優等生 〈後〉

ダッシュして体育館へ着いたものの、待っていたのは腕の血管を浮き立たせた教務主任の閻魔顔と、整然と体育座りをするクラスメイトの冷ややかな視線だった。


僕は精一杯謝意のこもった表情を浮かべ頭を下げた。弁解や言い訳より先に頭に浮かんだのはFの、絶頂寸前のあの薄ら顔だった。Fの隠された性癖は、自己を中心にそれを終えることができるというのが唯一の利点で、他にあるというものは、腐敗した吐瀉物よりも汚い漆黒の芯根だけなのだ。彼の自分勝手な野放図自慰(オナニー)に付き合うのはもう辞めよう。僕は大木の陰から、ひっそりと毒リンゴを食らうプリンセスを誰に気づかれることなく共感していればよいのだ。叱責で自我を保とうとする主任の荒声に、一ミリも注意を注ぐことなく僕はそう思うのだった。


主任が叱責している間にも、Fはまだ体育館に現れなかった。地べたに座っているクラスメイトらの視線が痛い。眼を合わせずに伏せているからか、クラスメイトの表情が気になって、下に向けられた視線を横へやると、列の中ほどに座っている室瀬と目が合う。

びっくりして、途端にまた下を向いてしまった。一瞬でも彼女と目が合ってしまった事実は、徐々に僕の内にあの時の情景を映し出し、下腹部の神経が時を刻む秒針のように高鳴ると、羞恥と快感の交錯した何とも言えない気持ちに僕はつばを飲む。あの一瞬、彼女は叱られている僕のことなどまるで気にしていないような放心した表情で、退屈気に視線を宙に浮かべていたのであった。


五分ほど冷静に叱責した主任は、見せしめに成功したような誇らしげな笑みを一瞬だけ僕に向け、未だ体育館に現れないFのことを聞いた。

「何やってるんだアイツは」

「わかりません。多分、体調が悪くて保健室にでも行ったんじゃないですか」

「お前、ちょっと見に行ってこい」

主任は今日のアルティメットで使うフライングディスクを生徒たちに配りながら、面倒くさそうに言った。僕は金輪際アイツと関わるは辞めようと、つい今しがた決意したばかりなのに、この表明が一瞬にして音を立てて砕け散ってくのを感じながら、それでも般若の表情をした主任と残り時間を過ごすのも居心地が悪いと思い、僕は彼を探しに体育館を駆けだした。


階段を駆け下り、中庭を通って一般棟へ入る。授業中の校舎はどこも圧迫した空気がフロアを漂っている。階段を二段飛ばしに四階へ、そこから僕たちの教室がある突き当りまで歩いていく。隣のクラスの英語教師が声高にジョークを言っているのが煩わしいくらい耳に響く。教室は直前まで来てもひっそりとしている。果たしてFは中にいるのだろうか。


勢いよく前ドアを開き辺りを見渡す。広い教室、いつもの机、隅に溜まった塵ゴミが床をかすかに舞う。着替えを行った後だから、椅子が机からはみ出して通路を侵している。

カーテンの裏を探しても、午後の陽光が肌に纏わりつくばかりで、Fの姿はなかった。

おかしい。僕はつい先ほど彼に投げつけた教室の鍵が、教卓の真ん中に丁寧に置かれているのを眺め、Fは決して保健室などには行っていないのだと確信した。だとすれば、彼は一体どこへ消えたのだろうか。

僕は彼の机やロッカーを調べ、何か伝言を残したのではないだろうかとノートや教科書を探った。ダイイングメッセージを残してどこかへ消える。皮を被った異常者ならやりかねないことだ。けれどどこを探しても、Fの居場所の手掛かりになるようなものは見つからなかった。


大きくため息をつくと、急に冷めたばかりの憤怒がのし上がってくる。アイツのせいだ。アイツが俺を巻き込んだばっかりに、こんなことになったんだ。僕は彼を見つけられずに、体育館へ戻った時のことを思うと身体が縮み上がった。主任の怒号が脳に響き渡り、授業後のクラスメイト達に合わせる顔がなかった。今置かれた立場から考えれば、僕は彼を見つけること以外に道はないのだ。


一先ず保健室へ行こうと椅子から立ち上がろうとした時、斜め前の机が目に入り思わず立ちすくむ。なぜだか血の気が引いていくような感覚が僕を襲い、過剰に分泌された酸っぱい唾液をごくりと飲む。


