ヴァンホーテン

〈むかし〉と言っても、つい五年ほど前のことなのだけれど、ぼくのこの短い人生からすれば、そのたった五年でも大分むかしのことのように感じられる。そんな学生時代の話をしよう。



 志願していた公立高校を落ち、僕が入ったところはというと、私立だというのに白い外壁の所々剥がれている年季の激しい建物に、つい最近張り替えられた青々とした芝生の目立つ狭い校庭、横浜の端に位置する古い学び舎であった。



 その学校はスポーツが有名で、普通科や商業科の他に、スポーツコースという特殊なものが設けられていた。校門を抜け、ベージュ色のタイルが敷き詰められている補装道を三十メートルほど歩くと、灰色の一般棟の昇降口に着く。



 下駄箱を左に曲がり、汚れた廊下を突き当りの西階段まで行ったところの、奥三つがスポーツコースの教室だった。一学年から三学年まで、野球、水泳、バレー、サッカーに励む逞しい男子高校生たちの巣窟である。



 学校案内の時、ぼくは一度だけその教室のなかを覗いたことがあった。それは入学式の翌週、まだなんとなくソワソワしているぼくたちに、副担任の若い男の先生が、時間が空いているから校内見学をしようと言って、半ば独断的に三十名ばかりの新入生を連れ出し、音楽室、美術室、放送室、食堂、購買部、大広間、体育館とひと通り周り終えた、その帰り道のことであった。



 二階の西階段を下りたぼくたち一行は、一般棟を辞して自分たちの教室のある図書館棟(ぼくの所属していた特進は一般棟ではなく図書館棟に教室があった)に帰るべく、隊列のようにのろのろと廊下を歩いていた。長い廊下の左手には、同じ形式で並ばれている教室が八つあり、右手には黒ずんだ白壁と一定の間隔で設置された小窓から、四月初旬の浮ついた陽気がぼくたち新入生を照らしていた。



 隊列の後方を歩くぼくの隣には、中学時代陸上競技をやっていたという背の低い男の子がいた。



 ソイツはまだ日の昇らない明朝に家を出ると、小田急線にコトコト揺られ海老名駅で乗り換え、そのまま横浜駅まで相鉄線、そこから先は京急と、いったい何度乗り換えれば気が済むのだろうと思わずうんざりした表情で言ってしまいたくなるくらい、学校から遠い場所に住んでいる子だった。ぼくは入学初日の自己紹介で彼がそのことを懇切丁寧に、また面白いくらい声高に皆の前で説明する口ぶりに感動したことを昨日のことのように覚えている。それは彼が、自分が他人よりも不便な町に住んでいることを、さして気にも留めないような口ぶりで、まるでその不便が得だと言わんばかりに、車窓から見える美しい景色を飄々と語る彼の顔が、不思議と好色を帯びていたからであった。



 ぼくは初め、彼はしょうしょう複雑な頭の回路を持っていて、それが原因でクラスの者たちに馬鹿にされるだろうと、浅薄でゲスな勘繰りをしていたのだけれど、彼のその嬉々とした口調から、長距離通学というものが彼の人生にとっては日常茶飯事であり、それがさも当たり前だと思っている節が徐々に覗えてきて、ぼくはたちまちそんな彼の虜になってしまったのであった。



 中学時代のぼくであれば、そのような空気の読めない不徳な者の存在を煙たがり、除ける態度をとったことであろう。が、碌に調べもせずに入ったこの陰気な私立高の、誰一人として顔見知りのいない孤独な教室では、そのようなのぼく態度も無同然であり、かえって彼のようなイロモノと仲良くなることで、自分の優位性というものを示せるのではないかと、その時のぼくは思ったのであった。



 ぼくたちが教室へ帰っている途中で昼休みのチャイムが鳴った。副担任の先生は、五限目の開始時間は十三時五十分だから、それまでに席についているようにと言って、勝手に職員室へ去って行く。取り残されたぼくたちのクラスは隊列を崩し、それぞれがバラバラに行動しだす。入学して一週間が経ち、クラスの中でも仮の派閥が目立ちだす頃。ぼくは誰とも話さずに、ひとりのろのろと廊下を歩いていたのであった。



