あのスラムで天使は車を降りた

 俺はアクセルも踏まずハンドルを握りしめた。合皮のカバーから汗が染み出す。


 俺とテオとシスター・メリッサしか知らないことだ。

 俺の最大の汚点、俺がこんなザマになっている諸悪の根源、悪魔の召還について。



 俺の親父はクズだった。

 お袋と俺を殴らない日はなかった。俺もテオを小突かない日の方が少ないからクズは遺伝するのかもしれない。


 机の角に頭を打ち付けて三針縫うのは耐えられたが、帰ったらお袋が動かなくなってるのは耐えられなかった。

 ガキに取れる手段は少ない。クズだらけの掃き溜めに住んでいたから、悪魔を召喚して好き勝手やろうとしたクズどもの話を聞く機会はごまんとあった。

 俺もクズだから、それに手を出した。



 結論から言って何もかもが失敗だった。

 親父を生贄に捧げて悪魔に殺してもらうのが算段だった。だが、悪魔にそれを見抜かれた。

 父親を殺すのが願いから、それを叶える対価が必要だと言われた。

 今にして思えば、金だとか家だとかどうでもいい願いを言って代わりに親父を連れて行ってもらえばよかったが、ガキの俺はそこまで頭が回らなかった。


 初めて見る悪魔にビビっていたのもある。

 真っ黒な羽と雄牛のような角を輝かせた悪魔は俺を指さして言った。

 哀れな子だ。他に大切に思うものが何もない。それならば、お前自身の命しか対価はないぞ、と。



 そのとき、真っ暗な部屋に光が差した。

 教会のエクソシストたちがドアを蹴破って、大仰な黄金の十字架や、聖灰を混ぜた弾入りのショットガンを掲げて、俺の家に雪崩れ込んだのだ。

 その最後尾にいたのが、テオだった。


 当時俺と同い年だったテオは今と変わらず痩せっぽっちのチビで馬鹿だったが、エクソシストの見習いだった。小さな手に大きな教本を携えて、必死に祈った。俺たちクズのために。



 清廉な光が悪魔を押し包んで消した。後には俺と親父、ふたりのクズだけが残っていた。

 悪魔は祈りで消滅しても、犯罪者は消えてくれない。

 警察が駆けつけるまでの間、エクソシストたちは失神している俺の親父を縛り上げながら、俺の処遇について悩んでいた。


 クソ親父が捕まったら俺は身寄りがない。孤児院はパンク状態だ。それより、この年で悪魔を呼んだガキをどうすべきかわからなかったんだろう。

 今の俺からするれば路地に放り出せばいいと思う。



 俺がウレタンのほぼ残ってないソファーに座っていると、テオが寄ってきた。

「君がエリアス・ケーンだね」

 何の苦労も知らなさそうな間抜け面で苛ついたが、殴る気力もなかったから悪態だけついた。


「ああ、クズのケーンだよ。ここじゃ有名だ。親父もクズだし俺もそうだ」

 テオはちょっと俯いてから微笑んだ。

「僕もケーンって言うんだ」

 こんな善良そうな馬鹿が俺と同じ名字なのは少し驚いた。テオは教本を傍に置いて、俺の手を取った。


「クズのケーンじゃなくて、僕と同じエクソシストのケーンになっちゃえばいいんだよ。ねえ、一緒に行こう」

 そして、俺はこうなった。

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