室瀬友美の机の前で僕は立っていた。

途端に目の前は、夕日に包まれた放課後の情景に移り変わり、正常さを失った彼女ひとりが、机上の一点をただひたすらに見つめている。


狼狽は急激に熱情へと移り替わっていた。カーテンの隙間から漏れ出た陽光が机の縁を優しく照らしていた。光沢の浮かび上がった彼女の机はもはや僕には神々しく見えていた。


アイツだ。アイツのせいなんだ……獲物を狙う捕食者の足取りで机に近づいていくと、目の前に存在する机が人間の形を帯び、反射した陽の光が温かい柔肌を連想させ、まるで室友美がそこにいるかのような幻覚を創り出す。机上に寝転がるようなポーズで頬杖をつき、優しい肩甲骨を静かに浮かした背は、ほっそりとした腰から尻にかけて厚みを増しており、机上からはみ出たおみ足は、湯切り終えたうどんのようにすべらかな光を、その肌に存分に含んでいる。顔を窓一点に集中させ、僕が何と言っても振り向いてくれそうにない粗野な冷気を、湿った教室いっぱいに放っていた。


汗ばむ背中をそっと触るとひんやり冷たい。彫刻のように滑らか虚像は、神経を繋ぐ脳にくっきりと陰影を示している。そのまま抱きしめると、空疎な教室一帯に花が咲いたような清新。瑞々しさが広がる。


僕は夢の中で何度も彼女を抱いていた。陽に照らされた白薔薇が床を張り、全身のとげが僕を包む。ほんの少しでも動いてしまえばたちまち全身血だらけになってしまうような、力強い茎に身体を奪われ、一センチばかり下に視線を向けると、幾重もの純白な花弁から彼女が顔だけを出している。とろけそうなほど甘いにおいを発しながら僕を誘惑しているのだ。


僕は花弁に「ダメだよ…」と小さく息を吐き、その場を離れようと腕を動かしてみるが、白薔薇は僕を強く締め付け逃れることができない。太く厚い茎の表面に、何本も伸びた棘が皮膚を貫くと、途端に鮮明な紅が溢れ出て茎を伝う。悶絶とまではいかないが、淡く刺激的な感覚が脳を襲う。離れることができないのなら、今度は強く抱きしめてやろうと、身を縮めて顔を近づけるが、蜜の詰まった彼女の身体は、その何十倍もの厚さで茎に覆われ、今度は先ほどよりも鋭い棘が手足を突き刺す。


離れることも、近づくこともできないのだ。僕はただほんの少しだけ、自分の真下に存在する白薔薇を見下ろすことしかできないのだ。甘く透き通った室瀬友美の純とした肌を、自分の手で確かめることなどできないのだ。


僕はその場で放心したように動かなかった。頭の中は感情と理性が浮き出た闇鍋のように混沌としている。ふと下を見つめた時、皮膚から溢れた血潮の流れが、徐々に根を張る床のタイルを侵していることが、今置かれた状況に対する唯一の答えでもあった。


その時僕をひとつの決心をした。そうだ、彼女と同じように草木になればよいのだ。陽の光を存分に浴び、逞しさをその幹や根に強固に張り巡らせている樹木に。また雨風にさらされても悠然と、その屹立さを葉や実に美しく現わしている大輪に。よし、僕は立派な花になろう。全身白薔薇の茎に縛られ、身動きの取れないまま苦悶していた僕は、そう考えてひとり笑った。


僕は身を固め、地中奥深くに根を張ることに意識を集中させた。たちまち足先の血管が流氷のように浸透し、固定された僕の身体は肩を揺らせど動かなかった、


僕はとても満足して鼻下の白薔薇を見つめる。乳白色の光を帯びた花芯は、絶えず淫靡な香りを放っていて、その奥に埋もれた彼女の顔が、うっすら微笑んだように僕には感じられた。その時僕は思った。彼女の添木ではないけれど、せめて彼女が長く生き延びられるように、上から支柱のように支え、行く先を指針する役割を担うことはできないものだろうか。内部に入ることはできないけれど、外側から午後の日差しのように温かく麗らかに、彼女を見守っていることさえできれば、それだけで十分ではないだろうか。


足先から徐々に浸透してきた根が、太腿を大根のように固く太い幹にさせ、筋肉を浮きだす血管が、次第に鮮やかな葉脈となって伸び始める。鼻先に水っぽい青草の香りが広がると、もう僕の首下まで緑が迫ってきていた。


僕は歯を食い縛ると大葉の伸び始めた両腕で彼女を抱きしめた。彼女を包んだ白薔薇は、一瞬呼吸をするようにビクンと揺れ動き僕の身体にかさばると、生暖かい血の流れる感触が僅かに甦り、衝撃に似た慄きと忽然と沸き上がる快楽が押し合いへし合いになって臓器の隅々を回り始める。顔の半分が植物になり、手足の動きを封じられた僕の混乱した頭の中で、冷え切ったタイル張りの空疎な教室で、静かな寝息を立てている彼女の端正な寝顔と、肌を突き破り浸透してくる白薔薇の棘から発せられる、危険信号のように間歇的な毒々しい液体が血管を巡回し始める。それが僕の脳に到達するころには、きっと瑞々しい大葉をその茎に携えた、立派な大輪になっていることだろうと、朦朧とした意識の中で尚も僕は彼女を抱きしめ続けている。