 一般棟一階の廊下を歩いていると、ぼくはふとスポーツコースの生徒らが、頻繁に西階段へ去って行くのに気が付いていた。一般棟は普通科の教室が大半を占めているから、昼休みにスポーツコースの生徒らが、二階フロアの三年生の教室に行くのは特段不思議なことではないのだけれど、三つあるスポーツクラスの扉から、何かを求めるように坊主頭の男子学生たちが、一斉に教室を出て廊下を走っていく姿は新鮮で、ぼくは不思議でたまらなかったのである。



 ぼくは自分のクラスが位置する図書館棟へ帰るのを辞め、スポーツコースの生徒らの後ろを追って廊下を走った。なにか催し物でもしているのだろうか。ぼくはなんだかワクワクして、野球部員であろう陽に焼けた背の高い学生の後を追った。休み時間が始まり、校内では生徒らの明るい嬌声が午後の陽気に包まれていた。



 彼らは階段を上がらずに、階段横の少しだけ低くなったところへ進み扉を開けた。こんなところに秘密めいた、しかも錆びてペンキの剥がれている老扉があることにぼくは驚いたが、意外にもそれは褐色の生徒らによって簡単に開き、ぼく達は外に出た。



 そこは校舎裏の、雑草の生い茂る空き地だった。長く刈り取られていないであろう青草の先端が陽にひかり、欠けた赤レンガから零れた花壇の黒土が、海の香りをぼくに運ぶ。培われた生き物の営みが感じられた。



 ぼくがわけもわからず扉の前で唖然と佇んでいると、坊主頭の生徒たちが何やらガヤガヤと騒いでいる。何をしているのだろうかと、幾分躊躇しながらも上靴のまま、水気の黒土を踏んで彼らの元へ近寄る。



 そこには藍色の、古びた自販機がぽつんとひとつ置かれていた。土台にコンクリのブロックがあるため背が高く、雨風にさらされた外面は灰色に曇り、土ぼこりのついたケースには暗いひかりが灯っていた。



 二段式で陳列されたパッケージはどれも紙パックで、しかも二〇〇ミリリットルと小さい。赤や黄、茶色など絵柄は様々だが、どれも見たこともないような出で立ちで、少しばかり古臭く感じられる。機体自体は平成後期に設置されたと思われるが、その置かれた場所や環境から、昭和の末期と言われても疑いわしないだろう味わい深さが前面に押し出されているものであった。



「俺が先ぃ」


 自販機の一番近くにいた坊主頭が、そう言って投入口から小銭を入れる。


「早くしろよ、後ろが待ってるんだぜ」


「そう慌てんなよ。まだ四五本は残ってんだからさぁ」



 先頭の坊主に続いて自販機には汚い列ができている。皆坊主頭の、陽に焼けたスポーツコースの者であるから、言葉ひとつ放つだけでも騒がしい。



 ぼくは呆然とそれを見つめていたが、やがてドア前で目を丸くして突っ立っている自分が酷く恥ずかしくなって、いそいそと最後尾に移動した。ぼくの去ったドアからはその後も数人の坊主頭が顔を出しぼくの後ろへと続いた。



 後ろで事も無げに並んでいると、どうやら彼らの目的は、他でもなくあるひとつの商品を購入することらしいと知って、ぼくは自分の前に並ぶ男の右肩を軽く叩くと

「これって、何の列なんですかねぇ」

 と聞いた。



 男はゆっくりとぼくの方へ振り返り、驚愕の目を向けて口を開けると、小さく「あっ…」と申し訳なさそうに呟いている。



 その男はぼくのクラスの不徳な彼であった。彼はぼくの存在に気が付くと、忙しげに目を動かして、おろおろと動揺しているようだった。



 彼はなぜスポーツコースの生徒らに混じり、人気のない校舎裏に並んでいるのだろうか。ぼくはすぐにでも彼にそう問い質そうと思ったが、それよりもまず、なぜ彼の存在を僕は気づかなかったのだろうかと自問して、何気なく彼の隅々に目を走らせると、彼はまた恥ずかしそうに俯いて、ひとしきり後頭部を掻いていた。



 その時、後頭部に手をまわした彼の頭髪が、他でもなくキッチリと角刈りにされたものだったから、ぼくはその頭髪から彼をスポーツコースの生徒だと勘違いして、その場に溶け込んだ彼に気が付かなかったのだろうと、ようやく納得して微笑んだ。


