夏の予言
尾八原ジュージ
夏の予言
幼なじみのなっちゃんは本名を夏海といって、名前の通り夏が似合う女の子だった。浅黒い肌とよく動く大きな瞳には、分厚いダッフルコートよりもオレンジのTシャツとデニムのショートパンツがよく似合った。
「あたしのひいばあちゃんが沖縄の人なんだって」
彼女がいつだったかそう言っていたのを憶えている。だから夏が似合うんだな、などと幼いぼくは勝手に考えたものだった。
町はずれに、廃業した花火工場の建物がまだそのまま残っていた。いつしかそこは、子供たちが大人の目を盗んで遊ぶ秘密基地のような場所になっていた。
星がきれいな夜、その廃工場の屋上にのぼって『星に願いを』を口笛で吹くと、宇宙人がやってきて未来のことを教えてくれる――という怪しすぎる噂が流行ったとき、ぼくとなっちゃんは小学五年生だった。
「今夜行こうよ、いっしょに」
よく晴れた日の午後、なっちゃんがぼくの家にやってきた。なんと、例の廃工場に行きたいのだという。
「ねぇよりくん、宇宙人の予言聞きに行こうよ〜。一人だと怖いよ〜」
「なっちゃん、あの話マジで信じてんの?」
「いいじゃん、試してみたいんだもん!」
そう言って彼女は向日葵みたいに笑った。
その日の夜、こっそり家を抜け出してなっちゃんと花火工場に行ったのは、もちろんバカみたいな噂を信じたからじゃなかった。なっちゃんが行くならぼくも行く、ただそれだけの理由だった。
「よりくん、ほんとに宇宙人来たらどうする?」
「えーと、『夏の思い出』に書く」
「宿題の作文のとこぉ? 先生、怒らないかなぁ」
なっちゃんは持ち前の向日葵の笑顔で笑った。まぁ、実際作文のネタに困っていたのは事実だ。ぼくの両親はクリーニング屋をやっていて、近所に競合がない代わりに毎日忙しく、夏休みだというのにお出かけのようなイベントは一度もなかった。夜も早めに寝てしまうので、ぼくがこっそり家を抜け出しても気づかれなかった。
田舎だったので普段から星はよく見えたが、その夜の星空は格別だった。そのまたたきを背景にして、廃工場は黒く、四角く、巨大な墓石みたいにのそっと建っている。怖くなったのだろう、なっちゃんが急にぼくの手を握ってきた。ぼくはどきどきしながら握り返した。繁茂した雑草のむせ返るような緑の匂いが、夜風に乗って押し寄せてきた。
工場には外階段があり、ぼくたちは金属の手すりをギイギイ言わせながら屋上に向かった。なっちゃんのショートパンツのベルトを通すところから、吊り下げ式の蚊取り線香ホルダーがぶら下がっており、嗅ぎなれた煙の匂いが辺りに漂う。ぼくは彼女の前に立って、行く手を懐中電灯で照らしながら歩いた。
廃工場はさほど大きな建物ではなかった。まもなくぼくらは屋上に到着した。
ふたり以外誰もいない屋上から見上げた星空は、とびきりきれいに見えた。なっちゃんはすごいね、と呟いた後、唇を尖らせて『星に願いを』を吹き始めた。あまり上手ではなく、ギリギリあのメロディに聞こえるかな? という程度の演奏だった。なっちゃんが首を傾げながら吹き終えるとぼくの番で、出来栄えの方は似たりよったりだった。
ぼくたちは何度も口笛を吹いた。でも、結局宇宙人は来なかった。
「頭ふらふらしてきちゃった」
なっちゃんがその場にすとんと座った。
ぼくも彼女の隣に腰を下ろした。
宝石箱をひっくり返したような夜空が頭上に広がっていた。じっと見ていると現実感がなくなってきて、もしかしてぼくは今夢を見てるんじゃないかと思った。でもそのとき、確かになっちゃんはぼくの隣にいて、ぼくと同じ夜空を眺めていた。
