優等生 〈前〉

やっちまったな、と心の中で呟いた。視界が砂嵐のように赤や黄の電流で包まれているのは、今目の前に流れ出る乳白色の白だく液の流れが、ゆっくりと丸みを帯びた木目から滴り落ちる光景の反転なのだろうか。全身に波のように鳥肌が押し寄せては、排尿後のあのブルッとした震えに似た寒気と倦怠。熱くなっていた首筋から腕にかけての血管は縮み、代わりにぼんやりとした虚無が残るだけで、教室へ走る生徒の僅かな喧噪など頭に入らなかった。


心臓が化け物のように鳴っている。まったく、学校なんて糞くらえだ。僕は急激に体温が上昇し、蒸気したフラスコみたいにヒートショック。本当は机を蹴り上げたいくらいだ。けれどそんなことをしてしまうと、僕が体育の授業をサボって、ひとり教室へ居残っていたことがバレてしまう。そんなことあってはならない。楽しみは、それが外部に侵されていないからこそ宝石のように輝くのだ。もっとも、僕の中では彼女だけが七色に煌めくダイヤモンドなのだけれど。


はなしは三十分前まで遡る。二時間目終わりの教室で、ぼくが学校で唯一の友人Fに、次の体育での班分けについて話しかけた時のことであった。

「なぁ、だっちん」

「なんだよう」

「ここ。俺いまヤバいんだ」

Fはそう言って下半身を指さす。黒いベルトが締められたスラックスの、その一部がこんもり盛り上がり、銀色の机下部に突き当りそうな具合だ。僕が指をさし面白そうな顔をして近づけると、Fは小賢しい笑みを向け起伏を倒したり起こしたりしている。授業中両手をポッケに突っ込んで、自分のそれを弄ぶことが、彼の趣味なのだった。


「だっちん、俺もうダメだ。イクよ」

Fは僕のことを「だっちん」と呼ぶ。日達圭祐。日達だからだっちんなのだ。

「馬鹿な真似はよせよ。まだ昼だぞ」

僕がそう言うと、Fは舌を出して笑う。カッカッカと上を向いて両足をガタガタと鳴らし、けれど決してポッケから両手を離さない。それを触ることが彼の癖なのだ。

「藤岡は言ってなかったけどさぁ、ほら今雨降ってるじゃん?次の体育どうするんだよ」


僕は強い雨音のする窓を指してそう言う。天気予報が外れ、僕たちのクラスの予定していたベースボールは、グラウンドが荒れ果てて出来そうにない。Fと僕はこのクラスの体育係なのだから、授業後の十分休みを使って体育科の藤岡に話をしなければならない。僕はそんなことをFに言ったのだが、彼はさして気にしていないような顔つきのまま両頬を膨らませ上を見上げ、僕の話などまるで聞こえていないようだった。


「おいどうするんだよ」

僕は下半身を触り、席から立とうとしないFに、呆れを通り越した怒りの感情が湧いてきたところで、背後から甘い声がした。

「ちょっと」

「なんだよ」


僕が振り返ると、鮮やかなブラウンの馬毛が目前に広がる。細い毛並みの幾何学的な並びが、靄のかかった湖畔に僕を呼び寄せると、途端に花いっぱいにクチナシの澄んだ香りが溢れ、中からたまごのように白い室瀬友美が現れた。

「次の体育どこでやるか知ってる?」


上目遣いをする彼女の瞼は潤み、海中の藻みたいな頭髪が一斉にうねると、稲妻を浴びたみたいに僕の身体は痺れて固まる。若干の刹那でも、汗で滲んだ手に緊張が脈を打っている。僕はもういっぱいになってしまい、隣のFに助けを求めようと顔を向ける。


「ああそうか。次の授業は体育だったよね。今すぐ聞いてくるから、待ってて」

Fは何かが乗り移ったみたいに表情を変えると、教室を飛び出していった。僕は呆然と彼の残像を追い、単純なヤツめ!とほくそ笑んでいる。

「いっちゃったけど、いいの?」


僕の肩をつつく彼女の髪は照明を反射し、陽の射さない雨模様の教室によく映えている。僕がそれに見とれて彼女の視線を忘れていたその刹那。若干の静寂の後に喧噪も雨も止む。


時が止まっているのは、僕と彼女だけなのだろうか。青い白い炎がゆっくりと動くように、僕と彼女の間に無数の時が流れては消えてゆく。逆流することなく僕の瞳から発せられた光は、時を貫通して彼女の瞳に浸透している。その間だけ、僕は初めて素直になれたのだった。