「こんなところでなにやってんだよ」


「……」


 彼は口を一文字に、頭の中に浮かぶ言葉の数々を整理しているようであった。



「俺はね、流されてここに来ちゃったんだよ。流刑の民ってわけさ」



 ぼくはそう言って歯を出して笑った。彼はまだ遠慮しているのだろうか、目を合わせずに口だけもごもごと動かしている。ぼくは顔見知りの者がいることに安心して、列に並びながら他愛もなく彼に話しかける。



「さっきの嶋野の校内案内だけど、あれはさすがにないよなぁ。チャイムが鳴ってすぐに職員室に行っちまうんだぜぇ。俺らは特進コースだから、せめて昇降口に出るまでは付き添ってもらわないとわかんねぇよ。何てたって俺らはここの校舎に来るのは初めてなんだからさぁ」



 ぼくが先ほどの校内案内時の副担任の行為をなじっていると、彼はポツンと

「……あるよ」

 と呟いた。



「え?」



「ある。来たことある」


彼は目を何度も瞬かせ、少々うわずった声でそう言った。


「へぇ、そうなのかよ。何時来たんだ?」


「説明会の時……来たことある」


「説明会?中学の学校説明会の時かぁ?」


「うん」


 彼はそう言って、中学三年時のことを話し出した。当時の彼の担任が、成績と通学時間から鑑みると、この高校が一番良いのではないかと言って、説明会に行くことを進めてくれたのだと、多少たどたどしい口調でありながらもゆっくりと、当時の情景を正確に伝えてくれた。



「じゃあさぁ、この学校が第一希望だったの?」



 彼は首を何度も上下に振る。角刈りの逆立った髪は一度も動かない。


「まあじかよ」



 ぼくは驚いて身をのけ反らせた。入学してまだ僅かな期間ではあったが、ぼくは自校を第一希望として挙げた生徒をこれまでに一度も見たことがなかった。皆一様に第一志望である公立高校を受験し、それに失敗して仕方なく入学した生徒ばかりの、いわば受験生にとっては二番手の学校だったからである。



 横浜の南に位置する最寄り駅から徒歩二十分、私立高とは言うものの併設された設備はどれも古く、特定のスポーツが強い他にこれと言った特色のない普通の学校だったから、ぼくはますます不審がって志願理由を問うのだった。



「第一志望って言ったって片道二時間半もかかるんだろぉ?どうしてまたこんな辺鄙な場所に通おうなんて思ったんだよ」



「良かったから」



「何がだよ」



「景色が」



 ぼくは大きくため息をついて微笑した。ああそうだ、彼はそう言う奴なのだ。辺に理由や理屈を並べても、彼の前では無に等しいのだ。



 先頭のスポーツコースの集団が飲み物を買い終わり、颯爽と裏庭から去って行った後には、自販機の前にはぼくと彼しかいなかった。



 ぼくは欠けた赤茶色の花壇の土ぼこりを払いのけそこに腰掛けると、隣に座る彼にイチゴ牛乳を渡した。


「ありがと」


「いいよ。これくらい」



 どうやら、坊主達のお目当てはヴァンホーテンのココアミルクで、それはコンビニやスーパー、それにネットでも流通していない特別珍しいパッケージのもののようだった。そんな目新しい商品を求め、彼らはチャイムが鳴るのと同時にこの裏庭へ駆けだして我先にと競うように古びた自販機に駆け寄るのだった。



 もちろん、ぼくらの番が来た時にはそれは売り切れていて、仕方なくぼくは財布の忘れた彼と自分の分のイチゴ牛乳を買い、離れた図書館棟に帰るのも億劫なので、近くの花壇縁に腰掛けてひと息つこうと、そう思ったのであった。


「景色が良いって、どこからのだよ」


 ぼくは先ほどの彼の物言いがきになって、紙パックにストローを突き刺すとそう言った。


「家からの」

 彼は正面を見つめたまま言う。


「はぁ?」


「ぼくんちの家から見る丹沢山の夕日」


 ぼくはまた大きくため息をつくと、その勢いでイチゴ牛乳を飲み干した。学校を選んだ理由を聞いているというのに、なぜ家という単語が出てくるのだろうか。ぼくは呆れて言葉も出なかった。この不徳者は先ほどまでの会話を全て忘れてしまったのだろうか。


