友人作家のマンションにて
二月十日。都心にしては珍しく、朝から雪がちらつく日だった。
先に到着していた二人――Kの担当編集と私の担当編集である佐藤さんに、二言三言の必要事項を交わした後、小さく息を吐いた私はKの部屋へと足を踏み入れた。
Kの亡骸は、既に運び出された後だった。
暖房を消された直後のような生温さを、静かに掻き分けて進む。
私の自室よりも何倍も広い室内。数多の小説がジャンルレスに埋め尽くされていて、執筆の際に使っていたであろうデスクトップパソコンと座り心地の良さそうなチェア。それらを見れば、Kが今もすぐそばにいるような気さえしてくる。
しかしその反面、そこら中にビールの空き缶が転がり足の踏み場もなく、部屋には乾いた酒の臭いなのかそれとも死臭なのか酸っぱい匂いが充満しているのがあまりに彼と結びつかない状況だった。窓という窓を全開にしても匂いは少しもマシにならず、マスクを軽々と貫通して吐き気を催してくる。
半端に潰された空き缶の隙間に、血の混じった吐瀉物。
Kは、この床のあたりで、大の字になって倒れていたそうだ。
結局のところ、死亡理由は多量の飲酒による急性アルコール中毒だと判明し、事件性のないと事故死だと結論づけた警察官らはいそいそと去っていった。
そんなわけがあるか、と思う。
彼は酒に溺れる程弱い人間じゃないし、息をするかのように創作活動に打ち込むし、どんなものを書いたって破茶滅茶に面白い天才作家なんだぞと言ってやりたかった。
違う。そうではない。そういうことではない。
あまりの衝撃で馬鹿になった頭を、無理やり働かす。
Kも私と同様――いや、きっと私より早くに「顔の怪異」に取り憑かれていたのだ。
最悪だった。「顔の怪異」が取り憑く条件は正確には分からないが、少なくともその存在を知ったことが一つの契機になることは違いない。
つまるところ、彼が死んだ原因は。
紛れもなく、私のせいなのだった。
私が「顔の怪異」に興味を持たなければ。
「禁忌題目」なんかに手を出さなければ。
そうでなくともKに伝えさえしなければ。
自らが呪わしくて仕方ない。そもそもKと最期に会った時、私は彼の様子のおかしさから察するべきだったのだ。彼があんな酒の飲み方をするのは普通じゃない、と。
顔の幻覚を視ていたにしては全然怖がる素振りがなかったのも、彼のことだからそれこそ「見慣れた」のか、もしくは幻覚症状という貴重な体験を面白がっていた可能性もある。私ならばそんな彼の性格に気づいてしかるべきなのに。
やはりあれは、取り憑いた相手に異常行動を強制するのだ。
何を強制されるのかは、憑かれてみないと分からない。
Kの場合は、あろうことかそれが「飲酒」だった。
私のように何を強制されているのかまだ判別つかない状況だってあるというのに、どうしてあのKに限ってこうもすぐに死に繋がる異常行動を強制されたのか。
だって、普通逆じゃないか。
彼のような天才こそ生き残るべきで、私のような凡才が死ぬべきだ。
もしもこの異常行動の強制を交換できたなら、と有り得ない妄想が広がる。そうであれば、私は迷いこそすれどきっと交換したに違いない。だって、私が身代わりになって死んだなら、Kは私のことを一生覚えていてくれるはずだから。それはきっと、私にとって何よりも代えがたい――。
ああ、違う。そういうことを考えている場合じゃない。
それじゃあ何を考えるべきなのか。内なる声にさえ苛立ってしまう。贖罪の方法? この顔の怪異から逃れる手段の模索? Kを殺した自分がそんなことを考えていいはずがない。私は地獄に落ちるのがお似合いなのだ。
ふと、Kの著作がずらりと並んだ棚が目に入る。
もう二度と、ここに新作が増えることはない。他ならぬ私のせいで。その事実に立っていられない程の目眩を覚える。それ相応の責任を取らないでどうする。この場で死ぬことが償いになる? 私程度の命で? あの天才作家が生きていれば世に出したであろう素晴らしい作品群が、私ごときの人生を放棄することで釣り合うとでも?
違うだろ。私がすべきことは。
私の、すべきこと?
