蟠り〈1〉
旅をしようと考えたのは今からつい三十分ほど前のことで、その時僕は熱心に机に座りひとり物書きの作業を進めていたのだけれど、背後から獲物を狙うような眼で近づき、「おにいちゃあん」と台湾カステラでも頬張っているかのような歯の抜けた物言いで、目の前のパソコンをハンマーでたたき割る母親の姿を見てからというもの、僕は今後一切彼女と関わりをもつのは辞めようと、携帯をポッケに突っ込んで家を飛び出したのであった。
冷笑な視線とは裏腹に、外は真夏の太陽がじりじりとアスファルトを焦がして、行き交う人らの首筋や頬に汗を募らせている。時折、東から港にかけて吹き降ろされる風も、アスファルトを焦がした後の重々しい空気が、柚の甘酸っぱい臭気と湿気を含んだ風鈴の淡い音色を絡めて僕の鼻先をかすめると、途端にソーダ水を飲んだような清涼感が胸いっぱいに広がる。ああ今年も夏がやってきたのだなと独りごちて上を見上げると、積み上げたウールのような質感がマリンブルーの空を侵して伸びている。どこからともなく一機の飛行船が海を渡るかのようにのろのろと視界の端へ現れては、それが木っ端みじんに爆発し塵芥となった破片が涼風にそよがれ青々しい向日葵の養分になることをなぜだか願っている自分が忌まわしい。
右足を出すにつれ、出際にポッケに突っ込んだ携帯の重々しい感触が思い出されてとりあえず電話帳を片っ端からかけてみる。財布を忘れたことが悔やまれるが家に戻ることが躊躇われるのは母親の、あの猛獣のように勇ましい出で立ちを持ちながら思いがけず死に際の蛇のような冷美な視線を向ける一瞬に、何を思い出したのか幼い頃のまだ健常だった自身を想起させるような、改まって静かな瞳をカーテンの裾に投じる時の残酷な様相が、僕を居たたまれない気持ちにさせるからで、一刻も早く家から飛び出し自由になりたいと強く乞われたのは、そんな不穏な日々の積み重ねから生じた一種のBug。腹の奥に溜まった義憤が何かをきっかけに溢れだしたようなものなのであった。
だから僕はもう二度と家に戻りたくはなかったし、母親にも会いたくなかった。電話帳の上部に表示された『ハニー』という文字を二回押し、三度目のコールで彼女の声が聞こえると、僕はその場で飛び上がり、渇いた舌先から何とか風を切るように発声して、猛禽のように喉を上下に慣らし、道行くサラリーマンを威嚇することに努めた。
興奮がみるみる身体中を汚物から洗い出し、期待と焦燥から自然と笑みがこぼれた。僕は左角に店を構えるクリーニング屋の蔦の絡まった室外機に吐しゃ物をまき散らし、獣を見るような眼でその場に立ちすくんでいる中年の店員に「おはようございます」と元気よく答えて、彼の靴際に放り出された竹ぼうきの柄の部分に汚物を与えてやった。
彼女がやってきたのはそれから十分後のことであった。僕はその間ひとり溝に溜まる塵芥を指に巻き付けて遊んでみたり、その暑さから、首に手拭いを巻く老人の乗った自転車が横を通る度に、激しい嬌声を浴びせ平衡を失った身体が焼け付くアスファルトに落ちていくのを侮蔑と嘲りで向かえたり、雑誌コーナーでマガジンを読みふけている青年のエロ顔につばを吐きかけて、窓を拭くコンビニの清掃員を困らせたりして彼女を待っていた。
白いレース調の日傘を携えて現れた彼女は僕より少しだけ背が高く、馬鹿に大きなリボンを付けたノースリーブブラウスの下に水色の薄手パンツといかにも夏らしい装いで、道の中央に屈んで排水溝を眺めていた僕を見つけると、弾けんばかりの笑みを向けて近づいてきた。
「どうしたのよ、こんな朝から」
「うん。ちょっとね」
僕は背むしのまま排水溝を眺め呟く。背後に立つ彼女の日傘が僕を覆うので、溝に溜まる下水は陽の光を遮られ黒く澱み、その間だけ僕は彼女を気にせずに遊びに熱中できるのだった。
「何か困ったことでもあったの?」
「うん」
「教えてよ。何があったのか」
「うん」
彼女が僕の隣に屈むと、先ほどまで陽を隠していた日傘が横に移り、頭上から夥しいほどの光の粒が僕の背後を焼き始める。目前の下水の流れが汚物を反射して輝かせると、僕は月の現れたオオカミになってしまうのだ。
「エッチしようよ。今ここで」
通勤に犇めく大通りの自動車の喧騒をかき消すように、僕と彼女はひとつの塊になって声を漏らしていた。道路わきに構える雑居ビルの大理石の白さが、彼女の透き通るほどに雪原な上腕を微かに映し、陽の当たった部分が、モンタージュのように質感をめぐらせて荒々しく息をつく僕の眼に現れると、途端に時の止まったような不均衡な衝動が内部に走る。下を向くと、履かれたドールシューズの横に暑気を纏った日傘が乱雑に倒れ、レースは汗と泥で濡れ、柄の部分はゴミがかさ張り、カレット舗装のガラスが海原のように揺らめいている。