「俺は君がなぜこの学校を選んだかって、そう言う話をしているんだ。だから家だの丹沢山だのどうでもいいんだよ」


「よくないよ!」


 彼は声を荒げた。握りこぶしがイチゴ牛乳で濡れている。ストローから溢れ出た桃白色の液体が肌を伝って草に落ちる。


「よくない……よくない……」



 彼が先ほどまでと顔色を変えて何度もそう呟く。その光景に異質さを感じたぼくは立ち上がり、心にもなく「ごめん」と呟く他なかった。彼の逆鱗に触れたことの申し訳なさよりも、何かを爆発させたみたいに地団駄を踏む彼の横顔が、麗らかな午後の裏庭を破壊してしまうのではと危惧したからである。


「悪かった、悪かったよ。丹沢山の景色がキレイなんだな。そうだそうだ」


 ぼくが苦笑してそう言うと、彼の身体が一瞬でほぐれていくのがわかった。よかった。治まってくれたなと、ぼくは心の中でひと息つく。


「丹沢山の景色と俺たちの学校に、一体何の関係があるんだ?」



 今度は物腰柔らに、彼の眼を優しく見つめて聞いてみる。彼は先ほどの狂乱寸前の態度が嘘のようになくなり、きちっと花壇縁に腰掛けて微笑んでいる。


「ぼくんちはね、この学校からすごく遠いところにあるんだ」

 彼はまた正面に目を向けて、ゆっくりと口を開いた。




 彼の家は神奈川県西部の山間の村にあった。そこは静岡と山梨の県境に近く、崖のように聳える丹沢の山岳が東に、北には青磁色がどこまでも透き通る丹沢湖に反射した富士山を望むことができた。


 湖を囲む連峰は、緩やかな傾斜の裾野がどこまでも続いていて、山と山の重ならないちょうど真ん中あたりに堂々と、雪の被った富士の山が晴天の下で光っている。緑一面の低山の奥に、輝くように聳え立つその富士の景色は圧巻で、四季によっては緑一面の山々が、紅葉に色付き赤や黄色などのまだら模様を山中に光らせている。けれど中央に凛と聳え立つ富士の山は、何時どんな時に眺めても、広くなった頂上の雪の白さだけは、やはり一際輝いて見えるのだった。



 そんな豊かな自然の下に生まれた彼は、家に近い牧場で、牛やヒツジ達と共に清く逞しく育った。真みどりの草原一帯には木柵のみが葉先から飛び出て見え、前後ろ、どこを眺めても遠くには雄大な山岳しかなかった。



 自然の聖なる地で、彼は日が暮れるまで生き物たちと遊んだ。綿あめのように柔らかいウールの子羊と戯れたり、乳臭い雄牛の草を食む仕草を真似してみたり。そしてそれに疲れれば、牧場一帯が見渡せる小高い丘に腰を下ろし、不定期な微風で揺れ動く、草原一帯の波のようなそよぎをいつまでも眺めていた。



 空一面が茜色になる頃には、西に沈む太陽が丹沢の尾根に沈んでいく。その姿はいつも彼の心に燈篭のような淡い炎を映し出し、たちまち地球の神秘に心を打たれるのだった。なだらかな稜線が太陽にしっかりとシルエットを残し、尾根の下に行くにつれ色の濃くなるグラデーションの、僅かに浮かぶ積雲の上に藍色の海が星を放っている。そんな刻一刻と変化し続ける夕暮れ空を眺めては、彼は山へと沈んでいく太陽の、その先の姿を眺めてみたいと心から感じるのだった。



 中学生になった彼は、父親と丹沢の登頂を試みることになった。それは小学校からの願望を、病弱な身体を理由に延期していた父親に中学に上がる頃には何とかと頼み込んだ末の決行であった。



 二人は秦野市大倉登山口を朝早くに出発すると、丹沢山山頂を目指し林道へと入った。村からほとんど出たことのなかった彼にすれば、見知らぬ土地の森へ入るほど恐ろしいものはなかったが、彼は幼少期の、あの落ちかかった丹沢山の日の入りを、今日まで心の内に留めておいたのだ。



 初めはハイキングコースの延長の、なだらかな坂道が続いていたが、木製手すりの階段を上ったところから、急に山道が激しくなった。



 元より彼はその身体から、恣意的な行動というものを極力避けていたこともあり、緩やかな坂道は良いものの、盛り上がった土に剥き出して伸びる木々の、根を張った急斜面になると、途端に息を整える回数が多くなった。父親は彼が止まる度に背中をさすり、「無理をするな。またいつでもこれるんだから」と、そう何度もつぶやいた。



