泣をもたらした。


僕は大声を出し犬のように泣いた。鼻から熱いものが込み上げ嗚咽を促すと、堰板を抜いたように止めどなく涙が溢れ出てくる。生まれたばかりの嬰児が、溜め込んでいたものを吐き出して世に出てきたように。また、意思疎通の出来ぬもどかしさに、歯がゆさに、恥ずかしさに。


鬱屈な僕の心の中で燃え盛る炎の中に、彼女だけが淡い緑色の灯火を纏っていたことは事実であり、またそれが、現在の自分の状況にこれほどまで郷愁を齎していることに気が付く。彼女の存在が、何もない僕の唯一つの希望であることが、胸の底を締め付けて襲ってくる。


澄んだ青空からは判別できないが、かなり時間が経ったように思われる。塩辛い唾液を大きく飲み込んで、腫れぼった瞼を擦るのを止めると、僕は彼女を探そうと再び立ち上がり、地平線まで繋がっていると感じられる長い一本道に足を踏み込んだ。


彼女を見つける希望は持てなかったが、何故だか足は勝手に動き出した。ひとあしひとあし砂利を踏みつける度に、内部にある汚いものを壊していく感覚が心地よかった。リズムを刻み、それを心音と重なり合わせるようにしてステップを踏むと、ざわざわと細胞が蠢きだすのがわかった。無心になって道を進むことが今の自分には快感だった。進め、進むんだ。どこまでもどこまでも……


あいかわらず風景の変わらな荒涼の青空にイワシ雲のような切れ長の物体が浮かび上がった頃。もう歩き始めて二時間ほど経つだろうなと、足の痺れるような重みでびっこを曳いていた僕は、ふといつもと変わらぬ荒廃した街並みに、若干の変化が起こっていることに気が付いた。


それは匂いだった。意識を取り戻し、わけのわからぬまま歩を進めた初めの地点と、今、状況はさほど変わってはいなかったが、かなりの距離を歩いて辿り着いたこの地点とは、空気に含んだ水の量や赤土の柔らかさが、微妙に異なるような気がして、僕は足を止めると周りを見回した。


変わらぬ西洋劇の、木造の建物が道沿いに並んでいた。なぜこうも、一軒一軒が同じ造りにならないのだろうかと感心したくなるくらいに、どの建物も個性を持っていて、例えば今目の前に構えている馬小屋のような見た目の建物は、もう幾度となく見てきた平屋風の建物に、小さく二階を取り付けたような建築様式なのに、使っている木材が異なるのか、色が微妙に薄い。支柱の隅に溜まっている土埃も、二キロほど前の物に比べると硬く、何年もの間に風で流されてきた赤土が、雨などで固まった証拠のようにも思えて、いつまでも変わらぬ風景に半ばヒステリー見たくなっていた僕の寂莫とした気持ちが、いくらかは薄れていくのを感じて安心した。この見知らぬ土地でも雨は降るのだなと、静止した世界に閉じ込められているのではと錯乱気味になっていた僕の心に、思わぬ安定剤のようにその建物はいつまでも頭に残った。


またいくらか進んだ頃、今度は東から静かに風が吹いてきた。それも肌を突きさす、痛々しいくらいに冷たい冬の風だった。

僕は驚きと共に歓喜の気持ちが沸き上がってきて、その風の吹いてきた方向に大きく手を振った。天候も気温も変わらぬこの世界に、思いがけぬ自然現象が訪れたのではと一瞬頭を過るが、重みを含んだ風は耳を切るような嚠喨りゅうりょうとした音と共に、鬱蒼とした草花のせせらぎが、鼓膜の奥に流れた。


川だ!近くに川がある!僕はもう何時間と進んできた一直線の土道を逸れると、草むらに寝転ぶように前かがみになって廃墟の建物に飛び込んだ。木片瓦礫のようになった掘立小屋は僕の体重で音を立てて崩れると、土埃と砂塵の舞った霞から、徐々に麗らかな小川が現れた。


