筆者の実地取材記録[絹澤匠について]
あの悪夢を見てからというものの、どうも気分が優れない。
眠りが浅くなって常に熱っぽいというのもあったし、目の疲れからか飛蚊症が悪化するなど、とにかく体調全般が芳しくなかった。
そんなだからか、プロットを練っている最中に一瞬まどろんでしまった。
いけないと思って起き上がり、コーヒーでも淹れるかと伸びをした。
その時、窓辺の壁に違和感があった。反射的に一瞥する。
そこには、巨大の肉のような膨らみがあった。
何者かの顔のように、ぐにゃりと蠢いている。
私は腰を抜かす勢いで驚いて椅子から転げ落ちたし、生まれたての子鹿のように震え上がってうずくまった。本当に、本当に死ぬほど怖かった。
しかし、差し迫った異常な存在を見ないようにするというのもまた、凄まじい不安を煽るものだと身をもって実感する。もしもアレが、肉を引き伸ばすようにして、私のすぐ側までにじり寄り、真正面を覗いてきていたりしたら――と厭な想像が脳内で一瞬にして展開された。
その怖さから逃れたい一心で、再び目を遣る。
もちろん、壁は平坦で何も生えていなかった。
入り込む日差しで出来た、カーテンの影のみ。
見間違えだった。激しい動悸で、胸がひどく痛んでいるとやっと気づく。
震えの入り混じったため息をつく。疲れているんだ、と自分に言い聞かせた。
▽
担当編集からの返事はまだ来なかった。それはつまるところ、私が送ったプロットは禁忌題目を破ってでも取り上げる面白さではない、ということだろう。
私はより面白い方向性を探るべく、かき集めた参考資料のデータをノートパソコンに入れて、近場の喫茶店で作業を続けていた。なぜ外で作業するのかというと、変な見間違いをした恐怖を引きずり自宅にこもるのが嫌になったからだ。
何か見逃している情報がないかと、集めたデータを洗い直していく。
目についたのが、絹澤匠が起こした事件についてのニュース映像。
ニュース映像に一瞬だけ映る、彼とその家族が住んでいた家。
その周辺風景に私は既視感があることに気がつき、よくよく記憶を反芻した。そこは私がかつて一人暮らし物件を探し回っていた頃に訪れた、あの場所ではないか。
喫茶店に長時間居座っているため、店員の視線が厳しくなってきたこともある。
気分転換と情報収集を兼ねて、数十分ほどかけてそこに向かった。
実際に見る絹澤匠が住んでいた家は、ありふれた二階建ての一軒家だった。
表札は外されていたが、実際のニュース映像と見比べても全く同じ。やはりここで間違いない。ここで彼は両親を殺したのだ。そしてその顔を剥いで持ち歩いた。周囲の閑静な住宅街からは想像出来ない、などと眺めていたところ。
絹澤家の中から、人が出てきた。白髪頭で五十代程の男性。
チャンスだ、と思った。
上手くいけば、これ以上なくリアルで生々しい情報を知ることが出来る。
「あの、……こんにちは」
私は極めて平静を装って、そう話しかけた。
マスクのせいで表情を読み取り辛い男性は、すぐに怪訝そうな瞳を向けてきた。私は緊張しつつも気合を入れ直す。条件は同じだ。彼だってマスクを着けた私の表情が読み取り辛いはずで、二十代そこらの私が何者なのか戸惑っているに違いない。
「絹澤さんの――ご親族の方、ですよね」
「はあ、そうですが。……すみません、どちらさまで?」
「突然のご訪問で失礼いたします。私、Rintoと申します。四年前の事件についてお聞きしたいことがありまして、ご協力いただけると幸いなのですが」
「え? 誰? 警察? 保険屋? 役所の人?」
「いえ、私は作家、……というよりもフリーのライターと言った方が正しいかと思います。それでその、絹澤匠さんが悩まされていたという――」
ライターを名乗った時点ですでに男は苛立ちの雰囲気を滲ませていたが、絹澤匠の名前を出した時点で彼の眉は異様に釣り上がり、忌々しさを隠そうともしなくなる。
「話すことはない。帰ってくれ」
「お気持ちはわかります、ですがどうか――」
次の瞬間、私は道路にへたり込んでいた。
何が起きたのか理解が追いつかなかった。
見上げた先には憤怒で肩を上下させる男の鋭い視線。左頬が熱く痺れていることよりも先に、冷たく乾いたアスファルトの感触が気になった。それから二拍三拍遅れて、頭がくらくらしていることと、マスクの紐が千切れて落ちていることに気がつく。
どうやら私は、思い切り、頬を引っ叩かれたらしい。
「そうやってなあ! お前らは、お前らは――そんなに他人様の不幸が面白いか? 誰から死んだって聞いたんだ! ああ!? 言ってみろよ、おい!」
男は吠えるような勢いで言った。
私は疑問よりも恐怖よりも、焦りと罪悪感が先に湧いた。
そう、人が死ぬということを私は軽く見ていた。ニュース記事の数行で表現される人の死と、誰かにとってよく知る身近な人物の死というのは、当然ながら全く重さが違う。それをきちんと理解せず、配慮なく踏み込みすぎた。
それはそうだ。もし仮に私の家族に不幸が起きて、その不幸を興味本位でねちねちと聞き出してくる輩がいたら、頬の二発や三発は引っ叩きたくもなるはずだ。現状一発のみで留めてもらった私は、きっと彼に感謝すべきだろう。
男はどうにか怒りを鎮めようとしている。
それを見て、普段は理性的で善良な人なのかも、と思う。
私は、覚悟が足りていなかった。
だから今、静かに腹をくくった。
