友人作家とのやりとり4―3
どれだけ誤魔化したって、怖いものは怖い。怖いのだけれど、凄まじい作品を作り出して、それでまたKの隣に立てるのであれば、それ以外のことなど瑣末事だった。
そんな心の中を見透かされるのが嫌で、私もKに負けじとお酒を呷る。
喉元を通る暖かな塊は臓腑に落ちていくまでの感覚もはっきりと分かって、それから寝不足で痛みがちな頭の中がじんわりと軽くほどけていくような感じがした。
Kは薄く笑った後、身体の緊張をふっと解いて、
「ったく、なんだよその」
――ひぎぅっ
その奇妙な音は、Kの喉元から聞こえた。
瞬間、彼が伸びをするかのように急に大きく上半身を反らしたと思いきや、バネ仕掛けの玩具のごとく腰から折り曲がる。だん、と顔から勢い良く机の上に突っ伏す。
感電でもしたのかと思った。違った。
次いで彼は、酷い咳をした。いや、し始めた。
――ごほっ ごほごほんごほごほっ
店内に響き渡るほどの大きな音。延々と続く。その度に身体を細かく痙攣させる。
――げほっ ひゅう ごほごほごほごほぼぼごぼ
痰が絡んだなんて生易しいものではない。止む気がしない。喉奥の大事な部分の肉が腫れて千切れたのではと荒唐無稽な妄想がよぎるほどの、厭な咳。
周囲から集まってくる視線の痛さに怯む。
嫌悪感まるだしの、悍ましいモノに向ける瞳。
私は必死に、震える喉からどうにか声を絞り出す。
「えっ、K? ちょ、だ、大丈夫?」
そんな蚊の鳴くような声など容易く掻き消して、Kは咳き込み続ける。
直前まで赤みを帯びて笑っていた彼の顔。今は赤と青白さが入り混じり喘いでいる。息を吸おうとする度に必ず失敗し、更に肺の空気を咳と共に吐き出していく。加速度的に色を失っていく顔はもはや死人のそれに等しくなりつつあった。
「大丈夫? K? K? きっ――救急車、」
鞄。携帯端末を取り出す。指紋認証が上手く突破できない。その数秒が尋常じゃなく長い。もどかしさでどうにかなりそうだ。手汗ですべる。画面の反応も悪い。幾度か間違いつつ一、一、九、と押す。耳に当てようとして、端末を滑り落とす。
突然、世界から音が遠ざかっていく。
「――――――?」
あれ。今、私は、せせら笑われていなかったか。誰に? 誰にだろう。人がこんなにも切羽詰まっているその姿を、面白おかしく眺めるやつは誰だ。
「ひとがこんな……ぉ、ぉもしろ…………だれだ」
誰が言った? 私の口から何か聞こえたような気がする。
心臓の音がやけに煩くて、それが何だったのか判別できない。
いや、今はそれどころではない。
せせら笑ったと思しきその顔。どこか既視感があるその顔。腐肉のように蠢いているその顔。唐突に解像度を増していくその顔。誰のものでもない、誰かのその顔。
Kの顔が、すげ替わっている。
「え、あ、あ、あれ?」
全く知らない顔が、笑う。笑っている。
二度三度瞬きをした時には、その幻覚は視えなくなった。
「あれ、今、え、え?」
我に返る。今、Kの顔の中に「顔の幻覚」がいなかったか。
それはさながら、質の悪いコラージュのように。
何だか酷く、厭な予感がした。
――げぼっ はぁっ
――ふうっ ふっ はあ はあ はあ
少しずつ音が戻っていくのと同時に、Kの咳は落ち着いていく。
周囲から奇異の目で見られて仕方ない程に、私は汗だくで動揺している。
▽
「はあーっ、びっくりした」
治まってしまえばさっきまでのことが嘘だったかのように、Kはけろりとした顔で再びビールを傾け始めた。私は、恐る恐る尋ねる。
「……びっくりした、で済ましていいものじゃないでしょ。本当に死んじゃうかと思った。――熱とか、息苦しさとか、ないんだよね? 大丈夫なの?」
「ああ平気だっての。変なとこ入ってオエってなっただけだよ」
「――あんな馬鹿みたいな勢いで飲んでいたら、嘔吐しかけてもおかしくないよ。酔いすぎなんじゃないの? 今日のK、なんかちょっと、変だしさ」
口の隅に泡をつけたまま、Kは心外そうな顔をする。
「おおげさだなあ。ちょっと喉乾いてただけだっての。……ってかさあ、そんなこと言い出したら、お前だって今日、ちょっといつもと違わねぇか?」
私は戸惑った。まったく心当たりがなかった。
「ほら、おかしいと思わねぇの? その喋り方も、その振舞いもさ」
「…………え?」
「自覚ないのかよ! おいおい、お前の方が酔っ払ってる説あるぞ」
「…………ど、どういうこと?」
