記憶の海 ―旅路の果ての終着点―

立藤夕貴

第1話 旅路の果ての終着点

 しんと静まり返った空間。

 そこは静謐せいひつな青の世界。藍墨あいずみに染まる空の下には海が広がり、緩やかに波を打つ。

 その海はとてつもなく透き通っている。しかし、夜にもかかわらず海は昼間の太陽に照らされているかのように鮮やかな色を湛えていた。浅瀬と思われるところは宝石を思わせるようなエメラルドグリーン。深いところは濃い青の色だ。そして、その海には一際目立つ存在があった。


 それは大樹。海に根を下ろす大樹はまるで石英のように透き通っていた。幹も葉も枝もすべてがこの上なく透明で、石英の大樹は常に淡い光をまとっていた。その大樹の足元に広がる海もまた、色鮮やかなエメラルドグリーンに彩られている。


 その海にとぷんと何かが落ちる。それは波紋を生み出し、瞬く間に広がって消えていった。まるで何かを感じ取ったかのように大樹の葉がさざめく。

 ざわざわと揺れる葉。それと同じように水面も揺れる。

 海に落ちたのは一つの瓶。その中には一冊の小さい本が納められている。それはゆっくりと揺蕩たゆたいながら白浜に漂着した。


「ああ、来たね」


 小舟の上から誰にともなくぽつりと呟かれたその一言。声が静かに響いて散っていくとともに、掲げられているランプの炎がゆらりと揺らめいた。


 ひとつの小舟が海上を行く。

 真っ白な船に立つのは藍の長いフード付きの外套がいとうを羽織る人。かいを動かし、瓶が落ちた場所へと船を進めていく。目的の場所にたどり着くと船頭は静かに櫂を船の中に置いた。

 次いで船頭がフードを取ると白磁はくじの髪が露になる。少年とも少女とも言えない中性的な顔立ちの彼は浜と海の狭間に沈む瓶に手を伸ばした。

 少年は両手で瓶をすくう〈救う〉。彼は青い瞳を細めるとふわりと笑って海面から両の手を上げた。


「おかえりなさい」


 その一言でふわりと風が舞い踊り、瓶は柔らかな光とともにひとつの人の形を作った。

 しかし、その姿は透き通っていて時折不定形に揺らぐ。宙に浮く人影を見上げて少年は案内するように船を手のひらで指し示した。


「ここは旅路の果てに辿り着く終着点。さあ、乗って」


 不安げに揺らめく視線を目にして、少年はにこりと笑ってみせた。


「ああ、大丈夫。僕はこの海の案内人。君をしかるべき場所へ案内するのが役目なんだ」


 揺らめく人は戸惑っていたようだったが、やがてこくりと頷いた。少年に勧められるまま船に乗って腰を下ろす。それを見届けると少年は船を出した。ゆっくりと動き出し、白浜から船が次第に離れていく。

 人影は離れていく浜を不思議そうに見つめていた。それから流れゆく景色を眺めたあと、少年に視線を向ける。視線が合うと彼は櫂を漕ぎながら口を開いた。


「よかったら、ここに至るまでの君の話を聞かせてくれないかな?」


 一呼吸間が空く。

 それはなんとも言い難い空気を孕んでいた。船の上に沈黙がそっと訪れる。

 どれくらい経っただろう。しばらくしてから揺らめく人はぽつりぽつりと話し始めた。


 紡がれるのは色鮮やかな物語。

 始まったのは他愛のない穏やかな日々の話だ。少年は微笑み、それに耳を傾ける。

 けれど、決してその話は幸せに彩られた時間ばかりではない。少年は紡がれる話に嬉しそうに笑い、時に表情を曇らせながら聞き届けた。


「……そう、それは大変だったね。それが君の《記録》」


 そう少年が呟き、揺れる人は自らの話を反芻するように頷く。その時だった。


 一陣の風が吹く。瞬く間に通り過ぎていった風に誘われて、少年と人影は天を仰いだ。

 さざめく石英の葉がきらきらと光を反射する。鮮やかな水面に光が落ちて煌めくその風景はえも言われぬ美しい光景だった。


 人影がそっと息を呑む。

 いつの間にか大樹が目前に迫っていた。その大きさは計り知れないほどで見る者全てを圧倒する。大樹の下にはランプを掲げる小舟が同じように集っていて、少年は天を見上げながらぽつりと言の葉を溢した。


「新しい風が吹いた。目覚めの刻限だ」


 一陣の風。

 それは柔らかに流れる生命いのちの潮風。

 少年が視線を元に戻して手を伸ばすと、揺らめく人は雫型のランプへと形を変えた。雫の天辺てっぺんは精緻な銀装飾が施され、中には蒼い炎が揺らめく。


「さあ、お行きなさい。刻の旅人よ。新しい世界があなたを待っている」


 少年は両の手でそれを天に掲げる。ふわりと浮いてそれは大樹

に向かって昇っていった。

 周りの船からも同じように蒼い灯火が天へと旅立っていく。導くように大樹が纏う光を強めた。船頭たちはそれを言葉なく見届ける。


 刻の旅人は流転の世界を渉る。

 空と太陽に見守られ、大地に落とされた君は何処へ行き着くだろう。


 ここは果てのない記憶の檻。

 記憶のおりが重なる生命の漂着点だ。すべての生命〈記憶〉がこの海へと還ってくる。


 少年は天を見上げ、すうと息を吸う。

 たくさんの生命〈記憶〉を迎え入れ、また旅立たせてきた。決して、次の行く先に干渉することはできない。

 彼らにできるのはたどり着いた者の記録を聞き届けるだけ。積み重ねてきた記録だけが次の行き先を指し示し、導くのだ。

 因が有るから果がある。善をなせば善が、悪を成せば悪の花が咲く。ただそれだけがここにある絶対的な理だった。



 船頭は深遠の海で旅人を迎え、新たなる流転の旅路へと誘う。

 それは数多あまたの世界をまたぎ、幾度となく繰り返されてきた事象。

 天を仰ぎながら、少年は旅立つ者へ言の葉を送る。


「いってらっしゃい」


 船頭たちは今日もこの海にたどり着く漂流物〈生命〉を迎え入れ、見送った。

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