1-5 少女の善行



 血に塗れながらも自身を助けると言い切ったジークリンデを前にしてワイバーンが何を思ったのかは分からないけれど、拒絶を見せたのは最初の咆哮、一度のみ。彼はとても大人しくジークの治療を受け入れてくれた。


 ジークリンデにはしっかりとした医学の知識がある訳では無いため、出来ることは表面の細胞を活性化させて傷口を塞ぐ事くらいだ。それでも応急処置としては十分の効果があるだろう。


(体が大きい分、傷口の面積も大きい……当人の魔力が阻害して来るせいで上手く術がかからない……)


 初めて見る魔物に初めて行う治療。想定通りの術が掛からずに悪戦苦闘しながらも何とか術をかけていく。


「ふ……くぅ……ッ」


 ジークリンデの額に汗が滲み、眉間のシワが深くなっていく。久しぶりに大きな力を使ったせいなのか次第に息が荒くなっていった。それでも彼女はもう少し、もう少しと自分に言い聞かせて体の奥から魔力を振り絞る。


 時間にして十分にも満たない治療だった。だがジークリンデの必死の治療も合間ってワイバーンの翼の傷は少し痕が残ったものの、飛行に問題無いだろう程度には回復した。


「痛みは?」


 ジークリンデからの問いかけにワイバーンはクルクルと喉を鳴らす。

 その目にはもう警戒心など無く、とても穏やかな瞳で彼はジークリンデの事を見下ろしていた。


「ここには領民も近づきません。我々も一度この場を離れます。ですのでどうか体力の回復に努めて、動けるようになったのなら直ぐに箱庭にお帰りなさい」

「クォン」

「良い子。……わッ!」


 するとワイバーンがジークリンデの胸元に鼻先を寄せてきた。まるで甘えるようなワイバーンの仕草に思わずジークリンデの口角が上がってしまう。そっと触れた鱗は思っていたよりも艶々しており、滑らかな肌触りをしていた。


 まさかまさか、人生の中でワイバーンをこの胸に抱ける日が来ようとは。


(なんでしょう。この可愛い生き物……え、お屋敷で飼ったりは出来ませんよね。見るからに人から貰ったバンダナを付けておりますし……)


 人に飼われている個体かどうかではなく、そもそもワイバーンを屋敷で飼う等世間の常識的に無理な事なのだが、余りにも人懐こい彼の行動に思わずそんな思考が頭を過ぎる。

 ジークリンデが鼻先をそっと撫でると、彼は上機嫌に喉を鳴らした。まるで大きすぎる犬に戯れつかれているような気分だ。


 可愛い。本当に可愛い。


 もう何時間かこの場所で彼と戯れていたい衝動に駆り立てられたものの、ここには自分以外の人間の姿もある。

 今まで魔物への愛はひた隠しにしていたものの、思わぬ形でエドワードに自身の趣味が発覚してしまった。まずはその弁明を試みなければ。


(ああでも折角生きた魔物……それもあんなに人懐こいワイバーンに出逢えたと言うのに。もうお別れをしなければならないなんて……そんな殺生な。あと数十分、いえ数分だけでもあの子と一緒にいたい……)


 後髪を引かれながらもジークリンデはワイバーンの元を何とか離れる。心の中で繰り返し葛藤をしていたのだけれど、それはエドワードにもワイバーンにも悟られぬよう平静を装った。

 立ち止まりそうになる自分の足を叱責しながら、彼女はなんとか十数メートル先で渋い表情を浮かべたエドワードの元へと戻って行く。


「勝手な行動、誠に申し訳ございませんでした」

「いや、そんな事よりも大丈夫なのか? 何か体に異常は……」

「久しぶりに魔法を使って少々疲れてしまいましたが、それ以外には特に」

「そうか……それなら……」


 彼は確かにジークリンデの事を心から心配している様子だった。

 だが不安気な表情の理由はただ彼女の体を気遣っているだけのものでは無いのだろう。エドワードはまるで異形なものでも見るかのような視線をジークリンデにむけている。

 当然だ。これが犬猫を助けたのであれば話は違うのだろうけれど、ジークリンデが怪我を治したのは魔物だ。

 この世界では魔界から時折流れてくる魔物によって人的被害も発生している。この国を守る騎士団の仕事は他国との戦争以外にも、魔物との戦闘、駆除も含まれている。


 それをジークリンデは助けたのだ。

 その行動はとても王太子妃として認められるものではない。エドワードの訝しむような視線の意味も分からなくは無かった。


「ジーク、君はどうして……」


 エドワードからの追及に応えようとしたジークリンデだったが、次の言葉を繋げることが出来なかった。


「申し訳ございません。少し、疲れてしまって……」

「ジ、ジーク……ッ‼︎」


 くらりと頭の中で何かが渦を巻く。視界が歪み、体から力が抜けていってしまった。

 初めて行う魔物への治療。通常時よりも魔力の消耗も激しく、疲労が強く出てしまったのだろう。エドワードの腕に倒れ込むようにしてジークリンデは意識を失ってしまった。


(ああ、エドワードのお召し物に血が付いてしまったら、いよいよ言い訳が出来なくなるだろうな)


 眠りに落ちる間際、ジークリンデはそんな的外れな事を考えていた。


 次に彼女が目を覚したのは、自室のベッドの上だった。側仕えからエドワードは既に王宮の方に戻ったと聞かされた。

 いつもの彼ならば婚約者が倒れたとなれば時間が許す限り屋敷に滞在していただろう。だが窓の外はまだ日も高く、彼の帰宅時間には早すぎるものだった。


 この時点でジークリンデは何かしらのお咎めがあるだろうと覚悟はしていた。

 初めて目の当たりにした魔物の姿につい気持ちが昂ってしまったのはあるのだが、彼の前で些か行動が軽率過ぎたと自身の行動を恥じていた。当然ながら一連の話を聞いた父からもキツく叱られてしまった。普段の行いにどれだけ気を遣っていようとも、たった一つの行動で信頼が崩れてしまう事もある。


 自身としては傷を負った生き物を助けただけであり、相手が猫だろうがワイバーンだろうがそこに大きな差はない。

 だがその行動がエドワードの目にどう映るのか、咄嗟に考える事が出来なかったのはジークリンデのミスだ。


 だがエドワードから直接何か連絡が来る事も無く、気が付けば元々一緒に行く事が予定されていた舞踏会の当日になってしまった。

 ジークリンデをエスコートするエドワードに大きな異変は見られず、てっきりこのまま先の一件は流されていくのかと思っていた矢先。



「ジークリンデ・ロゼッタ。君との婚約は破棄させてもらう」


 突然の婚約破棄を告げられたのだった。


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