木が見ている
佐伯 安奈
木が見ている
男の子は、森の中に住んでいたようです。その男の子はいつも森の中からやって来て、学校へ向かっていたからです。だから、おそらく森の中に男の子の家はあったのでしょう。そういう子どもは、たぶん、その男の子くらいだったはずです。
ある日、いつものように男の子が学校へ行こうとすると、声が聞こえました。
「男の子、お前はいい子だ。だから、私が見守っている。」
男の子は毎日一人で学校へ行っていて、途中、誰かに会うことはありません。だから、学校への道中、男の子に話しかける人はいないはずなのです。
男の子は最初、空耳だろうと思いました。
しかし、声はまた聞こえるのです。
「男の子、お前はいい子だ。だから、私が見守っている。」
男の子は、どうやら本当の声らしいと気づきました。そして、それが自分に向けられていることにも。
だって、この道を通る子どもは、この男の子以外、誰もいないのです。
そもそも、この男の子の他には、この道を通る人間はほとんどいないのです。
男の子は、声がどこから聞こえるのか、辺りを見回してみました。そして、どうやら一本の木から、その声が聞こえてくるのだと分かりました。
男の子は、別段、木に詳しくはありませんでしたから、その木が何という木なのか知りませんでした。
しかし、よくこの森に生えている木だと思いました。
男の子は、その木の前に立ちました。木は、また言いました。
「男の子、お前はいい子だ。だから、私が見守っている。」
男の子は、怖いと思ったでしょうか。
でも、これくらいの年齢の子どもは、まだ大人の世界の常識とは無関係ですから、しゃべる木があったとしても、何とも思わなかったのではないでしょうか。
その日、男の子は学校に行きました。
学校で授業を聞いていると、男の子は、またあの声を聞きました。
「男の子、お前はいい子だ。だから、私が見守っている。」
男の子の座席は窓際でした。不思議に思って窓を見ると、男の子の目の前の窓だけ、何だか暗いのです。
木が生い茂っているからでした。どうやら、森の中で男の子に話しかけてきた木と同じ木のようです。
同じ木、と言っても、最初に話しかけてきた木が移動してきたのではなく、それと同じ種類の違う木がそこに生えてきて、男の子に何か言っているようなのです。
男の子は、みんなが自分を見ているのではないかと思って、クラスを見回しました。
でも、先生もクラスメートも、その木には気づいていないようでした。
男の子だけにしか、木の声は聞こえないようでした。
次の日、男の子は昨日と同じように、学校へ行こうとしました。
また木に話しかけられるのかと思いましたが、今日は、誰の声も聞こえずに、学校まで行けました。
ところが、変なのです。
学校があるはずの場所に、たくさんの木があるのです。ここは校門で、その先は校庭が広がっているはずなのに、ずっと、森が続いているのです。
すると男の子の耳に、あの声が聞こえました。
「男の子、お前はいい子だ。だから、私が見守っている。」
「男の子、お前はいい子だ。だから、私が見守っている。」
「男の子、お前はいい子だ。だから、私が見守っている。」
何本もの木々が、口々に(木に口があるとすればのことですが)男の子に向かって、同じことを言うのです。言いながら、木は体を揺さぶり、そのたびに、木は増えていくようでした。
そうして、男の子はだんだん、後にしてきた家の方に、押し戻されていくのを感じました。
男の子は家に入る間際に、思いきって後ろを振り向こうとしましたが、できませんでした。でも、がさがさざわざわという音がしたような気がしました。
明くる日、男の子は消えてしまった学校へもう一回行ってみようと思いました。
玄関へ行くと、父親と母親のスリッパが揃えて置いてあります。そう言えば2人の姿をしばらく見ていません。男の子は、いま初めてそのことに気づきました。2人はどこへ行ったのでしょう。
家から出ようとして、ドアを開けようとすると、抵抗を感じました。何か重い物が外に置いてあるような。あるいは、外から誰かがドアを押しているような。
男の子は男の子に出せる力を総動員してようやくドアを開けると、がさがさざわざわという音がしました。
見ると、たくさんの木が生い茂っているのです。そして、何本もの木から、一斉にあの声がします。
「男の子、お前はいい子だ。だから、私が見守っている。」
森の中で見た一本の木がどんどん増えて、今や森中の木がみんなで男の子を見守っているかのようでした。しかし男の子は学校どころか、外へ出ることもできなくなってしまいました。
仕方なく玄関を閉めて家の中に入ると、なんだかさっきより家の中が薄暗く感じられました。男の子は、木が学校で話しかけてきた時のことを思い出して、きっと、家の全ての窓の向こうに木が生えてしまったから、外の光を通さなくなってしまったのだ、と思いました。
朝が来て、男の子は、自分の部屋から出ようとしましたが、ドアがどうしても開きません。また力を振り絞ってようやく半分だけドアを開くと、葉をびっしりつけた枝が危うく男の子の顔に当たりそうになりました。どうやら、木は家の中まで入り込んでしまったようでした。
そして、相変わらず男の子の耳には、あの話しかける声が聞こえるのです。
「男の子、お前はいい子だ。だから、私が見守っている。」
木が見ている 佐伯 安奈 @saekian-na
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