「なっちゃん、なんか宇宙人に予言してほしいことでもあったん?」
「んー。あのね、パパの会社大丈夫かなって」
なっちゃんの父親が経営する小さな輸入食品の会社は、今経営の危機に立たされているらしい。前から大人たちの噂話を小耳に挟んではいたけど、こうして本人の口から聞くと、(大変なことなんだ)という事態の重みが心にズンときた。彼女を励ましたかったけど、「きっと大丈夫だよ」なんて気休めは気軽に言えなかった。
夜風が少し涼しくなってきた。「そろそろ帰らなきゃ」となっちゃんが呟いた。
「よく考えたら、宇宙人とか来るわけないんよね」
そう言ったなっちゃんは寂しそうで、少しだけ大人っぽく見えた。
ぼくは、この時間が終わってしまうのが惜しかった。このまま二人で、この廃工場の屋上に座って、永遠にこの夏の夜に留まっていたかった。
でもそんなことは無理だって、子供のぼくにもちゃんとわかっていた。ぼくは心の中でひっそり(なっちゃんちの会社が潰れませんように)と星に祈った。
家に戻ると、ぼくが部屋にいないことに気づいた両親が、恐い顔をしてぼくの帰りを待っていた。大目玉を食らったのだが、なんと説教されたのかよく覚えていない。
ぼくは叱られている間、夢見るような頭の中で、さっき起きたことを何度も何度も繰り返し思い出していた。
さっき、廃工場の外階段を下りたところで、ぼくはなっちゃんに「予言、ぼくがしてもいい?」と尋ねた。ぼくとしては精一杯洒落た台詞のつもりだった。
「よりくんが? なに?」
「ぼくたち、来年の夏もここに来よう」
言ってしまってから、まずい、と思った。全然ウケなかったらどうしよう。嫌がられたらどうしよう――でもなっちゃんは嬉しそうに笑って、「あたしも予言いい?」と言った。
「なに?」
「これからよりくんにキスするね」
そう言うが早いか、なっちゃんはさっとこちらに顔を寄せ、ぼくの唇にほんの一瞬、自分の唇をちゅっと押し当てた。
顔が燃えそうなほど熱くなった。ちょっと触れただけ、でも小学生のぼくには、それで十分キスだった。
「なっちゃん、それ、予言じゃなくて宣言だよ」
照れながらそう言うと、なっちゃんも「よりくんのも、予言じゃなくて約束だったね」と言い返した。
今にも星が降ってきそうな夜空の下、ぼくたちは手をつなぎ、人気のない田舎の道を並んで歩いた。
その夜のことを、ぼくは作文に書かなかった。別の日、家の窓から遠くの花火大会が見えたことを、やや誇張して書いた。
あの夜のことはぼくとなっちゃん、ふたりだけの記憶にしておきたかった。
夏が終わる前に、なっちゃんは家族ごと突然いなくなった。
会社がいよいよ危なくなって夜逃げしたらしい、と聞いた。ぼくは、そのうちどこか遠い街から手紙が届かないだろうかなどと期待したが、結局そのまま音信不通になってしまった。
次の年の夏休み、ぼくは例の廃工場に何度も足を運んだ。晴れた夜、なっちゃんが星空の下で、ぼくを待っているような気がして仕方がなかった。でも結局、なっちゃんには一度も会えなかった。
ぼくの予言は外れた。翌年からとうとう廃工場の解体が始まり、予言は永遠に外れたまま、やがてぼくは大人になった。
今でも夏が来るたびに、夜空に明るい星を見るたびに、蒸し暑い夜風の中に草いきれを感じるたびに、『星に願いを』を聞くたびに、ぼくはなっちゃんのことを思い出す。
なっちゃんは、どんな大人になっただろうか。
夏の予言 尾八原ジュージ @zi-yon
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