蟠り〈2〉

腕を無造作に交差して、階上から時折響くレールの吠えるような軋みに耳を傾けながら、僕は朝食を取った後に川崎乃無職のところへ行こうと考えた。彼のような不貞者ならば、今の僕らの状況を瞬時に理解して、一日や二日家に泊めてくれるかもしれないという僅かな期待が胸の内に起こって、僕はこの考えを直ぐにでも彼女に伝えようと思い席を立った。


二年前、駅のホームで出会ったその男は、鼠色のダッフルコートの中にオリーブ色のセーターを纏い、方々に伸びきった前髪が鼻先を掠め、黒と白が混じった髭は真冬の寒風で揺れていた。

その時、寝過ごして一限目をすっぽかした僕は、学校へ行くべく速足でホームの階段を下りていたのだけれど、段の中腹くらいの場所で危なげに転寝をしていたその男を見つけ、通勤者に踏まれては可哀そうだからと、肩を軽くゆすって起こしてあげようとしたところが、僕と男の初めての出会いだった。


男はうろこ状に乾いた瞼をひくひくと上下させ、顎周りに纏わりついた口髭をもごもごと動かし何かを訴えていたが、僕はその男の、容貌や服装からは到底想像できない澄んで潤んだ瞳の、生命力の溢れる屈強な目力に感動して立ち竦んでしまった。男の黒ずんだコートや糸の解けたセーターから発せられる匂いは、煮干しや海草で採った出汁のように甘く香ばしかったけれど、起きたばかりの手を温めようと、躍起になって白い息を吐き続ける男の口からは、晴れた日の麦のような香りを放っていて、その生まれつきの体臭というものは、冬枯れの閑散としたホームの中でも目立たたずにむしろ自然の雄大な香りとして、僕の好奇心を動かす梃子の錘には充分だった。


僕はホームの端に置いてある自販機まで走り、温かいお茶と栄養食を渡したが、男は僕に優しい笑みを向け、手を上下に振って中々受け取ろうとしない。僕は時間の電車に乗り遅れてしまうからと、半ば強引に男の皺まみれの手に品物を押しつけて、ホームの並び列に足を進めようしたが、男は僕の制服の裾を強く握り制止しようと試みた。

「なんだよう。僕は学校に行かなくちゃいけないんだ」

寒さから多少覇気の無い語調になってしまう。僕は男の手を離そうと引っ張るが、意外にも力のこもった指は開こうとしない。なん悶着かして、僕は仕方なく男の隣に座り、ホームに入ってきた急行電車の乗降を黙って見つめた。すると静謐な廊下をトボトボと歩き、開いたドアから生徒らと担任が一斉にこちらを向いて、まるで一日の主人公みたいな立場にされる嫌な学校の図が脳裏に浮かび上がり、速度を上げホームを離れていく銀車体の渦に巻き込まれながら、つい先ほど下した決断が英断のように思えてきて、僕は隣の男に

「家に帰らないの?」

と聞いた。

「……ない」

しわがれの返答は、一瞬高い音を出して白い息となった、

「ない?家がないの?」

「……あし」

「足?」

男はそう言って左足を指す。初めて会った時から気になっていたが、男の右足は綺麗な直角で曲がり、端正に下段に足が着いているのに対して、左足はだらんと不自然に垂れ、段の縁から外れるように下がっているのであった。

「動かないの?」

無言で頷いた男は端に架けられた手すりを左手で掴むと、右足と左腕に力を込めるようにして一瞬身体を上げるが、右膝が垂直に伸びきる前に腰を下ろしてしまう。その後も何度か試してみるが、力を入れる足や腕に震えが増していき、口からは白い息とともにハアハアと喘息が漏れ出したので、僕は男を座るように促してペットボトルの蓋を開けた。

「わかったよ。左足が動かないんだね」

僕は男の背中を擦ってやる。ペットボトルの口から零れた液体が、男の口髭を濡らして階段に滴る。途端に向かいホームの列車が烈風を起こして通り過ぎると、肌を刺す寒風が濡れた口元を痛ませて、その物悲しさが哀れに見えてくる。僕は男のコートのポケットから川崎行の切符を見つけると、腕に肩を回してホームまで負ぶってやった。男は申し訳なさそうな表情でぶつぶつと何かを言っていたが、ホームの半分くらいまで来たところで突然ガアガアと喉を鳴らし、壁際のベンチに腰を下ろしたいと訴えた。

僕は男をベンチに座らせて、手に持った切符を落とさないように、財布に入れることを勧めると、男はぶかぶかで破けたシーパンの尻ポケットから合皮の二つ折り財布を取り出して、申し訳なさそうにそれを見つめる。


思いのほかこんもりと盛り上がっているきつね色の財布に驚いて、僕は「おっちゃん。お金持ちなのかよ」と声を弾ませて聞いてみると、男は嬉しそうに口を開けて笑った。


意外にも歯は白かった。僕はひょっとするとこの男はどこかの成金なのかもしれないと思った。身なりや服装に無頓着なだけで、実はとんでもない資産を蓄えている富者なのではないだろうか。立ち止まって介抱をしてくれる親切な若者に感謝の印しとして、少しばかり弾んだ謝礼を渡してくれるのだろうかと秘かに期待して、慣れた手つきで財布を開く男の横顔を生唾を飲んで見つめていた。