 予定よりも大分時間をかけ、鍋割山へ到達したころには、彼の足はもう石のように固くなっていた。ここから先塔ノ岳丹沢山と、さらに過酷な山道に入るというのに、彼は最初の目的地である鍋割山でもう音を上げる寸前にまで陥っていたのだ。



 父親はなかなか岩から腰を上げない彼の横顔を眺め、もうそろそろ潮時だと、引き返す言葉を掛けようと近づいた次の瞬間、彼は岩から立つと

「丹沢山!」

 と叫んだ。



「丹沢山丹沢山丹沢山!」



 静謐な山頂に彼の声だけがキリキリと響いた。地響きのような木々を貫く風の音が大きく聞こえた時、彼の目から涙が零れた。



 幼い頃から眺めてきた丹沢山の、太陽の沈んでいく尾根の姿が、靄にかかったように薄く見えなくなっていった。彼は貧弱な自分の身体を責めた。あれほどまで熱望していた丹沢山に、なぜ自分は登ることができないのだろうか。彼は力不足の自分を戒めるように、何度も固くなった太腿を叩いては泣き続けた。



 父親は僅かな登山者の目など気にせず、ただ黙って不甲斐なさを噛みしめている息子の背中をさすってやることしかできなかった。まだ幼い、それも未発達な息子を山に連れていくには、もう少し時間を掛けるべきだったなと後悔の念をその表情に現わしていた。



 結局、二人は鍋割山で下山することにした。彼の身体も精神も安定ではないし、無理をして塔ノ岳を登頂するにしても、下山する頃には日が暮れてしまう。父親は今後のためにも良い経験になったと括り、二人は山を下った。



 帰りは下るだけなのだから、行きよりも身体的には辛くなかった。途中水を飲み干してしまったり、山蛭に噛まれるといった災難に見舞われながらも、彼は淡々と坂を下りて行った。



 未舗装の急な岩肌も、次第に石階段に変わっていった。彼はどんどん先を行き、小さくなっていく父親の背を眺めながら、熱望していた丹沢山の登頂を成しえなかった失意から、悄然とした心持で何気なく梢の生い茂る林に目をやった。



 十二月のハッキリとした裸木だった。斜面一帯を生い茂る梢の、落ち葉の盛り上がった表面が光っている。眼を凝らしてみると、木々の隙間から夥しい量の光線が、彼を真っ赤に染めあげた。



 赤く染まった空の奥に、稜線を際立たせシルエットになった山々が見えた。その表面は皆青紫で、風が吹くたびに鳥たちのさえずりがハッキリと聞こえる。その遥か先の中央にどっしりと、赤黒い先端を光らせた富士が太陽を飲み込もうとしているのだ。



 彼はいつまでもそれを眺めていた。柵から身を乗り出すようにすると、全身に初冬の木枯らしが巡ってゆくのが分かった。汗の乾いた鼻先に、枯葉の焦げたような香りと、冷たく突き刺さるような山の、生き物の、自然の香り。それを包み込むように梢の間から、沈みゆく太陽の真っ赤な光が彼を打っている。それは一日の仕事を終えた勤め人が、いそいそと家路につくような郷愁と感動に似ていた。



 彼は落日を見つめながら、この景色を丹沢山の麓で眺めたら、どんなに綺麗だろうと思った。けれどそれは、普段彼が村で感じる丹沢山の落日とは明確に違っていた。そうだ、今目前に佇むこの景色は、太陽への一歩なのだ。長年追い求めてきた丹沢山への大きな一歩なのだ。陽の沈み暗くなっていく町とは反対に、彼の心は鮮明に晴れ渡り、沸々と温かな気持ちが鼻腔へ込み上げてくるのが分かった。





 放課後、僕と彼は図書館棟の屋上へと続く階段を上がった。四階から先の階段は縄が張っていて。ペラペラのペット版には『生徒立ち入り禁止』と書かれた紙が貼られてあった。



 彼は人目も気にせずに、颯爽とその縄を飛び越えて階段を上がっていった。吹き抜けで一階まで反響する階段に、ドスドスと躊躇わず豪快に足音を立てている彼。ぼくは戸惑いながらも苦笑して、暗闇へ消えて行く彼の後ろへと続く。



