1-10 竜も恥じらうお年頃



 昨晩、結婚を決めたジークリンデとニコラス。

 ニコラスは早速、ジークリンデを自分の領土に招きたいと言い出した。


「確かに行く宛てもありませんが……ウォーネットがあるのは国境付近。この時間ではもう汽車は動いていませんし、今から馬車を走らせるのは少し難がありません事?」


 一度自宅に戻るしか無いと考えていたジークリンデだったが、ニコラスは「問題ない。あれの翼なら一晩でウォーネットに到着する」と言ってのける。


 あれ? 翼?


 目を丸くするジークリンデを他所に、彼は星空に向かってピューッと指笛を吹いてみせた。

 するとどこからともなく大きな翼の羽ばたきが聞こえてくるではないか。


「まぁ……ッ!」


 夜の闇に溶けてしまいそうなその姿がハッキリと輪郭を持つと、ジークリンデの表情がパッと明るくなる。


「お前、あの時の……!」


 空から舞い降りたのはまるで悪魔のような翼を持った愛しい子。

 ジークリンデの婚約破棄の原因にもなった、湖畔のワイバーンだった。

 ワイバーンはジークリンデに気が付くとクルクルと喉を鳴らしてあの時のように胸に擦り寄ってきてくれた。


(なんて愛らしい生き物なの……!)


大きな体を懸命に寄せるその姿に、ジークリンデは自身の体温が上がるのを感じる。


「やはりコイツを助けてくれたのは貴方でしたか」


 ニコラスの言葉に、ジークリンデはワイバーンに寄せていた額を上げる。


「この子は子爵の……?」

「ギャバンは私が赤ん坊の頃から育てたんだ」

「まあ、素敵!」


 ワイバーンを手ずから育てるだなんて、自分も一度経験してみたいものだ。


「夜会の警備に人手が足りぬからと連絡を受け、コイツに乗って急いでこちらまで来たんだが……その途中で騎士団からの攻撃を受けてしまってな。野生の魔物と間違えられたのだろう」


 この国では箱庭から出てきてしまった魔物は基本的に騎士団に寄って処分される。人的被害を出させる前に対処をするのが騎士団の仕事であるため、まさかそのワイバーンが自国の貴族を乗せているだなんて思いもしなかったのだろう。彼らを攻撃した騎士団員を責める事は出来ない。


 攻撃を受け、子爵は背中から振り落とされてしまい、ギャバンもまたどこかへ墜落してしまったそうだ。

 ギャバンが落ちた場所こそが、ジークリンデ達が訪れたルーズウェルの湖だったのだろう。


「怪我を負った魔物なんて騎士団が見付けたら間違いなく殺されると思って気が気ではなかったのだが……ギャバンの命は貴方に救われた。本当にありがとう」

「怪我を負った者を見過ごすなんて、私には出来なかっただけよ。それにバンダナを付けていたので……もしかして人の保護下にある子なのではと思いましたの。まさか子爵の所の子だとは思いませんでしたが、無事で何よりです」


 そう言ってギャバンの顎の下を掻いてやってると、ニコラスは不思議そうにジークリンデ達の事を見つめていた。


「今更なんだが……驚かないのか? 異形の騎士が魔物を連れているだなんて、普通貴族が知ったら卒倒ものだろう」

「こんな愛らしい子の前でそんな言葉が出る筈ないわ」

「そ、そうか……」

「……もしかして子爵が私に結婚を申し入れて下さったのは、この子の事があって?」

「全く無関係だと言ったら嘘になるが、一番の理由は以前より貴方を慕っていたからだ」


 彼はずっと自分の事を慕っていたと言ってくれるけれど、そのきっかけはなんだったのだろうか。ジークリンデ自身は今日まで挨拶以外ニコラスと言葉を交わした覚えも無いのだが。尋ねてみてもはぐらかされてしまい、結局答えは分からずしまいだ。


「余り帰宅が遅くなっては貴方も休めないだろう。早速だが、ウォーネットに向かうとしよう」

「ええ……、………………」


 そこでふとジークリンデはある事に気が付いた。

 確か彼はギャバンの背中に乗ってここまで来たと言っていた。という事は帰りも……?


 物思いに耽るジークリンデを他所に、ニコラスは慣れた様子でギャバンの背中に付けられた鞍へと跨った。


「さぁ、お手を」


 差し伸べられた人ならざる手に、ジークリンデの思考が停止する。


(私、これからワイバーンの背に乗って空を……?)


