あるヲトコの一日
なしごれん
後ろめたい午後三時
目覚ましのベルがジリリと鳴ると、僕は重い毛布を撥ね退けてリビングへ出向かなければならない。鯉のぼりくらいあるテーブルの上に並ばれた皿には、焼きすぎて耳が黒くなったトーストにイチゴのジャム、黄身が半熟の目玉焼き、それといつものオレンジジュース。
決まった時間になると、テーブルにはいつも同じものが並ばれる。週五日、僕が家を出る八時までに食べられるギリギリの朝食。まだ寝ぼけた時間に食べるそれらは、味はわからないがとにかく温かい。出来立てを食べさせてやりたいという母の強い想いからだろうか。
けれど僕は、なぜだか今日は布団を持ち上げる気持ちになれなかった。それは今朝見た夢が、同じクラスの明子ちゃんのスカートをめくって、泣いてしまった彼女を信太(僕と同じクラスのバスケクラブのヤツ。嫌い)が勝ち誇った表情で抱きしめるという過去最悪の悪夢だったからとか、昨晩のニュースで明日は何年かに一度の大寒波が横浜に訪れると語る、白髪頭の気象予報士の小汚い顔が思い浮かんだからとかでは断じてなく、ただ単純に〈学校に行きたくない〉という九文字が、唐突に僕の頭に浮かんで消えなかったからであった。
だから僕は、心配そうな顔でやってきた母親に「体温計を持ってきて」とだけ伝え、掛布団の下の毛布に身体全身を包め、心持ち火照って汗が出てきたと思った頃、脇に体温計を挟んでしばらく動かなかった。
この時間がとにかく一番神経を使う。なんにせ学校を休めるか休めないかのターニングポイントとになるのだから。僕はまだ音の鳴らない体温計を脇から取り出す。35度6分。これじゃあダメだ。作戦変更。
四階建てのマンションの外で、集団登校をする低学年の黄色い声が聞こえる。住宅街の真ん中にある僕の小学校の学区は朝が一番騒がしい。もっとも、ベッドタウンの横浜ではそんな光景当たり前なのだけれど。
母親が扉を開けて僕の部屋に入ってくる。「何度だった?」表情は曇っている。
僕は苦しそうにしかめっ面。布団の中からもぞもぞと体温計を取り出す。表示は37度5分。必死に指先で温めた甲斐があった。
母親は驚いた声を上げて僕と体温計を交互に見つめる。もう少しの辛抱だ。僕はしかめっ面を、今度は狂言に出てくる悪党みたいにして歯を食いしばる。「昨日の夜から身体が冷たかったんだ」とかなんとか呟いて、母親が「今日は休もうか」と口にするまでその演技を辞めない。
すぐに受話器を取って誰かと会話をする母親の声が聞こえてくる。「はい、はいそうです。すみません」母親は家と外で声色を変えている。猫を被るなんて言うけど、もともと母親はライオンみたいなものだから、同じネコ科ではなくウサギ見たいな小動物を取った方がいい。ライオンがウサギを被っている。うん、なかなか良い表現だ。
冷えピタを持ってきた母親が「インフルエンザじゃないかしら」と不安げに僕の額を触る。
マズイ。熱がないのがばれてしまう。僕は心臓どきどき。けれど苦虫を噛み潰したような苦悶の表情で耐える。母親はしばらく僕のおでこに手を置いて首をかしげている。
一二分空いて、母親は冷えピタを僕のおでこに貼る。
「うん。ちょとあるね」
そう言って、僕に身体を起こすように言うと、首、脇、頬っぺたと、順番に手をやってひと息つく。
「身体が冷えたんでしょ。インフルエンザじゃないわ」
「病院は?」
「もう少し様子を見ようか。上がりそうだったら考える。今、どこか苦しいところはない?」
僕は大げさにスーハ―スーハ―と息をつく。もちろん演技なのだけれど、病気があるんじゃないかと問われると、それまでピンピンしていた僕の身体が、突然熱を帯びたようにだるくなって、本当に風邪なんじゃないかという錯覚に陥る。プラシーボ効果、病は気からなんて言うけれど、現在の僕はまさにそんな状況だった。
「頭が……なんかクルクルする。気持ち悪い」
「お腹痛くない?昨日ちゃんとウンチ出た?」
「わかんない。おしっこしかでなかったから」
母親はコップに水を入れて僕に飲むよう促す。ごくごくごくごく。蛇口をひねると真冬の冷水が飛び出してくるから、母親は少しレンジで温めたやつを僕に出す。常温。今は冷たいものが欲しかったのに。
それからしばらく目を瞑る。母親はリビングで掃除、洗濯、皿洗い。ドアは締め切っているけれど、壁越しでもテレビの音が良く聞こえる。ニュースキャスターは今日の大寒波について声高に語っている。この時間帯に、いつも母親が見ているのは1チャンで、いいともが始まる12時まではチャンネルを替えないようだ。
僕は壁に耳を当ててテレビの音に神経を集中させる。仮病を使ったのはいいものの、やはり先ほどのプラシーボが徐々に僕の身体を侵していく。手足の末端が汗で冷え、感覚がなくなってきている。僕はパジャマの袖を掴んで毛布に包るが、やはり身体の底冷えが治まらない。ヤバい。苦しい。寒い。
そのままウトウトと、気が付けば10時。ゆっくりと身体を起こして母親を呼ぶ。まだ幼稚園の頃、僕は熱になると必ず寂しくなって、母親が側にいないと泣き止むことができなかった。概念のない、大きな巨体に身体を覆われて、逃げ場のない真っ黒な世界でひとり苦しめられるという、毎度おなじみの悪夢を僕は持っていて、小学校に上がるタイミングでそれは姿を現さなくなったのだけれど、僕ばつい今しがた初期症状のようなその悪夢を見たような気がしてならなかった。(もちろん、これは僕の気の持ちようだから、本当に見たかどうかは定かではない)
