続・異常行動の強制 体験記

 視る。聴く。触れる。味わう。嗅ぐ。

 仄かに光るモニター。タイピングの音。その感触。乾ききった舌。すえた臭い。

 五感が働く情報。普段ならなんてことのない、些細で簡単に知覚できるもの。それら一つ一つが、今の私には到底処理しきれない巨大なノイズだった。

 曖昧模糊にしか感じ取れない灰色の世界で、明確なのは苦痛だけ。

 ここに至るまでに、幾度となく意識を失った。その次の瞬間には、脳が強制的に覚醒を促してくる。傍から見れば私は延々とキーボードを叩くだけの機械に見えただろうが、主観的には苦痛を入力されて小さな唸りを出力するだけの矮小な存在だった。

 ――――――。

 ――――。

 ――。

 ふと、耳鳴りが治まった。

 私はそれを、脳味噌が遂に熱暴走に次ぐ熱暴走によって、ついに不可逆の変質を果たして基幹部分の機能を失ったのだと信じて疑わなかった。

 つまるところ、私は死んだのだ、と。

 しかし、そうではなかった。

 あの顔の気配が、忽然と消えている。

 バランスを保つものがなくなった身体は、そのまま真横に倒れ込んだ。

 その程度の振動も耐えられず、私はほとんど空っぽの胃の内容物をげえげえと吐き出した。だって、十七時間だ。十七時間と十五分あまり。言葉通り、一秒の休みもなく延々と私はキーボードを叩き続けることを強制されていた。

 乾いた喉に胃液が染みる。畳は吐瀉物と鼻血と体液で目も当てられない状況になっている。地獄のような液だまりに横たわったまま、私は赤ん坊のように泣いていた。こんなにまでなって涙が出ることに驚いたのが最後の記憶だった。



 次に目が覚めたのは、殺風景な部屋のベッドの上だった。

 死を予感させる臭いと、それを塗り潰そうとする消毒剤のつんとした香り。

 左腕には物々しく点滴管がテープで止められていて、ほんの少しだけ身体が楽になっていることに気がついた。長い夢から醒めたときのような虚脱感。

 ぺらり。

 音がした方に、ゆっくりと目を遣る。

 パイプ椅子に座っているのは、身体の大きな中年男性だった。ごつごつした手で窮屈そうに文庫本を読んでいる。とある大きな神社の神職である、私の父だった。

「おう、お目覚めか。……なかなか面白いじゃないか、これ」

 しかも読んでいるのは、昨年発売した私のデビュー作。

 自分の書いたものを目の前で実の親に読まれる気恥ずかしさで、思わず身体を起こす。負担の掛かった臓腑がすぐに苦しくなって私は眉をひそめた。

「まだ寝ときな。お隣のマキさんって方が『隣人がうるさい』って通報入れなかったらだいぶ危なかったみたいだぞ。しかも単純に栄養失調だ、なんてなあ。ダイエットしなきゃならん体型ってわけでもないだろう」

「ああ――ごめん……迷惑かけたよね」

 ああ、と曖昧に応じる父は、そのまま読む手を止めなかった。

 やがて小説を最後まで読み終わった後、それをぱたりと閉じて一息ついた。

「お前さ、まさかやってないだろうな」

「……え? なにが」

「あれだよ。変な薬とかさ」

 私は苦笑いを禁じ得なかった。もしもあの惨状を直接見るか、もしくは駆けつけた警官あたりから伝え聞いていたら、そう思われても仕方ないだろう。

「……違うよ」

「じゃあなんだ。言ってみなさい。好きなやつにフラれでもしたか?」

 私は目蓋を指で解しつつ、細く長く息を吐く。

 たしかにこれは、もう潮時なのかもしれない。

 父を巻き込むことは気が引ける。しかし今回の出来事は、明らかにもう私の手に負えないものであった。恥も外聞も捨てて、誰かに助けを求めるべきだ。

 さもなければ、冗談でなく死んでしまう。

 確かに父ならば、事態の解決の糸口を見つけてくれるかもしれない。

 なにせ、神職なのだ。お祓いだって一通りこなせるし、何より業界の中でも交友関係は広いタイプだ。きっとこの問題をどうにかしてくれるはずだ。

「あのね、父さん。……実は、私はさ――」

 顔の怪異に取り憑かれたみたいで、どうか助けてくれないかな。

 私は確かにそう言うつもりだった。そのはずだった。

「おう? どうした?」

 耳鳴りがした。

「――っ、ちょっと、ワタシ、凄まじい新作小説の、ネタを思いついちゃって、さ。あまりに熱中して創作カツドウに励んでいたら、寝るのも食べるのも忘れちゃって。気がついたら取り返しがつかないくらい衰弱してて、こうなっちゃったんだ」

 私の言葉でない台詞が、私の口から私の声で述べられていく。

 ――待って。違う。私は、助けて欲しい。気づいて。お願い。

 いくら内心でそう思っても、実際に口に出すことが出来ない。

 まるでそこだけ、私の支配下から外れてしまったかのように。

「…………本当か?」

 ――違う。嘘だ。これは、私の、言葉じゃない。

「ウン、本当。迷惑を掛けてごめんね。でも、それだけスゴイものが出来上がるんだ。そのデビュー作はあまり売れなかったけどさ、今回のでゼッタイ挽回できるよ。だって、こんな凄まじい作品、他にはナイんだもん。期待しててね」

「そうか――そりゃあ良かったな」

 父は肩の荷が降りたように、軽く伸びをした。

 ――動け、動け、動け、これは私の口だ。返して!

「――ぅ、……、……す……ぇ……」

 どれだけ強く念じても薄く空気を漏れる程度で、私の父は気づかない。

「ただな、何事も身体が資本だ。健康を疎かにするやつはいい仕事を続けられない。そこのところをよく守って勤しめよ。……あんまり心配させるなよ」

「……ぅぇ――ウン。わかった。ごめんね、トウサン」

 私の言葉ではない私の言葉に納得した父は、飲み物を買ってくると言って病室を出ていった。ようやく頭が現実を理解し始める。自らの置かれた状況を。

 そうか。絹澤匠も、こんな気持ちだったのか。

 ――助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。

 どれだけ叫ぼうとしても、声にならない。


 予感がした。

 振り向くと、背後の壁には巨大な顔があった。


 お願いです。どうか止めてください。もう嫌なんです。死んでしまいます。お願いですから勘弁してください――そんな願いが通じたのか、それともただの偶然なのか。耳鳴りはそれ以上強くなることはなく治まっていく。

 顔は、口元を釣り上げてニタリと悪辣な表情をする。

 そして私が瞬きした次の瞬間、綺麗さっぱり消えていた。


 そう。異常行動の強制はあれきりで済むわけではない。

 私はこの先の人生で、常に怯え続けることになるのだ。

 あの〝発作〟が、いつ起こってしまうのかという恐怖。


 戻ってきた父はスポーツドリンクのペットボトルを差し出してきて、私はそれを笑顔で受け取り心にもないことを話す。泣き叫ぶことすら、今の私には許されないらしい。

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