思い出はしょっぱさと共に

@misumi023

第1話

出会いの季節である春は、思いがけない再会を私にもたらしてくれた。

「美菜ちゃん、美菜ちゃんじゃない!」

 大学近くのマンションへ入居した日、マンションの廊下で懐かしい声が私を呼び止めた。

「……輝子さん!?」

 振り向くと、思い出のままの姿がそこにあった。

 邪魔になるからと、いつもショートにしていた黒い髪。筋肉の上にのった脂肪が、桜色のシャツと綿のチノパンを力強く膨らませている。

 輝子さん。憧れのお姉さんとの八年ぶりの邂逅。嬉しさと驚きで、頭の中が真っ白になる。

「大きくなったねー。身長なんて、私より高いじゃない。それに手足もしっかり鍛えてるわねぇ。何か、スポーツとかやってるの?」

 輝子さんは、名前の通りに目をキラキラと輝かせながら話しかけてくる。かつての記憶と寸分も変わらない。

私は自分を落ち着かせ、成長した姿を見せつけるよう一言一句を噛みしめながら答える。

「陸上やってました。中学と高校。大学でも、続けようと思っています」

「いいわねー。頑張んなさいよ」

 にんまりと太陽のような笑顔を浮かべる輝子さん。その時、私は輝子さんの背後にぴったりと付き従う小さな影に気が付いた。

「その子は?」

 私が聞くと、輝子さんは思い出したかのように後ろへ振り向き、小さな影へ手をやって私の方へと押し出した。

「息子の亀𠮷(かめきち)よ。ほら、お姉さんに挨拶なさい」

 紹介された輝子さんのお子さんは、輝子さんとは対極的なほっそりとした男の子だった。私の輝子さんに関する記憶が正しければ、亀吉くんの年齢は八歳になったばかりのはずだ。

「こんにちは、亀吉くん」

 私は亀吉くんの頭の高さまでしゃがみ込んで挨拶をする。

「こ、こんにちは」

 人見知りなのか、初めて会った私に緊張している様子。よくよく見ると、月形の眉毛は輝子さんにそっくりだ。

「あらやだ、照れちゃって。無理もないわねー。こんな綺麗なお姉さんが隣に住むことになるなんてねぇ」

「そ、そんな! 綺麗だなんて……」

 不意打ち気味の言葉に、私は露骨に声を上ずらせてしまった。顔も紅潮させてしまっているんだろうけど、幸い輝子さんには気付かれていないようだ。

「美菜ちゃんの部屋はこの階?」

「はい、303号室です」

「じゃあお隣さんだ。よろしくね。そっかー、美菜ちゃんも大学生になったんだねぇ」

 そう言って、輝子さんは亀吉くんと一緒に302号室へと入っていった。表札はふりがなつきで“天安門(あやかど)”となっている。輝子さんの旧姓は“安重(やすしげ)”だったので、ここにきて私は、ようやく輝子さんが結婚したんだという実感を持つことができた。

 輝子さんと隣の部屋だなんて、なんという奇跡だろう。

私は大学生活で最高の四年間を過ごすだろう。そう確信しながら、自身の部屋のドアノブへと手をかけた。



 小学生の頃、私はクラスの誰よりも足が速かった。それが理由で、私はクラスメイトの男子からちょっかいをかけられる事が多かった。

 思い出に刻まれたあの日も、私は男子に絡まれていた。

学校からの帰り道、私は不意に背後から突き飛ばされた。

前に倒れないよう足を踏みとどまらせると、今度は背中の方に引っ張られる感覚が襲って来て、そのままランドセルを持っていかれてしまった。

振り向くと、男子たちが走り去っていく姿が見えた。私の所属する五年二組でも、特に悪ふざけの度合いが過ぎると評判の木村と前田のペア。二人は公園方面の道を突き進んでいる。

 私は迷いなく、全力で二人の後を追った。

「ダチョウ女が来たぞー」

 それが当時の私のあだ名だった。私をそう呼んだのは別のグループの男子共。足が速い生き物=ダチョウという安直この上ないネーミングセンスなのに、名付けられたその日に学年中に広まった。

「待てぇ!」

 ランドセルがなくなった分身軽になった私は不名誉なあだ名で呼ばれた怒りも相まって、すぐさま二人へと追い付いた。狙いは私のランドセルを持つ前田。私は自分がされたように、前田のランドセルへと掴みかかった。