「だっちんはさぁ、どうしてオナニーしないんだよ」

「声が大きいって」


体育の授業は校舎等から離れた体育館で行うことになった。僕とFの報告が遅れたせいで、授業は予定より二十分遅れて始まることになり、教室では更衣室へと走る女子、既に体操服を纏い、あとは制服を脱ぐだけだという運動部員、そして気がのらないからという理由で着替えをはじめないFの三種類に分けられている。

「オナニーは気持ちいいぜぇ。ずん、どん、ばきゅんって感じで。その後、キュッキュッキューンで。ドッ、ドッ、ドッ、ドッピュン」

「もう、わかったよ」


僕は彼を押しのけると窓に凭れた。先ほどより勢いを増した雨粒が、ガラスに当たるたびに不規則に飛び散り、キャンバス一杯に幾何学的な模様を映し出している。

「だっちんはさぁ」

Fが僕の隣に凭れると、不敵な微笑みを向ける。何なんだよこいつはと、うんざりした表情で僕は彼から顔を背ける。

「室瀬さんのこと好きじゃないの」

途端に僕の背に稲妻が走る。雨を射す湖畔に浮かぶ鯉の群れが、一斉に方向を変えるように。僕の身体は自然と白くなっていった。

「なんだよ。いきなり」

「だってぇ。さっきなんかおかしかったじゃん」

Fは窓から身体を離すと僕に近づいてくる。饐えた彼の香りが、鼻腔から喉の奥に不快な膜を作っている。Fは顔を僕に寄せると、前歯だけを見せてひくひく笑っている。



彼は当初から、僕に対してだけ異常なほど愚直であった。人間というものは表向きだけでも他人を尊重し、人目を気にし、またその場の空気を読むことがマナーや規律として、長らく継がれてきた伝統というものであるのだが、彼は僕を前にするとその全てを一掃し、生れたままの心になる。真心だ。彼はいつ、どんな時であっても、本能という発見に驚き、またその真新しさを僕に伝えずにはいられないのだった。

「隠し事、なしだよ」

彼は鼻を近づけて僕を咎める。キレイな眼。長い睫毛。初めて見た人なら、思わず彼がハーフであることを確信するであろうその整った下顎骨と鼻骨のしなり。牡丹色の口は小さく息を漏らし、緩く官能の色を帯びている。

「好きだよ」

「やっぱり」

Fはそう言って笑うとまた隣に凭れた。くちゃくちゃと、小さく唇で音を鳴らしながら、ポケットのなかで股間を優しく揉んでいる。

「オナニーしないの?室瀬さんで」

「お前なぁ」

「だって好きなんでしょ?」

彼にそう詰め寄られると、途端に僕は黙ってしまう。図星だ。胸の中にピストルを込められたみたい。けれど彼の言うオナニーと僕のそれとは、少し、または大きく違うのかもしれない。僕は先ほどの室瀬友美との刹那を脳裏に描いた。



身体に電気が走るのは、僕が流れというものを意識しているせいなのだろうか。彼女へのあの一瞬の陶酔は、限りなくFのいうオナニーに近いのかもしれない。が、僕はそれを認めない。なぜなら僕は、彼女に対して非情なまでに敢然な想いを抱いているからであった。


室瀬友美は僕たちのクラスでナンバーワンの才女であった。入学してまだ間もない新学期の全国模試で、彼女は創立以来の全国二桁順位を記録し、二年時に行った模試では文系で八番、理系で二十五番を叩きだし、生徒だけでなく教員をも驚かせた。彼女がひとたびクラスを離れると、他クラスの生徒や後輩から鳥類のような眩い喚声が廊下に蔓延り、けれど本人はそのことについて、決して喜ぶような素振りを見せずむしろ鬱陶しそうな冷ややかな目で、颯爽と廊下を歩いているのであった。


その凛として冷酷な立ち振る舞いから、彼女を霊のようだと(これは冷と霊をもじったもの)陰で揶揄する者も現れたが、彼女はその他にも英検一級、数検準一級、小論文コンテスト入賞に加え、部長を務める放送部は全国大会出場と、数えるだけキリがないほどに他を圧倒していたものだから、いつしかその陰口も気まぐれな夕立のように遠くへ消えてしまったのであった。