川幅の広い綺麗な水だった。太陽に照らされて、底に潜む石の大小までもがくっきりとわかる透明さに、安心に似た清新さが過る。密集した林を遠景に、まっすぐに伸びる小川が目の前にあった。中腰で河原に駆け寄ると、両手で掬い取ってしげしげと眺める。水だ!自然の水だ!と目を輝かせながら口に含むと、いつもと変わらぬ味なのに、まるで何年もそれを口にしていなかったかのような刺激が咽喉を打ち、やがてそれが、潤いと爽快を齎して僕はその場に倒れ込む。


耳の横を水の流れが響いている。目を瞑ると、何とも心地の良い寛ぎが胸に膨らむ。このまま家に帰れないのではないかと、幾度となく過った不安が払拭されていくかのように、血管を詰まらせていた屑物が剥がれていくのを感じる。


そのまま深い眠りに落ち、目を覚ました時には日が暮れかかっていた。

焦点の定まらぬ薄眼で、やはり最初にいた場所とここは違うのだなと、暮れ行く茜色の空に斑な雲が浮かんでいるのを眺めていると、川向うの林から甲高い女の声が聞こえた。


急激に身体が強張るのを感じた。人という存在が間近に表れた感動が、それまで怠け切っていた気管を刺激して、早くそこへ行けと促している。僕は川面に両足を突っ込んで、たしかに人間の声がした木々の中へと走っていった。


ちょうど後ろの景色がわからなくなった林の真ん中あたりで再び女の嬌声がした。夕焼けの燃えるような太陽の光が木々の隙間から葉を照らし、頭上にはもう灰色の墨を被った三日月が僕を睨んでいた。息をつくのも忘れていたのか、立ち止まると急激な嗚咽が舌を暴れる。心臓の萎縮が激しく響いている。陽が暮れる前に見つけ出さなければと、朦朧としながらも考える。


その時、木々の隙間を射した光が、僕の目を導くかのように一点を示していた。低木の茂みに近寄って、明らかに人間であろう姿を目を凝らして眺めると、それが徐々に陰影を成して女性の形を映し出す。


成熟しきったその身体は、まさしく彼女のものだった。肩から上膰にかけての滑らかな稜線、左右に揺れる豊満な乳房、凹凸のはっきりした腰と腹、そして伏し目がちな黒い瞳は、まぎれもなく彼女の身体だった。


けれど彼女の背にぴったりとくっ付き、声を殺して吐息だけを荒く吐き出している獣のような存在が、林を覆いつくす闇夜の中で、汗の滴る肉付きのいい上腕に光るのを、僕は驚嘆もせぬ冷めきった眼で見つめていた。


帰ろうと僕は思った。家にではなく巣へと。もうこの世界は僕のものではないのだ。創り上げてきた虚像を壊すのは心苦しいけれど、望んでいた世界とは違う世の中になってしまったのだと思った。


僕は空を見上げた。薄い藍色の空に散りばむ星々の瞬きが、中央で輝く三日月を大きく映していた。この世界でも月は綺麗なのだなと独り言ちて、元の世界の騒擾な荒野へと想いを馳せた。


あそこでは毎日何万という人間の生と死が存在し、実る果実の豊饒さが舌を跳ね、蟠りは絶えず、粗暴を極める者もいる反面、美しく屹立する薔薇に涙を流す善良も僅かに残っている。

僕は照り輝く三日月を眺め、あと何回この星を眺めることができるのだろうかと考えた。この世界とあそこの世界とでは何か決定的に違うものが存在するのだが、それをうまく言葉にすることができなくて、僕は声を出さずに泣いた。


絶望した心の中に仄明るく残っていた彼女の顔が徐々に薄れていく。僕は涙の伝う頬を月光に当て、何かを誓うみたいにいつまでも輝きの粒子を眺めていた。


この失敗はいつか必ず役に立つ。大事なことは、悄気しょげたって、くずおれたって、粘り強く立ち上がって前に進むことだ。止まっているだけでは、何もしていないことと同じだ。胸に刻んだ言葉を確かに抱き上げで、小さくなった僕は母のお腹に帰るのだった。


《了》

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あるヲトコの一日 なしごれん @Nashigoren66

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