目を瞑ってもこの粘り憑く暑さから逃れることはできないから、何かを乞うように。例えば広がった砂漠を練り歩いた先に、蜃気楼か疑わしいオアシスを見つけてその場に崩れるみたいに。僕はただ湿り気を弾んだ脂肪の奥に漂わせている彼女の、意外にも蠱惑的な厚みが感じられる腰肉の窪みに、逃れられない執着を感じて離すことができず、ただ己の快楽だけを朦朧と楽しむことしかできないのだ。まだ東に出たばかりの太陽が、排気ガスやサラリーマンの鬱憤を運ぶのと同じように、僕たちの繋がった腕と脚の僅かな間から、何かを向かい入れるみたいに執拗な光の粒をいっぱいに湛え、漏れ出した汗や液と混じって恍惚の表情を一層魅力的に、また幸福にも映しているのであった。
「朝ごはん。まだ食べていないんでしょ?」
「うん」
向かいのクリーニング屋の庇が陽を遮っているため、一段高くなった淵石に腰を下ろす僕たちは多少暑さから逃れることができたのだが、代わりに待っていたのは一抹の不安に加え、空腹と虚無感に似た自失だった。
「駅の方に行こうよ。そっちならこの時間でもやっている店があるから」
そう言って立ち上がった僕に、彼女はまだ疲れているのか、訝しそうな面を一瞬浮かべ僕の肩を掴むと反動でその場に立ち上がり、タクシーを捕まえるべく道路わきへと小走りで弾んでいった。
商業ビルが立ち並ぶ駅前は人でごった返していた。昨年新しくできたばかりの大学ビルのミラーがいっぱいに溜めた光を渦状に放し、何とは無しにローターリーに佇む青年らの頬を光らせると、青に変わった信号機の横をセーラー服のお下げが俯き気に歩いていった。
高架下の駐輪場や飲み屋が犇めく一画にひっそりとその店はあった。新しく店を構えた初々しいチェーン店とは異なり、何とも歴史が感じられる年代物の柱には、木目の浮き出た板に小さく「開店」の文字が下がり、端に付けられた面長の二つの擦りガラスは、金剛砂でその内部の明かりがうっすらと判別できるだけで、客の有無は中に入るまでわからない仕様だった。
隅に空き瓶の置かれた扉を勢いよく引き、板の引き締まった音が頭上を振るえると、天井に垂れた穏和な明かりとは裏腹に、流れるような冷風の肌を突くような痛さに慌てて手を添えて、姿を現さない店主の「っしゃい」という思いのほか覇気の無いしわがれ声が奥の方から反響して聞こえた。
十畳ほどにしか感じられない狭い店内には、向かい合ったテーブル席が五席はみ出すように位置され、何重にも四隅をテープで留めた跡が窺われる注文札には、達筆な毛筆で珈琲とか生姜焼き食とか書かれたものが一面に貼られていた。入口の頭上に置かれた黒ずんだクーラーの口から細長い紙片が生き物のように蠢き、頭上を通過するJRの軋みが高架下の心持ち暗いように感じられる店内に響いて、その間だけ緊張の走るような胸の悪さに襲われなければならない。
水を持ってこない店主に辟易しながらも、僕は入口付近の横に彼女と座り、何とはしに壁際の注文札を眺めていると、先ほど嵐のように行われた情事の余韻が、唐突に冷風を遮って胸底から沸き起こってきた。灼熱のアスファルト道の真ん中で、脇目も振らず我武者羅にただ己の肉欲を満たそうとしていた自分の姿が、理性の効かない獣のような眼を一瞬脳裏に浮かび上がらせ、呻吟も不憫も感じずに、ただひたすら流れるままに事を終えた目の前の彼女の徐とした態度が空恐ろしく、僕は店に入ってからまともに顔を合わせないでいることに初めて気が付いた。
「何が食べたい?」
「なんでもいいよ」
「じゃあハンバーグとか?」
「……うん」
「エビフライ定食は?」
「まあまあかな」
「いっそデザートだけにするとか?」
「甘いのはいいかな」
手元で携帯を弄りながら尚も顔を上げずに言葉だけを返すと、溜まった剣呑は腹上で膨れ上がるばかりで、後ろめたさまでもが次第に募っていき、まるで顔を上げることが大偉業のように感じられるのはなぜであろう。彼女は少しして店主を呼び、返答がなく、奥から物音がしなくなると椅子から立ち上がって、安否を確かめるみたいに素早く店奥へと駆けて行った。
取り残された僕はようやく顔を上げひと息つくと、捨てられた子猫みたいな心寒さが胸を覆ってくるのを、やけに風量の多い頭上の冷風のせいにして、彼女が戻ってくるまでの心の整理と、これから先旅立つための計画を思案するべく、両腕を交差して瞳を閉じてみるが、浮かび上がるのはマッパの乱れた男女と、その奥で雄々しい叫声を上げている獣じみた者の厳つい眼だけであり、僕を救うための手立てというものは、今まさに居なくなってしまった彼女という存在だけであるということが、身にしみて感じてくるのが無様で情けない。
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