そんな数々の盾の置かれた机に、僕も金や銀と同じように並んでいて、彼女がそのひとつひとつを手に取って、冷酷なまでに非情な視線を向けただけでも、僕の張り詰めた皮膚は破裂しそうであったし、重厚な額縁に飾られた賞状の、『室瀬友美殿』という名前を眺めては、その端正な文字と響きに脳をも震え、全身が痙攣するような快感に苛まれるというのも大袈裟ではないのだ。彼女の生まれ持った冷美な視線は、その一点には留まらずむしろ多方に、その粛とした挙措を波立たせてもいる。それほどまでに彼女の美点というものは数限りないのであった。


けれどなぜ僕が、そこまで彼女にこだわるのかと問われると、途端に僕は口を噤み、伊勢佐木町通りから関内駅、馬車道通りを抜けて桜木町、コスモワールドからベイクォータと、大勢の観光客の視線など気にせずに、長時間ぶつぶつと自問自答して過ごす羽目になってしまう。彼女の魅力というものは、色とりどりの盾や、馬のように細やかな赤毛の輝かしさなどではなく、光る身体の底に内包された甘く温かいクラムチャウダーの、何度潰しても浮かんでくるコショウの粒みたいなものなのであった。


彼女はそのアイスキャンデーのような冷ややかな目線とは裏腹に、クラスの者には男女だれかれ構わず気さくに話しかけた。クラスでは最下層の、皆から煙たがられ疎外されているような隠遁一派でも、優しく手を伸ばしてくれる心の余裕があった。けれどそれは、彼女の内から発せられる自尊心の保護。パンを与える優越感。美麗な自分を演出する仮の姿でもあることを、僕はある時から知ったのだ。


ある日の放課後、僕は期日直前の提出課題を学校に忘れ、それを取りに職員室でガキを貰いに行ったことがあった。その時職員室にいた教諭は、ハゲ面で老獪そうな皺を顔いっぱいに出し「君のクラスの鍵はまだ帰ってきていないよ」と煩わしそうに呟いて、ぴしゃりとドアを閉めてしまい、僕は最終下校時間の迫る校舎をとぼとぼと歩いた。


時計の針は六時を指していた。夕暮れの青紅の向こうから何羽かのカラスが声を上げ雲の向こうに消えていった。昼と夜の境は全てが曖昧で、虚無の沼に引きずられそうな暗い廊下には電灯の灯る気配はなく、僕は長く伸びた影に目を落としながら物静かな廊下を歩いた。


教室の直前まで来ても人の気配はしなかった。鍵が帰っていないのだから、きっと誰かが教室に残っているに違いないと踏んで、僕は自分のクラスのまで立ち止まった。夕焼けが反射して眩しいガラスからは、部活を終えて帰路に就く運動部の嬌声が聞こえ、フロア一帯に微かにこだます。


沈黙。僕はなんとなく中へ入るのが怖かった。教室は鍵は掛かっていないはずなのに、扉は前後きっちりと閉まられていて、中に光は灯っていない。廃墟のように生気の感じられない教室。一面朱色に染まった空にうっすら月が見えた。僕は後ろ扉の方へ周り、後方のガラス窓から中を覗いてみようと、ゆっくりと顔を近づけた。


黒髪の乱れが夕日に輝いている。窓際の前二列目に現れた人影が沈黙を揺さぶっている。目を凝らすと、左右に揺すった肩の上部から細長い髪が流れ、そのまま視線を陽の当たる方へと上らせていくと、錦繍に輝いた室瀬友美の目があった。

涙を頬に伝らせて唇を噛みしめる彼女は、左手でウサギの刺繍の入った金吒袋を抱え、右手で懸命に机を擦っている。雑巾のような小さい布切れで、何度も木製の丸みを帯びた端を磨く。けれどそれは、決して汚くなった箇所を清潔にしようと努める少女の顔ではなく、醜悪で憎たらしい悪党を前にした生気を、その瞳に存分に含んでいる、彼女の怒りの現れであったから、僕は途端に目を逸らそうかと迷いたじろいだ。


けれどもし、その時の僕が目を逸らしてしまえば、室瀬友美という彼女の存在は、少なくともクラスの眉目秀麗な優等生で保つことができたのだ。がしかし、静謐なクラスの、ガラス一面光が透き通るように差し込んだ茜色の夕日を前にして、机上の精液を一心に拭い去ろう努める彼女の憎悪にまみれた瞳は、その時教室の外で覗いていた僕の目に、野獣に似た動物をも感じさせたのであった。


