1-2 在る日の日常



 希少なホワイティアンの石を切り出して外壁が作られており、陽光を浴びると星屑のような優しい光を放つ。屋敷の前には広い緑の庭が広がっており、庭師が丹精込めて育てた色取り取りの季節の花々が咲き誇っていた。


 西の都市エメラルダにそびえるロゼッタのお屋敷は、その日もまるで御伽噺に出てくるお城のような荘厳な美しさを放っている。


 深窓の令嬢として名高いジークリンデ。

 彼女は今日も麗しいお屋敷の自室にてお気に入りの詩集のページを捲りながら、東方から取り寄せた香りの高い紅茶に舌鼓を打っている……などと言う事は微塵も無い。


「まあ、まあ、まあ……!」


 鈴を転がしたかのような声が聞こえてきたのは、真っ白なお屋敷の中からではなく、緑広がる庭園から。

 華やかな花香に包まれながらパラソルの下で紅茶を嗜んでいる、のでもなく。


 彼女は庭の一角に生えた大きな木の枝の上にいた。


「初めて見たわ。本で見たよりも美しい……透けるような青い色。光にかざすと緑も混ざるのね。大きさからして初列風切かしら」


 うっとりと目を細めるジークリンデの視線の先にあるのは、大粒のサファイアでも、ヒスイでもない。


 その手に握られていたのは一枚の羽根。

 鳥の翼のようにも見えるが、放たれる光はまるで宝石のよう。とてもこの世のものとは思えない眩さに目が眩む。

 大きな羽根を空に透かして見つめるジークリンデの瞳は、まるで恋する少女のように潤んでいる。


「このお屋敷の上空をハーピィが通ったのかもしれないなんて。ああ、一目で良いからお目に掛かりたかったわ」


 庭の木にこの羽根が引っ掛かっているのに気が付いたジークリンデは、居ても立ってもいられずに部屋を飛び出してきてしまったのだ。

 風で敷地の外に飛ばされる前に羽根を手にする事が出来て本当に良かったと、胸を安堵に撫で下ろす。


 鳥のそれとは明らかに違う、強い魔力を帯びたこの羽根は間違いなく魔族の物。大きさ、色味からして半人半鳥のハーピィの物だと彼女は推察していた。


「ハーピィ……どんな姿なのかしら」


 この羽根の持ち主の姿を想像するだけで、思わず頬が赤らんでしまう。こんなに美しいものがこの世界に存在しているなんて。しかも生きた生物の一部であるだなんて俄に信じ難い。


「本当に、興味深い生き物だわ……!」





 世間がイメージするジークリンデ・ロゼッタは、次期国母に相応しい、令嬢の手本のような少女だった。


 ロゼッタ家の現当主でありジークリンデの父エルマーは現役の近衛騎士団長を勤め、また兄のサディアスも騎士団に所属する。

 ロゼッタ家は代々お国の為に身を捧げる優秀な騎士達を数多く世に出した、まさに名家の中の名家だった。


 そんな誉高い一家の一人娘として生まれたのがジークリンデ・ロゼッタ嬢。


 彼女は女性ながら剣と魔法の腕に長けていながらも、貴族家の令嬢として申し分の無い高い教養を併せ持っている。まさに才女と呼ぶに相応しい淑女であった。


 唯一の欠点は社交界嫌いで有名な点。

 フィアンセであるエドワードのエスコートがなければ夜会の場に顔を出す事もそうそう無い『深窓の令嬢』として名が通っている。


 生真面目な令嬢は甘い蜜の香り漂うゴシップよりも己を磨く研鑽か、本の中の世界に夢中だと専らの噂だ。


「お嬢様! ジークリンデお嬢様!」


 だが真実はそんな大層なものではない。確かに彼女は文武の才に溢れ、社交界嫌いな令嬢ではあるものの、絵に描いたような完全無欠の才女では無かった。


 現に木の上で子どものように頬を染めた伯爵令嬢の姿に、側仕えが血相を変えて飛んでいく。こんな光景はロゼッタ家においては日常茶飯事だった。


「危ないですから降りてください! そんな所にいらしてはまた旦那様に叱られてしまいますよ!」


 涙ながらに叫ぶ側仕えに向かって、ジークリンデはずいっと今し方手に入れたばかりの羽根を突き出すと……。


「ねぇ見てご覧なさいな! 恐らくハーピィの物よ! ウチの敷地内に落ちているなんて、こんな幸運な事は無いわ!」


 鼻息荒く声をうわずらせていた。

 才色兼備な淑女の悪癖、それは彼女がどうにもならない程重度な魔物へのフェチズムに起因していた。


「貴方ハーピィはご存知でして? 一般的には半人半獣の魔物と呼ばれておりますが、実際に人と鳥とが掛け合わさる……なんて事は生物学上ありえないのよ。では何故ハーピィが人に近い容姿を持っているのか。その謎は未だに明らかになっていないのだけれど、私は一種の収斂進化なのではないかと考えているんです。ハーピィは猿人類のような哺乳類が空に適応した姿であると考えられ、近しい生き物ですとコウモリの存在が上げられるのですが……」


