1-4 怪我をした魔物
水辺にいたのは、全身を黒い鱗に包まれた大きな生き物だった。
大型の爬虫類を思わせるような顔立ちと大きな角。丸太のように太い尾と、蝙蝠にも似た翼。愛読書の『魔法生物大全』で何度も見た姿が実際に目の前に広がっていた。
(なんて、なんて美しいの……!)
羽根や鱗など、敷地の中に落ちていた欠片では無い。ジークリンデが生きた魔物を目にするのはこれが初めての事だった。
その荘厳かつ幻想的な出立ちに暫しの間ジークリンデは言葉を失ってしまう。息を飲むと言う慣用句そのままに、彼女はその大きな生き物に心を奪われていた。
「ジーク、ここは危険だ。馬車に戻ろう」
「……」
「ジーク!」
エドワードからの声掛けにも反応を見せず、ジークリンデはじっと食い入るようにドラゴンの様子を観察していた。
「ドラゴンじゃない……翼の形状からしてあれはワイバーン……? それにしては動きが可笑しい……ワイバーンの翼ならば可動域は蝙蝠のそれに近い筈だからあんな……」
ブツブツと呟きながらも魔物から視線を離そうとはしないジークリンデの姿にエドワードは思わずたじろいだ。
だがそんな彼の姿にジークリンデが気付く事も無い。
自身が異端である事を自覚していたからこそ、ジークリンデは自身の悪癖についてはけして家族以外にはバレぬように振舞っていた。それがせめてものお情けを貰う為の、父から与えられた最低条件でもあったのだ。
その為エドワードはジークリンデが長らく魔物を愛し、探究心を募らせている事など知る由も無かったのである。
「怪我をしているんだわ……!」
様子のおかしなワイバーン。その理由に気が付くとジークリンデは茂みから飛び出し一目散に魔物の元へと駆け出した。
「ジーク!」
「剣はけして抜かないで!」
突然走り出したジークリンデの姿に目を見開き、咄嗟に腰に指していた愛刀に手を掛けようとしたエドワードを制して、ワイバーンの元へと向かう。
大きな体の前に立つ。改めてその巨体に息を飲んだ。
傷口が痛むのだろうか、こちらに警戒をしているのか。ワイバーンはグルルと喉を鳴らしながらこちらを睨み付けてくる。
だが間近で彼の体温を感じ、その息遣いに触れている今、ジークリンデの中に恐怖の二文字は浮かんでこない。そこにあるのは純然たる好奇心と、筆舌に尽くし難い高揚感のみである。
「本当に……」
貴方達はなんて美しい生き物なのかしら。
湧き上がる感動と興奮を抑えながらジークリンデはワイバーンの右翼に視線を向けた。
野犬にでも襲われたのだろうか、皮膜から鮮血を流していた。
「ジークリンデ、何をしてるんだ! 早くこちらに戻れ!!」
慌てたエドワードの声も、今のジークリンデの耳に入ってこない。彼女は真っ直ぐに目の前の魔物に視線を向けていた。
「大丈夫、私に貴方を傷つける意思はございません」
何処まで言葉が通じるのか分からないがジークリンデは敢えて自らの考えを声に出し、ワイバーンと向き合った。
「ギュォァァァ‼︎」
だが当然、ワイバーンがジークリンデに向かって咆哮を上げ、牙を向ける。同時に大きな翼が旗めき、彼女の頬とラベンダー色のドレスに鮮血が舞った。
「ジーク!」
「手出しは無用です! 彼を警戒させたくない。剣を抜かないで」
今にもこちらに走り出してきそうなエドワードを片手で制すと、ジークリンデは護身用にと身に付けていた短剣を、エドワードの足元に投げ捨てた。
「大丈夫。信じて下さい」
どう言う経緯があったのかは分からないけれど、彼の首にはバンダナ物が取り付けられていた。この子は人の存在を知っている。それも、魔物に対して好意的な考えを持つ人間を。この子の自由と尊厳を奪いたいのならば、赤いバンダナ等ではなく動きを縛る鎖を付けた事だろう。
それならば無闇矢鱈に自分が近寄った所でこちらに危害を加えたりはしないと判断した。
と言うのも建前で、こんな状況下で動かないなんて選択肢は彼女の中に無かったのだ。
「大丈夫、貴方を助けるわ」
ジークリンデはロゼッタの娘として幼少期より剣術と合わせて魔法学についても叩き込まれている。特に傷付いた兵士を救う癒術に精通していた。これくらいの傷ならば自分の手で治せる筈だ。
「ジーク……ッ! 魔物なんかに近づくな。お前の魔力が穢れてしまう」
穢れるものですか。傷を負った生き物を前に見て見ぬふりをする事で自身が穢れるというのなら本望。
エドワードの言葉を無視し、目を閉じて両手の掌に魔力を集中させる。魔力が高まりに合わせて長い髪とドレスの裾が揺れた。
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