不思議がる私を見て、Kは言いあぐねた末におもむろに携帯端末を操作し始めた。私は自らの行いを反芻する。果たしてそんな変な物言いをしているだろうか。
ふいに、ぴろん、と音が鳴った。
Kは携帯端末のカメラを断りもなく私に向けた。どうやら動画を撮影し始めたらしい。またこの男は何をする気だか、と呆れる。そもそも私は撮られるのがあまり好きではないのだ。彼だってそれを知っているはずなのに。
「ちょっと、撮るの止めてくれる?」
再び、ぴろん、と音が鳴った。
ほっとした私は二合徳利を手酌で空にし、脇を通った店員におかわりをお願いしていると、Kはどこか悪戯っぽく口元を歪ませつつ言う。
「なあなあ、これ観てみろよ」
「良いよ、別に観たくない」
いいからと押し付けられた端末の画面に、今しがた撮影したばかりの動画が再生されていく。そこには、お猪口を携えた私が映っていて、
『……ぃるぅ。……どぅゃら……しはじめた、らしぃ。またこのおとこ……ぁきれる。そもそもわたし……すきではなぃのだ。かれだって……しっているはずぁのに。――――ちょっと、撮るの止めてくれる?』
動画が終了する。
私は絶句した。全身に鳥肌が立つ。
私は焦点の合わない目で不明瞭な独り言を述べたのち、ふと正気を取り戻したかのようにこちらを見据えて喋っていた。それは、ひどく気味が悪い映像だった。
「え、これ、え、なに。私、こんな風に喋っているの?」
どうかタチの悪いドッキリであって欲しくて、縋るようにKを見る。
「おいおいおい、重症だな。ここ来たときから、たまにそんな感じになってんぞ」
ほんのこれっぽっちも、自覚がなかった。
「嘘でしょ……、そんな……」
心臓がぎゅっと痛くなる。
「ほらさ、お前最近ネタになるからって記録魔みたいなことしてんだろ? 音声のやり取りだって録音してさ。だからてっきり、この飲み会で記録しておきたいことを小声で音声メモに吹き込んでんのかなーって思ってたんだけど」
違うの? と首を傾げて問うてくるK。
それに対して、何一つ答えられない私。
確かに、ネット記事なんかのデータを保存しておくことの延長線上の行為として、普段から音声の記録も習慣づけていた。この前の絹澤匠の伯父と話したときだってそれが役立ち、精度の高い記録を残すことが出来たのだ。
しかし、そんな奇行をしていたなんて、全く気づかなかった。いったいいつごろからだろう。自ら録音したものを聞き返すこともあるというのに。言われないと気づかないだなんて、普通ありえることではないだろう。
自覚のないまま、私はもう手遅れなくらいに毒されているのではないか。
私は何を喋っている?
それとも、もしくは。
私は何を喋らされている?
誰かが、私をせせら笑っている気がする。
誰が? 誰でもない、誰かの顔が脳裏にちらつく。
自分が自分でなくなっていく冷えた感覚。頭の中に感じる異物感。私の精神はまだ私だけのものだろうか。痛みという実感を伴わないからこそ、何よりも恐ろしい。
「顔の怪異」は、私たちの予想を遥かに越えた、悍ましいものなのではないか。
「……ははっ。まあ飲みの席なんて破茶滅茶になってナンボだ。今日はRinto先生のプロット段階のクリアを祝して、俺の奢りといこう。べろべろに酔おうぜ。な?」
Kは知ってか知らずか、慰めにもならない言葉を、楽しそうに言う。
気分が、悪くなってくる。
もう一つ嫌なことに気づいてしまった。
私はKに、どこまでを話してしまったのだろう。
Kには絶対に知られたくない、私が秘する感情。
もしも先程のように、無自覚に呟いてしまったのだとしたら――酷く恐ろしくなる。Kはどう思っただろうか。彼の顔を、見ることができない。
怖い。
どうしよう。
動悸が激しくなる。
段々と身体を強ばせてしまう。
「――ハイこちら徳利おかわりでぇす」
ことり、と店員が置き去りにした白磁の太い筒。私は耐えられず、持ってきてもらったばかりのそれにそのまま直接口につけ、一気に飲み干しにかかった。
言うまでもなく、すぐに前後不覚に陥るであろう。
Kは腹を抱えてげらげらと笑っている。
笑っているフリかどうかは分からない。
次に目覚めた時、何もかも夢となっていてくれないだろうか。
私は全てから目を逸らすべく、ひたすら酒に溺れることにした。
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