 電灯のない階段を上がり、幾本もの鎖で施錠された屋上扉の踊り場で、彼は足を止めた。


「ここ」


「すっげぇ」


 暗闇に業火が現れた。


 校庭に面した踊り場は壁一面が窓になっていて、様々な角度から差し込んだ夕日が、アーチ状のガラスを華麗に突き抜け、ぼくたちを燃やしている。



「こんな場所、何時見つけたんだよ」

 ぼくが感嘆の表情で隣の彼にそう聞くと


「説明会の時。道に迷ってぇ、気づいたらここに入ってたんだ」

 彼は笑いながらそう言って、刈り上げの後ろ髪を優しく撫でた。



 整然と揃った後ろ髪が朱色に染まっている。窓の外からは、部活に勤しむサッカー部の僅かな嬌声と、一般棟から流れる管楽器の音色が混ざっている。遠くを眺めれば、暮れ行く横浜の家屋の群れがオレンジに包まれている。



 しばらくぼくたちは、無言でその景色を見入っていた。時たま隣の彼に目をやると、ワイシャツから伸びた腕や顔が斑模様に光っている。身体一面に蛍の光を纏ったように、淡い太陽の温もりを存分に被り何とも神々しい。彼はそんな姿など気にせず一心に、遠くの落日を眺めている。



 彼は夕日を眺めながら何を想っているのだろうか。陽が昇る前に起床し、丹沢山の日の出を眺め、そのままコトコトと電車に揺られ登校し、すっかり暗くなった頃に帰宅する。そんな彼の眼にこの都会の夕日は、どのように映っているのだろうか。


 彼の住む村と、ぼくたちの在籍する学校はまるで違う。都会ではさも景観を気にするように整然と植えられた桜の木。白い膜の張った河川の闇のように黒い流れ。何かに追われているかのように感じられる雑踏。遠い村を離れ、都会にやってきた少年は、この雑然とした都会の学校に、何を期待し求め入ったのだろうか。


 ぼくは固まって動かない彼の右肩を軽く叩くと、黄色に染まった瞳をこちらに向け、彼は微笑んだ。

「昼休みの続き。なんでこの学校に入ったんだよ。まさか、この景色が見たかったからってわけじゃないだろうな」


 彼は一瞬不思議そうな顔をしたが、

「登山研究会」

 と、初めてまともな返答をした。



「部活動紹介の時説明してた愛好会のことだろ?あれはもう廃部になったんじゃないのかぁ?」



 先週体育館で行われた学校紹介の時、登山研究会は人数不足により廃部になったと説明されたばかりだった。


「ぼくがまたつくるんだぁ。人をたくさん集めて、いっぱい計画立てて。それでみんなと丹沢山に登って、今度はもっとおっきい夕日を見るんだぁ」


 その時彼の両目が光った。窓ガラスのように透明な彼の瞳が、夕日を反射して柿色に輝いている。


 ぼくはその輝かしい彼の眼を見つめ、待望していた登頂を断念し、帰路の最中に見上げた空に映った、雄大な富士の落日を脳裏に描いていた。


 彼はその時から、今日という日を待ち望んでいたのではないだろうか。長い通学の車窓を眺めては、あの太陽の遠く、丹沢の麗らかな台地があるという期待を、その胸に存分にため込んでいたのではないだろうか。だとすればそれはどれほど輝かしく、尊いものであろうか。


「できるよきっと」


 ぼくが小さくそう呟くと、彼は照れ臭そうにまた後頭部を掻く。少年のような幼い彼の顔は夕日に照らされて、その精悍な目つきがやけに大人っぽく彼を映していた。



 丹沢山の登頂。それがどれほどの難易度なのか、登山経験のないぼくにはよくわからなかったのだけれど、今目の前で瞳を大きく開け、何か愛しいものでも見るように窓外の夕焼けを眺めている彼を前にして、ぼくは登山というものに少なからず興味を抱いていた。



 登山と聞くと、真っ白な雪原がまず頭に浮かぶ。やはり冬の時期に行くのが通常なのだろうか。衣服をこれでもかと纏い、大きいリュックを背負って、えっちらおっちらと頂上を目指して歩を進める。身体の弱い彼が登れたくらいなのだから、中学時代バレーボールをしていたぼくなら、そう難しくはないのだろう。広大な景色、豊かな自然、そしてどこまでも続く東雲色の空。



 ぼくは既に群青色に変わり、地平線がまだ赤く光っている横浜の空を眺め、丹沢山の登頂を胸に刻んだ。

 行こう必ず!その時は魔法瓶一杯に、温かいヴァンホーテンを入れて。


《了》


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