「へいっ木村」

 捕まえる直前、前田は私のランドセルを無造作に相方へと放り投げやがった。

「ナイスパス」

 坊主頭の木村は私のランドセルをキャッチすると、公園の反対側の出口へ向かって駆けてゆく。

「ああ、もう!」

 私は前田のランドセルに手をかけたまま地団駄を踏む。

「どうしたぁ? 早くしないとアイツどっかいっちゃうぞー」

「その前に、アンタの持ち物を預からせてもらう。私のランドセルと物々交換よ」

 私はランドセルの留め具を外し、カブセ裏を思いっきり開いてやった。予想通り、前田のランドセルの中身は教科書とかプリント類が大雑把に詰め込まれていた。

「ヤメロぉ! ヘンタイ、犯罪者! 木村ぁ、せめてお前だけでも逃げ――」

「うあぁあぁああ!」

 叫び声。発生源に目をやると、巨きなシルエットが左半身だけで木村を転ばせている姿が見えた。しかも、危険がないように背中から転ばせるという気遣いっぷりだ。

 木村を転ばせた張本人は私のランドセルを取り返すと、大股で私の方へ歩み寄ってきた。

「はい、美菜ちゃん」

「ありがとう、輝子さん!」

 当時、輝子さんは高校生。私の家のはす向かいに住んでいて、柔道部に入るまでは、よく私の遊び相手になってくれていた。 

「もうアンタに用はない。木村を連れてとっとと失せな」

 私は前田のランドセルから手を放し、解放してやった。

「あうぅ……」

 情けない声と共に、前田は木村の元へ駆け寄った。二人は振り返ることなく、公園の反対側の出口へと去ってゆく。異論を挟む余地などなく、私たちの完全勝利であった。

「まったく、とんでもない悪ガキ共ね。大丈夫? クラスでイジメられたりしてない?」

「はい。全て返り討ちにしているので。それより珍しいですね。輝子さんがこんなに早く帰るだなんて」

 じっさい、平日の日の高いうちに輝子さんを見かけるのは珍しい。そもそも、輝子さんと会うこと自体久しぶりだった。部活を始めてから、輝子さんは朝早くから夜遅くまで柔道漬けだったから。

「あー、そのことなんだけど……」

 輝子さんは目を逸らす。気まずさとかではなく、次に喋る言葉を選んでいる様子。

 やがて意を決したように、輝子さんは私を真っすぐに見据えた。

「美菜ちゃん。私、オリンピックに出る。女子柔道の日本代表に選ばれたの」

「え……す、凄い!」

 あまりに現実感のない報告に、私はありきたりな称賛しかできなかった。だけど、それは仕方のないこと。

 憧れのお姉さんがオリンピック選手に選ばれるなんて、とても現実とは思えなかったのだから。

「この後、強化合宿の打合せがあって、それで早く帰ることになったの。良かったら、一緒に帰らない?」

「はい!」

 その日の帰り道が、私の人生で最も充実した時間だった。

 それから一年後、オリンピックに出場した輝子さんは見事予選を通過した。けれど、本戦にその姿を見せることはなかった。

 輝子さんの妊娠が発覚したのだ。輝子さんの子供の父親は、女子柔道日本代表のコーチ。名前は確か、天安門民主(あやかどたみお)だったと思う。

高校生にして女子柔道七十八キロ級の日本代表に選ばれた希代の天才柔道少女は、一時期ネットのニュースサイトを騒がせた後、ひっそりと姿をくらませた。それが、私の知る輝子さんの顛末。

それでも、輝子さんは私の憧れの人なのだ。世間がなんと言おうと、その気持ちだけは決して変わらない。



 荷解きに集中していたら、いつの間にか太陽が山の向こうに隠れようとしていた。

時刻は十七時五十分。夕飯の時間だけど、引っ越してきたばかりなので冷蔵庫の中身はほとんどない。

手早くインスタント食品で済ませるか、それともネットで近場のお店を探そうか。そんな風に思案していると、チャイムが鳴った。マンションはオートロック式なので、外部からと部屋の前の二種類のチャイム音がある。今回の音は後者であった。

