11

 笑い声を聞いたとたん、急にぞわぞわと背中が寒くなった。気がつくとおれは自分の部屋にもどって、大きな音をたててふすまを閉めたところだった。

「あつい」と言った何かが二階から下りてくるんじゃないか――そう思ったら、今さらだけどすごく怖くなったのだ。

 でも気になる。おれは閉めたままのふすまに耳をつけ、外の音を聞こうとした。自分の心臓の音がやけにうるさい。こんなときにかぎって居間のテレビもつけっぱなしだ。でも、消しに行ったら何かとはちあわせしてしまうかもしれない。

 おかしな音は聞こえなかった。おれはあきらめて、部屋の真ん中に座り込んだ。物置のにおいがする小さな部屋で、何かが出てきていなくなるのをじっと待った。

 テレビでバラエティでもやってるのだろう、居間の方からたくさんの人が笑う声がした。


 部屋から出たのは、それからだいたい一時間後のことだった。ふすまに耳をつけて、テレビの音以外は何も聞こえないと確信してからそっとふすまを開けた。どろぼうみたいに足音を殺して廊下に出る。おそるおそる首をのばし、階段の上を確認した。

 暗がりの中には何も見えない。視線を下ろしていく。だんだん明るくなる。途中の段にはおれが置いたコップがある。

 確かに半分以上注いだはずのコップの水は、空っぽになっていた。

 息が止まりそうになった。とにかくこのままにしてはおけない。おれはコップをあわてて片付け、ついでに階段をさわってみた。ぬれていない。水はこぼれてなくなったわけじゃない。

(だれかが飲んだんだ)

 だれか、というよりは、きっとおれに「あつい」と言った子だろう。あの足の持ち主かもしれない。

 コップは特によごれたり、割れたりもしていない。シンクでそのコップを洗う間、おれはぼんやりと考えごとをした。混乱しているせいか、あまり難しいことは考えられない。

(「あつい」の子、どうしてるかな)

 少しは暑くなくなっただろうか?

 なんてことを考えながらコップを洗う自分のことを、ずいぶんおひとよしだなと思った。相手は母さんが言うところの「お化け」だ。そんなものにちょっと親切にしてやって、で、どうやらそれを受け入れてもらったらしい。そのことをけっこう喜んでいる自分に、おれは気づいていた。さっきはあんなに怖かったのに、出した水を飲んでもらえると、それだけでうれしくなってしまう。おかしなものだ。

 あとになって思えば、おれはヒマなだけじゃなくて、さびしかったんだと思う。何かリアクションをくれるものがいて、そいつからリアクションを受け取った。それだけで気分が盛り上がってしまったのだ。おれはいつもよりていねいにコップを洗うと、コップ用の水切りかごに戻した。

(このこと、母さんに教えた方がいいかな)

 ふいにそんなことを考えて、迷った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る