――凄まじい作品を、世に放つ。
降って湧いたその考え。あまりに、あまりに馬鹿馬鹿しすぎて笑いを堪えられない。ああ、駄目だ。もう少しで連絡を入れたKの両親が来るというのに。Kの担当編集と佐藤さんが部屋の外でどこかへ電話連絡を入れているのに。
もう無理だった。私は部屋中に響き渡るほどの大声で笑い始める。
私は頭がおかしくなったのか。
私は頭がおかしくなったのだ。
きっとそうだ。そうに違いない。息が苦しくなってマスクを引き剥がすと、肺の中いっぱいに酷い臭いがする空気が取り込まれる。おかしい。どれだけ笑おうとも止まらない。ほとんど酸欠状態で、涙がだらだらと勝手に流れてくる。
歪んだ視界の片隅に、腐肉に似た顔の怪異が佇む。
よく視なくても分かる。そいつも笑っている、と。
きっとそうだ。この顔は、私を嘲笑っているのだ。
ぐちゃぐちゃに乱れた情緒が、恐怖を麻痺させた。足元に何かが触れる。空き缶に紛れて転がっていた、まだ未開封のビール缶。おもむろにそれを拾い上げて、全てを弓なりに歪ませているその顔に、思いきり投げつけた。
がたん、と思いの外大きな音。
缶はなんの面白味もなく、その顔をするりと通り抜けていた。壁にぶつかった拍子でどこか穴が空いたのか、ぷしゅるるる、と泡が吹き漏れている。
顔は変わらず、ニタニタと憎らしく口元を釣り上げる。
「笑うな……、笑うな! 笑うなあっ!」
耐えきれなくなり、荒々しく咆哮した。
「……あの、……Rintoさん?」
突然掛けられた声に、私はびくりと大きく身体を震わせた。
振り返ると、佐藤さんとKの担当編集がいた。推し量るようにこちらを見ている。ぜえぜえと肩で息をする私。そこから慎重に距離を置いている二人。猫なで声で「大丈夫、ですか?」と問いかけられて、私はみっともなく慌てた。
違うんです。こいつが、こいつのせいでKは――。
そう指さそうとした先には何もなく、顔の幻覚は消え失せていた。
結果的に挙動不審な動きをしただけの私を出来るだけ刺激しないようにか、編集二人は「ご家族様の連絡先、教えていただき助かりました」「あとは私共の方でご説明させて頂きますので」とそれとなくながら強硬に帰るように促してくる。
私は何か弁明めいたこと言おうとしたが、結局何も言えなかった。
そもそもここにいたところで――Kの高齢の両親が、一人息子のこの部屋を見てどんな反応をするのか、それを見る勇気や気力など微塵も残っていなかった。
玄関から外へ出て、扉を閉める。細く長い溜息をついていると。
――何あいつ、独りでぶつぶつ言って。イカれてんの?
――やっぱりロクなことにならないんだな。禁忌題目なんぞに関わらせたら。
二人のどちらかが発したであろう、そんなような言葉が漏れ聞こえてきた。
疲れた。酷く疲れてしまった。
▽
帰り道は、白く染まっていた。
都心にしては珍しく、雪が積もったようだ。
白銀色の神秘的な世界を、人や車はこぞってずぶずぶと踏み散らしていく。そうやって穢すことで、どうにか世界を元の形の戻そうとするように。死んだ目でそれを見ていた私は、はたと自分の中に不思議な感情が居座っていることに気づく。
なんと言えばいいのか――それは奇妙にも、安堵によく似ていた。
やがて私はその心理を理解して、愕然とした。
私が胸の奥底にひた隠しにしていた、Kへ対する巨大で強烈な感情。
知られてしまえばもう元の関係に戻れないから、それが死ぬより怖くて仕方ないから、絶対に漏らさぬように秘密にしていた。それなのに、それなのに、最期に会ったあの夜。異常行動の余波か、私はその想いを自ら暴露してしまった――かもしれない。
結局言ってしまったのか、言っていないのか、私は確かめなかった。確かめられなかった。Kは私の想いに気づいたのか、それとも気づきはしなかったのか。
そして今現在、その真相を確認する手段は永遠に失われた。
Kが、死んでしまったから。
全ては闇の中というやつだ。
だから私と彼の関係性は、もう変わらない。変わりようがない。死ぬより怖いことをしてしまったのかもという、疑念に苛まれることもなくなったのだ。
もう二度と、彼と会って、話すことは出来ない。
私は、そのことを悲しむと同時に。
心のどこかで、安堵していた。
私は、醜い人間だ。
そう思うだろう、あなただって。
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