第3話 知らない天井

 ……苦しい


 ……熱い


 はっきりと言葉にし難い何かが重くのしかかる。


 それも、俺が潰れず苦しむ程度の重量がいやらしい。


 ピチョ


「うおっ!?」


 頬に当たった冷たい感覚で跳ね起きる。


 寝ぼけた目に入ったのは、視界いっぱいに広がった真っ白で艶やかなモフモフと、クリクリで水色のお目々だった。


「おめーかよ」


 あの時助けた小狐だ。


 それと同時に、バイコーンに襲われていた時のことも思い出す。


「お互い無事だったか」


「おや、起きたかね?」


 小狐から聞こえた声に、眉間に皺を寄せる。


「外見に似合わずしゃがれた声だな」


「こっちじゃバカタレ」


 どうやらこの小狐が喋った訳では無いらしい。


 起き上がって見てみれば、老人が部屋へ入ってくる所であった。


「……誰?」


 老人は俺の不躾な問いに嫌な顔せず、むしろ朗らかに笑った。


「まぁ、あの怪我では覚えていないのも無理は無いか」


 その言葉でようやく、何が起きたのか思い出す。


「夢オチにはならんのか……ん? 怪我?」


 そう言えばと思い出し肩をさする。


 いつの間にやら着替えさせられたのか、バスローブのような服越しだが痛みも形の異常も感じられない。


「ん? 肩の怪我なら自分で治しておっただろう」


「はい?」


 全く身に覚えが無いのだが。


 むしろ刻一刻と失血死に近付いているのを、ヒシヒシと感じていたくらいだ。


「………あれかな?」


 記憶が途切れる前、左肩に強烈な痒さを覚えた事を思い出す。


「思い出したようじゃの。

 いくら再生能力が優れているとは言え、あの数相手に無理をしたらいかんぞ。

 それにしても、あの怪我を治してそこから『気』を練るなど流石に驚いたわい」


「あの」


 思い出しながらフムフムと語る老人を遮り、恐る恐る挙手する。


「何かね?」


「『気』、って?」


「『気』は『気』じゃが?」


 ただの聞き間違いのように返されるあたり、どうやらこの世界では常識らしい。


 『気』と聞いて思い当たるのは中国拳法のハァッ!って奴だが、それだろうか。


「あぁ、お前さんの着とった服は破れて血塗れだったから今は洗って干してある。 破れたところは後で直しておこう」


「直せるのか? 結構抉られてた気がするけど」


 俺のお肉と一緒に……。


「驚いたか? 隠居しているとは言え、これでもかつては世界を渡り歩いておったのじゃぞ。 服の記憶から再構築するなど容易いことよ」


 ウィンクしながら話すこの老人は、どうやら茶目っ気もあるらしい。


 落ち着いた声や話し方から、肩の力が抜けていくのを感じる。


 情けない話、かなり動揺し警戒心も抱いていたようだ。


「すっかり遅くなったけど、助けて貰ったんですよね? ありがとうございます」


 ベッドの上で姿勢を正して軽く頭を下げると、老人はホッホと笑った。


「構わんよ。 若い命の力になるのは老いていくものの役目。

 それより体調が悪くなければ何か腹に入れておくといいだろう。 待っておれ」


 そう言い部屋から出て行く老人。


 何と素敵な方だろう。


 お先真っ暗な世の中で健気に生きる若者に、口を開けば「最近の若いものは……」とか言う日本の老人に聞かせてやりたい。


 この出会いは幸運だな。


「待たせたのう」


 そんな事を考えていたら、老人が戻ってきた。


「ありがとうございま」


 そこまで言いかけて、口が開いたまま塞がらなくなってしまった。


 老人の後ろを、お盆が浮いて着いてきていたのだ。


 お盆は小狐を退けて、俺の膝にふわりと着地する。


「これなら空きっ腹で食っても問題は無いだろう」


 勧められるがままにスープのようなものを食す。


 ドロっとしており、程よい塩味と野菜の優しい旨みが染み出していて美味い。


 だが1つ、どうしても聞かなければならない事がある。


「あの、さっきのは?」


「さっきの?」


「お盆が浮いてたやつです」


 聞かれた老人は、心底不思議そうな顔をした後、合点がいったように頷いた。


「お前さん、ひょっとして随分田舎の方から来たな?