 これから起こる出来事に気が付くと、少女の頬がみるみるうみに紅潮していった。


「お、お待ちくださいませ!」


 それまで動揺らしい動揺を見せなかったジークリンデが一変して声を張った事で、ニコラスの表情も僅かに陰りを帯びる。


「……申し訳ない。やはりこの異形の手は気味が悪いな」

「そういう事ではありません!」


 頬に手を当てたジークリンデは、目をぐるぐるさせながら必死に言葉を紡いだ。


「貴方の手はとても美しいわ。まるでドラゴンの鱗のようにゴツゴツしていて、とても魅力的だと思いますの!」

「初めて言われたな……」

「ただそんな、ワイバーンの背中に乗るだなんて。しかもそれから空を飛ぶだなんて……」

「申し訳ない。やはり恐ろしい……」

「恐ろしいなんてものではありませんわ。高揚で頭がどうにかなりそうですわ……!!」


 ワーッと慌てて捲し立てるジークリンデを見下ろしながら、ニコラスはぱちぱちと目を瞬いた。


「こうよう」

「そんなそんな、だってその姿を見る事が出来ればもう私の人生に悔いは無いとまで思っていましたのに。触れるどころかそんな、そんな……!」

「ジークリンデ?」

「ああ、お待ちくださいませ! 心の準備が……! だってそんな、夢のようなシチュエーションを前にしてどうしたら良いのか分かりませんのよ!」


(私がプロポーズした時よりも顔を赤らめてはいないか?)

 などとニコラスが考えていた事など露知らず。


 ジークリンデはキャーキャーとまるで初めて男性と手を繋いだ生娘のようなに恥じらうばかり。


 魔物に焦がれながらも王太子妃としての立場を弁え、落し物を拾い集めるに留めて今まで散々我慢をしてきた彼女からしてみれば『魔物の背中に乗り宇宙を駆ける』なんて夢のまた夢のシチュエーションだった。


「ギャバン、お前には負けんからな」

「ンギャ?」


 ニコラスが一方的に火花を散らしていたなど露知らず、一人盛り上がるジークリンデを見兼ねたのか彼が彼女の手を引いた。


「わっ!」


 ふわりと体が浮かび上がる。

 脇の下に手を添えられてジークリンデはニコラスの前に座らされた。


「こんな事になるとは思っていなかったからな、鞍が一人用なんだ。落ちないように気を付けてくれ」


 背中にピッタリと感じる人の体温と頭の上から聞こえてくる低い声。

 視線の先ではこちらに首を向けたギャバンが上機嫌に小さく鳴いた。


「え、いや、あの……」

「ギャバン!!」

「ギャオっ!」


 慌てふためくジークリンデを他所にニコラスが声を掛けると、掛け声に合わせてギャバンが大きな翼を広げた。

 数度の羽ばたきの後で彼の体が浮かび上がる。

 風を受けながら、魔界の獣の体が急激に上昇していった。


 ほんの数秒、向かい風にジークリンデが目を閉じている間にギャバンは空高くにまで舞い上がる。


「わ、ぁ……ッ!」


 目を開いた瞬間、ジークリンデは眼下に広がる光景に思わず声を漏らした。


「怖いか?」


 ニコラスに問われたジークリンデは首をふるふると左右に振った。怖いなんて、そんな事あるもんか。


「最高、ですわ……!」


 こんな、こんな最高な光景を前にして怖がる余裕なんて無い。


 今自分はワイバーンの背中に乗り天高く空を飛んでいるのだ。


「御屋敷がもうあんな所に。星がこんなにも近い。手を伸ばせば届いてしまいそう……!」

「そうか」


 年頃の少女のようにはしゃぐジークリンデにニコラスは慈愛に満ちた視線を送っていた。


冷たい風が彼女の髪を乱す。品の良いドレスも邪魔でしかない。


(そのうち仕立て屋を呼んで動きやすいパンツスタイルを拵えてもらわなくちゃ……!)


「ああ、ワイバーンの背に乗って空を舞うだなんて。今日が私の命日ですのね」

「嫁いできたその日に死なないでくれ」

「ふふ、それもそうですわね」


 魔物が好き。

 魔粒子の影響を強く受けた事で、本来の生き物における進化理論から外れた所で生きてきた彼らが昔から大好きだった。


 でもそれはいけない事で、ましてやジークリンデの立場では口にする事すら許されなかった。


 そんなジークリンデの常識自体、この夜空によって吹き飛ばされてしまう。遠くに小さく見える街並み。自分はあんな所に閉じ込められていたのだろうか。


「ギャバン、速度を上げるぞ。……しっかり掴まっていろ」

「ええ!」


 雲にも手が届きそうな空を大きな翼が割いてゆく。

 目的地であるウォーネットまでひとっ飛び。

 叫び出したい衝動を堪えながらも、ジークリンデは束の間の空の旅を満喫したのだった。

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