僕はあの、湖畔に浮かぶ白鳥のように秀麗な彼女が。クラスでは皆に慕われ教師陣から学校の未来をも背負い任せられている彼女が。誰もいない放課後の教室で人目も気にせず涙を流し、おぞましい醜態をその教室に存分に曝している姿を眺め、陰茎から込み上がる血流の轟に集中せざるを得なかったのだ。あの、生き物の営みを一切感じられない純白な教室で、彼女の瞳だけがゆらゆらと、まるで業火を前にしたように照り輝いているその様は、普段凛として清純な彼女の佇まいからは想像も出来なかったのであった。


射精しそうだった。仮にもし、あの夕陽の炎に包まれた彼女の瞳が、一瞬でも僕のいる後方のドア窓に刺さったとしたならば、僕はその刹那の間だけでも聖人になれたような気がするし、彼女の醜悪と含羞の含んだ真白なキャンバスは、僕の粘膜のような下劣なペインティングで何十にも、その麗しさを汚すことができたのだ。


僕は家に帰ってから今日に至るまで、あの時の彼女の醜態を脳裏に思い描いては何度絶頂を迎えたことだろうか。数限りなく繰り返される彼女の机の汚れは、いつしかそれが僕の陰茎になって、あの卑劣なまでに怒気の溢れた双眸から、感情があぶり出されるように頂上へと到達するのを、僕は野ウサギのように求めるのであった。



だから僕は、教室で己の陰茎を弄り回すFのような淫奔な異常者でも、秘かに心通わせ、相通じる部分があるのではないかと思うのだった。四月下旬に大阪から転校してきた彼は、登校してまだ一週間と絶たない頃、不敵な笑みを天井に向けて自慰に耽っていた。周りの生徒や教師がそれに気が付かなくても、同志である僕には彼が器用に右ポケットに手を滑らせ、中指と人差し指を合わせながら、若干の刺激を裏筋に送っているのが目の前にあるかのようにわかるのだ。普段は気さくで、どちらかと言えば秀才の方に属する彼が、特に臆することなく坦々と、己の陰部を磨いているというその情景は、確かに自分と通ずるところがあるのではないかと、桜の散った梢の青い揺れを眺めながら僕を粛然とした驚きと歓喜を抱いたのであった。



体育の予定時間が迫ると、クラスの皆が続々と教室を離れていく。Fと僕は体育係なのだから、早めに体育館へと赴いて準備をしなくてはならないのだけれど、Fはなぜだか着替えに手こずっているようで、中々カーテンの中から出ようとしなかった。

彼はいつも着替えるとき、カーテンに包るという謎の行いをしていて、窓に架かった布をその身に纏い、上に羽織った制服の一枚一枚、ブレザーから下着に至るまでを丹念に脱いでいくという一種猟奇的な方法を採っていて、その儀式的な行事は体育時常に行われ、既に着替え終えて腕を組んでいる僕を終始苛立たせた。彼など気にせずに、先に持ち場に行ってひとりで準備をしようと初めは考えたが、Fは僕が側にいないと己を制御できないと、家から一度も出ずに育った〈こどおじ〉みたいなことを宣うから、僕は彼がカーテンから出てくるまでこうして待っていなければならないのだった。

「いつまでかかるんだよ」

僕が語気を強めてそう言っても、Fは

「ふんふん」

と楽し気に鼻歌を繰り出して、一向に早まろうとしないのだ。


その時、僕は根を張りだした怒りが、天井を突き破って屋上に到達するのではないかと本気で思った。彼の敏捷ではない動きは生まれつきだとしても、本来の時間を大幅に過ぎているというのに、まるで入浴前の女子のように丹念に脱いだ制服を畳んでいるカーテン越しの彼の姿は、愚かを通り越して滑稽とまで言わざるを得なかった。通常ならば、係員は集合の十分前にグラウンドないしは体育館へ集まり、ひとりは教科担任と共に授業準備を進め、もうひとりは集まった生徒らを既定の位置に並ばせるという約束事が存在するのだが、既に教室に残っているのは僕と彼の二人だけで、時計を見上げれば集合時間まで残り三分と、急いで教室を出たとしても体育館に着く頃には、鬼の形相をした担任が拳を温めていることは火を見るより明らかなのだ。


取り合えず、遅刻だけでも免れなくてはならない。僕は最後の忠告として、「言い訳はするなよ」と言い放し、クラス鍵を教卓に叩きつけると、足早に体育館へと向かった。


この際、怒られることは仕方がない。彼の鈍間に付き合った僕が愚かなのだ。そう頭に浮かべながら廊下を走る僕は、この時まだFのことを少なからず信用していたのかもしれない。

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