すると再び反対ホームから列車がやってきた。轟音を立ててホームになだれ込む列車は先ほどのよりもどことなく瀟洒な外装で、澄んだ冬空に映えるように真っ黒な車体を弾ませて、光のように駅を通過していく。僕は突然の警笛に驚いて、その快速列車が駅を通り過ぎていくのをひたと眺めていたが、一瞬ホームに巻き起こった乱気流のような風の流れが僕の周囲に押し寄せて、塵芥の入った眼を擦りながら薄く瞼を開くと、庇の逸れたホームの真っ白な冬空に雪が舞っている。驚いて目を凝らしてみると、薄ぼやけた視界に映ったのは白く角ばった紙片で、通過した列車の凪いだホームの閑散に、外れた舟券の夥しい乱舞が、僕と男のいる壁際のベンチにいつまでも滞っていた。


それから僕は男と会うようになった。彼は基本的にラッシュ時の終わった駅前か、舟券売り場の屋台前に居座って眠っているからのどちらかで、僕が声をかけると気さくに「ほぅ」と歯の抜けたようなしわがれ声を出して快く出迎えてくれる。その日は、学校をサボって男の日課である散歩に付き合ったりして遊んだ。彼は仕事中に左足を骨折してしまい、入院費を全て競艇に使ってしまったから、あの日は病院に行くことも家に帰ることもできなかったのだと、口内炎のある唇を煩わしそうに舐めながら答えていた。


彼の家にも一度行ったことがある。多摩川の河川敷沿いの通りを川崎競馬場の方に曲がった住宅地の、年季の入った仕舞屋風の一軒家。ガタガタと今にも崩れ落ちそうな格子戸を開けて中に入ると、薄暗い部屋いっぱいに腐臭と熱気が立ち込めている。足のふみどころのない三和土を上がりキッチンを横切ると、丸まった新聞紙が山のように積まれた四畳間に案内される。黄ばんだ布団を中央に、卓袱台と座布団の上に容器が散乱して、中にある残飯の甘酸っぱい鼻を突く香りが、まるで男を誘う女の媚香みたいな匂いを発散させ、周りの蛾や蠅を天井に引き留めている。


僕は部屋に入って二三分で立ち眩みがして、慌てて足先に置いてあった、洗面器かどうかもわからないバケツに嘔吐して、身体中からみるみる水分が失っていく恐怖と悪寒にその場にうずくまって耐えていたが、男はそんな僕を不思議そうに眺めて「らいじょうぶ?」と呟くと、箪笥の方からごそごそと黄色い飴玉みたいなものを取り出してきて、「これを食べればおさまるよ」とニコニコと悪意のない笑みを浮かべてくるものだから、僕は涙目になってその善意に答えないわけにはいかないのだ。


そんなことがありながらも、僕は男と会うことを辞めなかった。男の部屋は汚くて腐臭にまみれていたけれど、不思議と彼の衣服や身体からその匂いはしなかった。見た目の相違から、彼の体臭があまり気にならないのだろうかと曖昧に考えて、僕は彼の家に積まれてある古めかしい雑誌の中から、若き日の女優の濡れ場記事を開くと、陽が暮れるまでその情事の詳細を細部にわたって妄想し二人語り合った。男に家族はいないようだった。やがて多摩川の空を染めた太陽が、男の脂の詰まった目尻の奥を柿色に染めた頃、ふと窓側に目を置いていた男の口に、悲哀の混じった嗚咽が漏れた。


驚嘆も戦慄も身体には走らなかった。ただ麗らかな春の西日が男の部屋いっぱいになだれ込み、鼻をすする低い音だけが耳に反響していた。涙の滴が開いていた雑誌に落ち、白く汚れた女の裸体に流れる。連なる民家の低木の隙間から輝く多摩川が見えた。

僕はその時初めて男が妻と娘を事故で亡くしたことを知った。


それから僕に彼女ができ、学校をさぼって川崎乃無職のところへ遊びに行く頻度は減ってしまったが、それでもたまに駅前の支柱に凭れて安酒を飲んでいるところに運よく遭遇すると、彼は笑って僕にグラビアカードを見せてくれる。歯の白い、いつもの彼の格好だ。


そうだ、彼の場所へ行こう。彼にはまだ彼女のことを話していない。彼はいつも僕に競馬や競艇について詳しく説明するが、僕の生い立ちや素性については決して質問しなかった。彼はあの身なりからは想像もつかないほど繊細で思慮深い人間なのだ。ただ、人生の機転の利かない歯車に狂わされ、その本質を見失ってしまっただけなのだ。よし、川崎へ行こう。彼は人当たりがいいから、きっと僕だけでなく彼女も気に入ってくれるに違いない。


そう思って、僕はなかなか帰ってこない彼女を不審に思い、席を立つと店の奥へと歩いていったのだ。カウンターのような厚い区切りを跨いで厨房に入ると、暖簾の垂れた先が暗闇になってよく見えない。細い通路の壁際は油で汚れ、高架下の軋みと隣のスナックのカラオケが僅かに聞こえる。そのまま意外にも長い通路を壁に手をついてよろよろと歩いていると、一室だけ明かりの灯っている部屋に辿り着き、勢いよく扉を開け中を覗くと、見覚えのある裸体が目の前に現れた。


黒く汚い尻が上下に震えていた。驚いて、ドアノブから手を放さず傍観していると、こちらに気が付いたハゲ面が、申し訳なさそうに俯く姿が苛立たしい。掴んだ腕のほっそりとした肉付きの動きが止まり、汗で滲むうなじの乱れが治まると、飛び出しそうな鼓動を飲み込んで僕は

「行くよ」

と荒々しく叫んだ。

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