異常行動の強制 体験記

 〝それ〟には明確な兆候があった。

 精神的にも肉体的にも疲労困憊で、今すぐにでも泥のように眠りこける寸前の状態だというのに、何故か脳が眠ることを許してくれない。死んだ目で自室の布団に横たわるものの、何かを回復させることなくただいたずらに時間を浪費していた。

 生きる上での必要最低限の欲求をも自覚することが出来ない。

 感じるのは尋常じゃないほどの頭痛と、猛烈な不快感。

 どうかご想像いただけないだろうか。

 大きな金属製の自動おろし器。その大きなざりざりは自らの後頭部にぴたりと据え付けられていて、もちろん全身を固定されているから逃れることなど不可能だ。スイッチは極低速で入っている。ずり、ずり、ずりと摺り下ろす音と振動が全身に響く。髪や頭皮はとっくに削れて骨まで達したまでは感覚で理解したものの、今やどこまで自分が自分たる所以の大事な部分が失われているのか分からない。分かりたくもない。ただ、緩く液状になった何かしらが背筋を伝う感触だけは確かにある。

 そんなような痛みと不快感がずっと続いているのだ。

 だから私は、ひたすら布団に横たわっている。

 ――あっ。

 〝それ〟の兆候は、耳鳴りから始まる。

 ――あっ、あっ、あっ。

 ――くる。くる。こないで。

 昆虫にも劣る原始的な防御反応で、私は身体を丸くさせる。目蓋を閉じて、耳を塞いで、心の中で懇願する。どうか、どうか、どうかはやくいなくなってください、と。

 祈りなど通じるはずもなく、顕れる。

 虚空に浮かんだ、巨大な顔。

 それは私にだけ視える幻覚で、幻覚のはずなのに、あまりにも生々しく存在感に溢れている。最初は腐肉にしか視えなかったそれは、日に日に明瞭になってきた。わずかに濡れたその眼も。やや汗の浮いたその額も。薄く色づいた産毛でさえも。

 一体誰の顔なのか。私は知らない。

 だけど、見覚えがある気もする。

 薄く微笑みを形作り、私の掌よりも大きな黒目を私にじっと向けている。

 今やその体臭や呼気さえ感じ取れてしまいそうなリアルさが、あまりに非現実的な大きさで私に迫ってくる。実のところ、目を閉じ、耳を塞ごうとも無駄なのだ。

 それは常に私を視ている。

 どれだけ感覚を遮断しても、そこにいることを私の脳が感じ取ってしまう。

 視ている。つぶさに観察するように。

 視ている。思うところがありそうに。

 視ている。何か期待しているように。

 耳鳴りがさらに強まっていく。全ての音が遠ざかっていく。

 ――――――。

 何も聞こえなくなる。聞こえなくなったはずなのに。

 これは、笑っている?

 あどけない少女の。脂の乗った中年の。溌剌とした少年の。落ち着いた雰囲気の女性の。のんびりとした老人の。気の強そうな若者の。無感情な誰かしらの。

 忍び笑い、だった。

 くすくすははあははふふはっはひひひふふん――老若男女問わない、幾つもの静かな笑いが折り重なって、私の鼓膜をくすぐっている。何がそんなに面白いのか。私にも教えてくれないか。そうでなければ、どうかもう、勘弁してもらえないか。

 ――――――。

 ――――――。

 ――――――。

 痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。

 ああ。ああ。そうか。これは。これからが本番なんだ。そんな。

 脳味噌の中央部が弾ける。大津波のうねり。その余波。汁。汁。汁。脳汁が溢れる。頭蓋を圧迫し爆発する。二つの目玉はコルク栓。保管状態が最悪だったのだ。穴という穴から吹き出している。出ていない? 嘘。私は耐圧性に乏しい。苦しい。頭を掻きむしる。長い髪を引っ張り抜けば、毛穴からじゅわじゅわ。溢れてくれ。

 混乱も極まる脳内とは別に、私は縮こまる四肢をそっと布団に突き立てながら立ち上がる。立ち上がった。私は動こうとしていなくて、身体が勝手に動いて――。

 身体が、勝手に?

 ああ。始まったのか。

 これが、異常行動の強制。

 その自覚があるからこそ、こんなにも苦しいのかもしれない。もしも気づきさえしなければ、しばらくは些細な違和感程度で済んだのかもしれない。

 どちらが幸せなのだろうか。

 少しずつ死へと近づいていく自覚があった方がいいのか。

 それとも死が間際に近づくまで自覚がない方がいいのか。

 そして、Kはそのどちらだったのか。

 自らの意志から切り離された身体が、独りでに動いていく。人智の及ばぬ強烈な力に導かれていく。私はせめてもの抵抗を試みるが、まだ比較的自由の効く体幹を総動員したところで、すぐに強制された四肢で動きは修正され収束していく。無駄だった。

 巨大な顔は口元を釣り上げていく。

 私は静かに座椅子に腰を下ろした。

 スリープ中のパソコンが起動する。

 両手がキーボードへと降りていく。

 どうなるのかと思った。まさか、私も稀代の速筆作家にでもなるのか? 馬鹿馬鹿しさに短く冷笑して、そしてその程度の自由は与えられているのだなと意外に思う。ああ。痛い。痛い。痛い。脳から何かが弾けて満ちて、冷たく熱くてはち切れそうで焼き切れそうな奇妙な感覚に苛まれる。

 モニターに映る、執筆活動に使う文章作成ソフト。

 それから次々に、私が今まで集めた資料のデータが開かれた。

 ぐい、と目が向かせられる。かたかたと指が文字を紡がせられる。


 かたた

 ――にゅ

 かたかた

 ――にゅーす

 かたりかたり

 ――にゅーすきじ

 たん、かたり

 ――ニュース記事


 なんだ、文字を打つ速度はいつもの私を変わらないじゃないか。痛みに苛まれながら、どこか他人事のように、否、まさに他人事のようにされるがままになっていると。


 たたかたかたたたかかたかたかたかかた、たんたんたた、かたり

 ――[千葉 両親殺害容疑で長男逮捕]


 これは、文字起こしをしている?

 一体、なんのために。どうしてこんなことを。

 戸惑っているうちに、全てを写し終えて、次の作業に移行する。

 動画投稿サイトにアップロードされた動画を開く。「2017.8.4開催 高円寺百物語ナイトに寄せられた怪談話」――音声を流しては止めて、文字を打ち込み、また音声を流しては止めて、文字を打ち込んでいく。

 ひたすらに、打ち込み続けていく。

 ちょっと。

 ちょっと待って欲しい。

 これはいつまで続くのだろうか。

 こんなことをしていられるようなコンディションではないのだ。こうなる前から、心身の限界なんてとうに過ぎている。頭が割れる。視界は歪む。腰骨が砕けそうだ。内臓全てが悲鳴を上げている。もう休まないとなんの比喩でもなく、死んでしまう。

 それらの危険信号は激痛と化して、私をどうにか休ませようとする。

 しかし、私の身体は既に私の支配下から外れているのだ。

 止まらない。止められない。

 お願いです。どうか、止まって。

 ほんの数分でいいから、休ませてください。

 やがて私の鼻孔からはドロドロと赤黒い血が流れ始めた。

 これは、何かしらの最後通告なのかもしれない。

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