 今のは概念魔法では無く、お盆に刻まれた術式で浮いておるのだよ」


「魔法?」


「ん?」


 しばし気まずい時間が流れる。


 しかし言うなら今だろう。


「俺は魔法が無い世界から来ました。 たぶん」


「………なんじゃと?」


 老人の目がギョロりと見開かれる。


「俺はどれくらい眠ってましたか?」


「1晩じゃ」


 何それ、俺超元気じゃん。


「なら昨晩来ました」


「なんと。 なら魔法が使えるようになってからすぐに、バイコーンを殴り殺したと言うのか……」


 ん? 聞き捨てならないものがあったな。


「あの馬みたいなのって、バイコーンって言うんですか?」


「ああ。 ユニコーンと対に位置する存在で、肉食の危険な魔物じゃ」


 ユニコーンの名まで出てきた事で、疑問はより深まる。


 そもそも、何故同じ言語で会話が出来ているのだ。


 ましてや生き物の呼び名など、土地によって変わってくるだろうに。


「……しばし待っておれ」


 ふと何かに気付いた老人は足早に部屋から出て行くと、俺の破れた制服を手に持って戻ってきた。


「確証は無いが………」


 制服の破れた部分に手を翳す。


「すげぇ」


 制服の破れて失われた部分がモヤのようなものが集まって再現されると、それが少しづつ色味を帯びているのだ。


 ものの10秒で元通りになった制服に驚いていると、老人もまた驚愕を顕にしていた。


「……過去が、無い? いや、この服の中にはあるが、干渉出来ないのか……」


 しばらくブツブツ呟いていた老人だが、やがて満足したのか、俺の方を向き直る。


「疑ってすまんかったの。 どうやら本当らしい」


「いやあ、そんな謝られることじゃないですよ。 俺も何が起きたのかよく分かってませんし」


 それから俺は老人に経緯を話した。


 空間が割れて、そこに吸い込まれた事。


 森の一本道に落とされた事。


 そして、バイコーンに追われた所まで来てふと疑問が浮かぶ。


「そう言えば木の下に群がってたバイコーンを一掃したのって、おじいさんです?」


「いかにも。 そう言えばまだ名乗っていなかったのう。 ワシの名はライゼンじゃ」


「俺はタキノゾム。 改めて、助けてくれてありがとう」


「構わんよ。 しかし異界の民とは、長生きはしてみるもんじゃの。

 魔法が無い世界から来たとな? どれ、見せてあげよう」


 ライゼンがそう言うと、壁や床から木の枝が生えてくるでは無いか。


 その内の1本がライゼンの元まで伸びると花を咲かせ、拳程の大きさのリンゴのような果実が実った。


「これは植物を操る力じゃ。 木の下におったバイコーンは、ワシが手頃な植物の根で弾き飛ばしてやったのだよ」


 ライゼンは果実を2つもぐと、俺と小狐に渡した。


 齧ってみれば、桃のような濃い甘みの美味い果実だ。


「ハグッハグッ」


 小狐もまた、美味そうにかぶりついている。


「そういえばライゼンさん。 この小狐って近くに親みたいなのっていませんでした?」


「ん? その子はお前さんの世界から来たんじゃ無いのかい?」


「いんや全然。 俺のいた世界には、こんな生き物は聞いた事が無いですね」


 それに、一緒に来たのであれば教室に居たはずである。


「ふむ……。 亀裂の位置が重なることなどあるのか?

 分からん。 分からんが、その子はお前さんに懐いているようだし、一緒におれば良いじゃろう」


 それに返事をするかのように小狐はぴょんと宙を蹴ると、俺の膝に乗ってきた。


 この重さは覚えがある。


 どうやらうなされていた原因はこいつらしい。


 よく見れば、体の周りに霧のようなものを纏っている。


 撫でるとその霧はふわりと舞い上がり、俺の手に絡みついた。


 動かす事は出来るが、水の中にでもいるかのような抵抗を感じる。


「ほぉ、これを踏んで飛んでおったのか? 初めて見る生態じゃのう」


 興味深く観察するライゼンの様子を見るに、この小狐もこちらの世界の生き物では無いのかもしれない。


「……なら、今日からお前は霧亜だ。

 ムア、俺はお前と同じくこの世界の生き物じゃないらしい。 だから、お互い一人ぼっちにならないように一緒にいよう」


 ムアは理解しているのか理解していないのか分からない顔で俺を見つめ返していたが、ガウと返事をすると俺の膝の上でグルグル回り始めた。


 そのまま転がって落ちそうなのを、手で押えて止める。


「どうしたこいつ。 何かの発作か?」


「ノゾムと言ったか。 お前さんに匂いを染みつけておるのでは無いか? 良かったのう」


「そ、そうなのか……」


 回転しすぎてもはやモップに見えるムアを、俺は恐る恐る撫でていたのだった。

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