 わーっと捲し立てるジークリンデを前に、側仕えはたじろぐばかり。


「分かりました、分かりましたから! まずは木から降りてください! 落ちて怪我でもしたら旦那様に申し訳が……」

「あら、そんな心配をしているの?」


 そう言うと彼女は静かに木の枝から飛び降りる。


「これで問題はなくって?」

「そういう事ではございません!」


 肩についた葉っぱを落としながら微笑むジークリンデの姿に、側仕えは深い溜息を零した。

 しかしそんな事よりも彼女の関心は手元にある美しい羽根に注がれている。


「本当に綺麗……この世界にこんな美しい羽根を持つ生き物が存在しているだなんて……」

「そんな物、何時までも触れていてはなりません。お嬢様の魔力が穢れてしまいます」

「あら、ハーピィに毒は無い筈よ」

「そう言う事ではございません! 魔界から上がってきた物に触れていては……」


 側仕えの言葉にジークリンデは溜息を零す。


「魔界から地上へと上がってきたモノに触れると魔力が穢れる。一般的にそう言われているけれど、そんなの証拠も何も無い迷信に過ぎないわ。ハーピィの翼に神経毒が含まれているのなら、私も触れるのを躊躇うでしょうけど。ありもしない毒を恐れてどうするの」

「そんな罰当たりな……!」


 顔色を青くする側仕えを他所に、ジークリンデは再びハーピィの羽根を空に透かすと、その様子をうっとりと眺めていた。

 話を聞こうとはしないジークリンデの姿に、側仕えは堪らず溜息を吐き出す。


「ああ、もうどうして……うちのお嬢様はこの悪癖さえなければどこに出しても恥ずかしくない淑女でございますのに……」

「逆よ。この趣味に余計な口出しをされないために、私は精一杯完璧な淑女を仕立てているの。たまに拾う落し物を愛でるくらい、許されても良いと思わなくて?」


 ジークリンデが社交界に置いて『深窓の令嬢』と謳われているのは、彼女のこの世間一般の常識からすれば悪癖を父エルマーが隠蔽しようと余り表に出そうとしないからだった。

 表舞台への露出が減った結果、噂が独り歩きして偶像の次期国母が作り上げらているのだ。


 だがジークリンデとしてはそんな事どうでも良かった。


 多くの騎士を輩出してきた名家に恥じぬよう剣の腕を磨いたのも、家族から不要な文句を付けられぬように勉学に励んだのも全て、最低限の自由な行動を認めさせるためのもの。

 そうでなければ誰がなりたくて王太子妃になんてなろうものか。


 彼女は何も貴族の娘としての責務すらも投げ捨てて親を泣かせるつもりなんて無い。愛すべき家族の為に、お家の為に、王家に嫁ぐ事になった自身の命運すらも受け入れている。

 成すべき事はきちんと成す。だがその代わり、己の趣味を少しくらい認めて欲しいだけだった。


(何はともあれ、コレクションが一つ増えたのは素直に嬉しいわね)


 ほとほと困り果てた側仕えを置いて、ジークリンデは軽い足取りで屋敷へと戻っていく。


 ジークリンデの暮らすロゼッタ邸ではなかなかこうした魔族の落し物にありつける機会も少ない。偶然屋敷の敷地内や行動範囲で拾った物を大事に保管するのが関の山だった。


 ジークリンデは自分の趣味が世間からすれば受け入れられない物である事を重々理解している。

 異端であるのは自分自身だ。


(私が本当にやりたい事をしているのなら、詩集を覚えるなんて無駄な時間は費やさなかった。今頃きっと気ままに魔界を冒険していたでしょうね)


 彼女は魔界で生まれた異形の生物達にどうしようもなく心が惹かれていた。


 しがらみも無く夢を追える立場にいれば、間違いなく自分は今ここにいないだろう。やりたい事を我慢してあるべき真っ当な姿に収まりながら、偶に出会える落とし物を大事に収集するくらいの事。許されても良いと思うのだが。


「ままならない物よね……」


 絢爛豪華な王室になんて興味が無い。

 シルクのドレスに身を包み、異国の調度品を集めるくらいならば、まるでフィクションの世界で暮らすような摩訶不思議な生物達を追い掛けていたい。


 だが自分は伯爵家の娘。

 生まれながらに与えられた使命は、他所のお家で子を成す事。自分勝手な我儘を振りかざし、それらから逃げるつもりは毛頭ない。


「でも私にもこんな翼があれば……」


 何にも視界を遮られる事無く、大空を舞う事も出来たのだろうか。そんな事を空想してしまう。


 なんて考えるだけ無駄なのだけれど。

 側仕えに急かされながら、ジークリンデは屋敷に戻って行った。この後は大切な用事が待っている。それまでに汗を流して服を着替えて、支度をしなくては。

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