パッと目の前が白く輝いた。それは一二秒間僕の前に現れたのだけれど、暗くも明るくもなく、奥行きも感じられないまるで画用紙の中にでも入ったかのようなその無機質な景色が、僕を何時間もそこに閉じ込められたような焦燥と脱力感を襲って狼狽させた。


彼女が立っている。僕のほんの一メートル先に彼女が立っている。


彼女は僕を見つめている。真っ白いセーラー服を纏って僕を見つめている。


僕たちは向かい合って互いを見つめている。白壁の部屋に閉じ込められたみたいに静謐で、けれど決して圧迫感などなくむしろ清々とした。


そんな場所に彼女と僕だけが立っている。


彼女は絵画や彫刻のように静物。けれど瞳だけ樹脂を塗ったようにピカピカと照り輝いている。


安堵、幸福、解放。そんな色などまるで帯びていない。


緊張、侮蔑、後悔。いいやそんなものなど一切感じられない。


澄み渡る世界は僕と彼女だけのものなのだ。部外者の存在しない空間に時間や物の概念などない。僕はこの場所で、彼女との永遠を手に入れたのだ。



僕は彼女を前にして、もう何をすることだってできた。その雪原のようにしなやかな柔肌を、淡色の鯉が泳いでゆくくらい透けるまで眺めたり、自然的な彩色の赤毛の一本いっぽんを、まるでそれが光を通すことで幾度も滑らかさを変えるように、丹念に手櫛で整えることも。宝石のように輝きを放つ彼女の美点を幾つも列挙し、その燦然と輝く眩さを示す数々の言葉を、優しく投げかけることだってできたのだ。


けれど僕は目の間に佇む彼女を、もはや静物として捕らえることができなかった。次第に硬直してくる陰部の快感が僕を襲い、僕は彼女に抱き着くと、溢れ出る恍惚の液を下半身に押し付けた。神聖で病的なまでに潔白とした世の中で、本能という身勝手な要求のために、僕は彼女をイブにすることにしたのだ。


僕は罪悪感に苛まれながらも彼女を離そうとしなかった。僕の口腔が真っ赤な彼女を覆うと折るようにしてその場に崩れる。風呂栓を抜いたように真っ黒とした彼女のソレは柔い麩菓子のようにのっぺりと僕を包み、艶やかな液体に染まった痴態の精神が、嚠喨とした音を奏で僕の期待を増幅させる。ゆっくり腰を落とすと血液の滾る感覚が蛇に絡まり、急激に面が縮まっていく圧迫感が好奇心と恥辱を含んで徐々に巨大な幸福となって快楽の波を押し寄せる、その間にも露と液とが絡み合った淫靡な嬌声が虚空を打ち壊すように僕の頭に響いている。


鞭を打たれ荒々しい雄叫びをあげながら全身が雷を撃たれたみたいに光っている。真夏に高級フルコースを食べているような熱気汗。両手には幾度となく押し込んでも膨れ上がるイースト菌が、汗ばんで乳色の液をその先から噴出させている。


結末は唐突に訪れる。僕はフィナレーの終わりに湧きあがる虚脱感に備えて手綱を強く握ると、全身から汗ではない人間の欲望が滲み出て気泡が眉を覆う。存在しないはずの生物が目前を通り過ぎ腐臭と青草を風に乗せ、なにもないはずの僕らの内部を乱し出す。不規則な突貫の滑りが馬のように体内を暴れ狂い臭気を充満させる。熱いのか寒いのか楽しいのか怖いのかわからない危険な悪寒が僕を彼女から離そうと自然科学的なエネルギーを放っている。僕はそれでも自転し続ける地球のように彼女とひとつだ。


「アァん」


唐突に男の声。僕は驚いて机から顔を上げる。


後方ドアの窓から男が僕を覗いている。にやにやとした下卑た笑みを向けて僕のあらわになった下半身に恍惚の目線を向けている。

彼はゆっくりとドアを開け近づいてくる。僕だけの教室に廊下の猥雑な空気が侵入してくる。彼は老獪な笑みを崩さずただ目線だけ下半身の先の、汚れて白い息を吐いているものに集中させて歩を止めない。


奈落に落とされたような堕落感が僕を一瞬放心させた。つい先ほどまでの出来事と、いま机上に乱れ流れている液体を頭の中で順応させ、疲労と眠気の拮抗に喉を上げる。男はその間も僕の前に迫ってゆき、小さく息を漏らしながら身悶える肩上に自分の顔を押しつけて、耳元に甘く低い声で囁く。


僕は尚も硬直し続ける己の下半身を、侮蔑と歓喜の眼で見つめていた。

《了》

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