私は彼に勘付かれないように密かに唇の端を噛みちぎり、血を顎に滴らせた。まるで殴られて切れてしまったように見せかけるため。惨めで哀れで同情を引くような顔をして、男性にやりすぎたと思わせるため。
私がじっと見据えると、男はあからさまに狼狽えてくれた。
自らがやろうとしていることの悍ましさを、私は充分に自覚しなければならない。自分勝手で、酷く醜くて、善性からかけ離れた、人として最悪の行いだ、と。
もはや礼儀もへったくれもないが、それがせめてもの筋だろう。
私は、凄まじい作品を生み出したい。
そのために、見知らぬ誰かを傷つけたとしても。
そのために、不幸に苦しむ人の心を踏みにじったとしても。
それで地獄に落ちようとも、私は凄まじい作品をこの世に放つのだ。
「絹澤匠さんとそのご両親は、光相の導きという新興宗教と繋がりはありましたか」
私のその言葉に、男は虚をつかれたように固まった。
「それでは、波導エリ――もしくは波導エリが関連していると思われるスピリチュアル団体、もしくは巨大な顔の偶像を用いる自己啓発セミナーに心当たりは?」
実際に繋がりや心当たりがなくたって構わない。
これはブラフだ。絹澤匠の親族であるこの男性に「こいつは自分の知らない何かを知っていて、それを教えてくれるかも」と期待させることだけを目的としたハッタリ。喰いつかれるまで、思わせぶりな言葉を繰り出し続ける。
だって、作家――特に小説家とは、そういうものではないか。
真実かどうかは重要じゃない。提示すべきは心惹かれる物語。
「絹澤匠さんが悩まされていた幻覚症状について、ある仮説が打ち立てられているのです。それは人に伝播し、一度罹ると治療は困難で、ごく僅かな適応者以外は必ず自ら破滅に突き進む。まるで、まるでハリガネムシに寄生されたカマキリのように」
この数ヶ月で一番、頭が素早く働いている。
なにを考えずとも、自然と口から言葉が溢れてくる。
それにしても私はこんなにも思わせぶりな発言が上手かったか? 今まで人と喋るのは苦手な方だったのに、予め準備していたかのように口からすらすらとそれらしい言葉が出てくる。窮地に陥り才能が開花でもしたか。
喋っている最中でも、どうせならばプロットを練っている時や執筆中にこの状態になりたいものだと頭の片隅で考えつつ、それでもなお余裕が有り余る。
ハイになっている。ゾーンに入っている。男の視線の揺れ方やみじろぎ一つから、その心の内を手に取るように分かってしまう。
彼は、私に、気圧されている。
あと、もう一息だ。
今日は十二月五日の日曜日。千葉北西部に位置するこの町の空は鈍色の雲がかかり、まだ昼過ぎなのにどんより暗く、そして寒い。目前に立つ男は不織布マスクで顔を隠すが、その表情は強張っていて息が浅い。吐息で幾度も薄ら白く煙っている。
「貴方はご存知ですか――」
男の視線は私、というよりも私が座り込む地面にあたりで右往左往する。何に視線を誘導されているのかというと、セピアがかった風景の中ではなによりも目を引く紅い血の雫。私の唇から顎を伝って垂れ落ちて、また一つ赤い点が増えた。
「絹澤弘子さんが二十年前に掲示板に書き込んだ内容を――」
視界が冴え渡り続けていく。紅い雫の跳ね返りまでも追えるように。男が着ているフライトジャケットの縫い目を数えられるように。吹き下ろす寒風が庭先に植えられた枯れかけの木々をどう揺らすかを予想できるように。
私の背後を舐めるように見る、誰かの気配に気がつくように。
――誰かって、誰?
弾かれるよう立ち上がって、振り向く。
過ぎ去ってしまえば何の記憶に残らないであろう、有り触れた住宅街。そこに隠れるようにある酷く寂れた古アパートのベランダ。生活感がまるでなく、物干し竿さえ掛かっていない。その代わりかのように薄茶色の蔦が全体をびっしり覆っている。
十数年前を最後に時が止まったかのような時代の遺物。
その一階の右から二番目、ヒビだらけで薄汚れた窓。
その中にぽつんと佇む、腐肉のような歪な膨らみ。
それは、私のことを――じいっと、見ている?
応ずるように、ぐにゃり、と何かが蠢いた。
それを視認する前に、私はきつく目を閉じた。細く息を吐き目蓋を揉みほぐす。気のせいだ。気のせい。疲れ果てた脳が何もないに決まっているところに何かがあるのではと誤作動してしまっただけ。そう呟く私の肌は余すことなく総毛立っていた。
先程までの万能感は、嘘のように消え失せる。
「なあ――」
男の声に、私は緩慢に向き直った。
未開封のポケットティッシュを差し出されていた
「――悪かった、本当に済まない。カッとなって……大丈夫か? その、今、君が話していたことを、詳しく聞きたいんだが。教えてもらうことは出来るかな」
遅まきながら、男は食いついてはくれた。
いずれにせよ、これは収穫となる。
疲れ果てた身体に鞭を打つ。
「構いません。交換条件として、絹澤匠さんのことを教えてくれるなら」
▽
終始申し訳無さそうにする男性は、絹澤正樹と名乗った。
彼は絹澤匠の父方の伯父にあたる人物で、結婚はしているが子はおらず、甥である絹澤匠を幼少期から可愛がっていたそうだ。その日は、絹澤匠に関する全てのことが終わってしまったため、彼らが住んでいた家の整理に来ていたらしい。
やはり彼は善良な人物だった。私の残酷な行為を、最後まで疑わなかった。
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