母親が僕の部屋へやってくる。「どうしたの?」いつもより落ち着いている。
「こわい。こわいよお母さん」
「待ってて、いま体温計持ってくるから」
母親は体温計を僕の脇に挿すと、びっしょり汗で濡れた枕カバーを変えてくれる。
僕はなんだかすごく申し訳ない気分になって黙っていた。居たたまれないとは、こういう時に使う言葉なのだろうと、母親の瞳を見れないまま温度が表示されるまで待つ。
「37度3分。ちょっと下がったね」
僕はコップの水を飲みながら、母親から体温計を受け取る。37度3分。僕の平熱は36度3分だから、この表示された温度は本物だ。小細工のない、正真正銘の僕の体温。
僕は部屋を離れトイレへ行く。腹痛はなくチョロチョロ。キッチンでコップ一杯の水。リビングでは母親がリトル・チャロを見ている。僕はなんとなく母親の隣に座りテレビを眺める。
「ダメでしょ寝ていないと」
「うん」
「上がっちゃうよ」
「うん」
子犬のチャロがアメリカのストリートを歩いている。画面左上の時刻表示は10時27分を映している。僕は無言で席から離れると、自分の部屋へ戻る。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
それからぐっすり僕は眠った。昨晩よく眠れなかったわけではないけど、熱がある時は眠くなくても目を瞑らなきゃいけないから、僕はチャロがひとりアメリカのストリートを歩いていゆく様を思い浮かべながら眠った。寝返りを打つたびに、母親の替えてくれた枕カバーの、ひんやりとした肌触りが、冷たくて心地よかった。
どれくらい眠っただろうか。僕は身体を起こして頭上の時計に目をやる。11時45分ちょうど。頭の熱はなくなり、妙に鮮明な気持ちで部屋を出る。
リビングに母親はいなかった。机の上に紙が1枚。
《買い物に行ってきます》
達筆なペン字。メモ帳を破った跡。点けっぱなしのテレビ。
僕はひとり椅子に腰かける。いいともまでまだ時間があったから、適当にボタンを押してぼんやりと眺める。
平日のテレビは未知の世界だ。土日では見ることのないワイドショー、情報番組、テレビショッピング。普段学校に行っている僕からすれば、それらは遠い銀河の存在だ。
僕はもう一度時計を見やる。学校に行っていれば、もうすぐ4時間目の体育の授業が始まる頃だ。
たしか、今日の体育は体育館で球技をすることになっていて、僕は同じ班の明子ちゃんと、一緒にペアになろうと、そう昨日約束したはずであった。
それにもかかわらず、僕は今日7時に起きると、漠然と学校に行きたくないという胸の募りから、母親に熱があると嘘を言って、終いには体温計を指で温めるという小細工まで施し、学校を休んだのだ。
僕はテレビを見つめながら、明子ちゃんは今頃誰とペアを組んでいるのだろうかと考えた。
隣の席の美由紀ちゃんだろうか。明子ちゃんと美由紀ちゃんは同じ保育園出身だし、休み時間も一緒に見かけることが多い。そうだ、きっと美由紀ちゃんだ。
けれどもし、明子ちゃんと組んだ子が、美由紀ちゃんではなく信太だったらどうしよう。信太は人気者で、その上運動神経抜群だ。彼が体育の苦手な明子ちゃんとペアを組めば、きっと授業も円滑に進むに違いない。先生もそれをわかって、信太と組ませるに違いない。
そんなことを考えていると、腹の底から熱いものがわなわなと込み上げて、収まりつつある血管の伸縮が、再び始まりそうな気がして、僕は椅子から立ち上がり、自分の部屋を戻ろうと足を出す。
「お前、なにやってんだよ」
気が付くと、キッチンの横に父が立っていた。
「お父さん」
「久しぶりだなぁ」
僕は何週間ぶりかに見るその中肉中背の佇まいに驚いていた。父と僕は、もう何週間も顔を合わせていなかった。それは父が、どこか遠くへ出張しているだとか、仕事が忙しくてなかなか顔を見せられないとかでは断じてなく、常に自室にこもって、何やら秘密めいたことをしていて、滅多に部屋から出ないからであった。
いつの日か僕は、そのことについて母親に聞いたことがあるのだけれど、母親はそのことについて一切口にしないどころか、父の部屋に勝手に入ってはならないと忠告される始末で、僕の中で父親という存在は、家の中には居るものの、ほとんど顔を合わすことのない親類のような位置付けで心に留めていたのであった。
だから僕は、何週間かぶりに合う父親の、白髪の目立つ頭髪と、剃り残しの激しい顎を見やっては、懐かしい友人にでも会ったような、複雑な心境を抱いたのであった。
「学校はどうしたんだよ」
白い壁に手を当てて父が言う。
「行ってない」
「どうして」
「……」
「母さんは?」
「お買い物に行ってる」
「ふうん、そうか」
父は顎髭を優しく撫でながら僕を見つめている。僕は父を前にして、何だかいろいろなことを言えそうな気がしたのだけれど、胸の内にある言葉はどれも色のついたものばかりで、僕の芯の部分に存在する透明な言葉は、簡単に頭の中で咀嚼することができず、ただ黙って父の貧相な足元を見つめることしかできなかった。
静かなリビング。テレビではいいともが映し出されている。僕はテレビを背に父親と向かい合って目を合わすことができないでいる。
沈黙を割るように口を開いたのは父だった。
「なぁ」
「なに」
「飯、食ったか?」
「ううん。食べてない」
「行こうよ。どっかに」
驚く僕に、父はいつもの朗らかな笑みを浮かべそう言った。
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