「はい」

『美菜ちゃん、私よ』

 インターホンに備え付けられたカメラに輝子さんの顔が大きく映る。

「今開けます」

 輝子さんが訪ねてきてくれたことに胸を高鳴らせながら、私は大急ぎで玄関へ向かった。

 扉を開けると、両手鍋を抱えた輝子さんが立っていた。

「急にごめんねー。これ、作ってきたんだけど、良かったら食べない?」

「え……あ、ありがとうございます!」

 輝子さんに数年ぶりに会えただけでなく、私のために手料理まで作ってくれたのだ。この先何があろうと、私は今日という日を絶対に忘れることはないだろう。

 私は輝子さんから慎重に鍋を受け取った。色はオレンジで、シャープなデザイン。思っていたより重量は感じなかったので、汁物ではなさそうだ。

 一体どんな料理が飛び出してくるのか。期待に胸を膨らませながら踵を返そうとした時、輝子さんの部屋の扉に身を隠すように亀吉くんがこちらを覗いているのに気が付いた。

 どこか不安げな表情のまま、身を固くしている。

亀吉くんの態度には、私も心当たりがある。

私も昔、輝子さんが高校の友達と楽しく話す姿を見かける度に疎外感を覚えたものだ。自分が一番じゃないことへの不安、さびしさ、嫉妬心。

 でも、人はそうやって大人になっていくのだ。いつまでもお母さんと一緒という訳にはいかない。

 それに、私だって久しぶりに会えた輝子さんと過ごしたい。だから、少しだけお母さんを借りるね。

 私は心の中で亀吉くんに謝罪しながら、輝子さんを部屋に招き入れた。


 ――饐(す)えた臭いで気付くべきだった。

  『肉じゃが』とは、牛肉、玉ねぎ、そしてジャガイモに甘辛い味付けを施し、渾然一体の味を織りなす日本の代表的な家庭料理だ。巷ではこの完璧な取り合わせにグリンピースとか人参やらを追加する輩もいるらしいが、私から言わせてもらえば邪道の一言に尽きる。

「さあ、冷めないうちに食べて食べて」

 輝子さんは、太陽のような笑顔で私に箸を進めてくる。

「はい、いただきます」

 輝子さんは結婚を機に高校を中退し、それからの八年間は専業主婦一筋で過ごしてきたそうだ。これは期待も高まるというもの。私は輝子さんへの感謝を示すように手を合わせた。

満を持して一口目。まずは肉じゃがの主役、ジャガイモを口に運んでみる。

 そこで私は言葉を失った。

 “しょっぱい”の語源は“塩っぱい”という。昔、家族で海水浴に行った時、海水が口に入ってきたことがある。その体験がフラッシュバックした。

 暴力。しょっぱさの暴力が私の口内を蹂躙する。

 私の脳が訴える。今すぐに吐き出せ。さもなくば、お前の健康はデッドゾーンまっしぐらだ。

「美菜ちゃん、大学でも陸上やるんでしょ。スポーツをする女の子にとって、お塩は大事だからね」

 眩しすぎるほどの満面の笑み。輝子さんに悪意はない。

 私の脳裏に、さっき見た亀吉くんの姿が思い浮かぶ。あの視線は、大好きなお母さんから一時でも離れることに対する子供らしい独占欲ではなく、これから起こるであろう惨劇の犠牲者に対する憐れみだったのだ。

 一口目を口に放り込んで固まったままというわけにもいかず、私は慎重に一噛みしてみる。直後、あらゆる“しょっぱい”がクラスター爆弾よろしく口中に絨毯爆撃を仕掛けてきた。

 しょっぱい。酸っぱじょっぱい。辛じょっぱい。そして、甘じょっぱいだけは存在しない。

この肉じゃがには料理の“さしすせそ”なんて常識は存在しない。言うならば“ししすせそ”だ。塩、塩、酢、醤油、塩(ソルト)。

 私は可能な限り味覚を遮断すべく、息を止めながら咀嚼するという悪あがきで抵抗した。

だけど、痛い。そして舌先が痺れる。小学校の頃、クラスの男子が度胸試しで蟻を食べて大騒ぎになったことがあった。今、私はそれに負けない体験をしていると断言できる。

 何度か租借を繰り返し、ようやく適度な大きさまで噛み砕いたジャガイモを飲み込もうとした。

 しかし、今度は喉が動いてくれない。私の食道と胃は、口内にある塩分の塊の嚥下を明確に拒絶している。私自身の意思を、私自身の身体が受け入れない。

 最後の手段。私はグラスに注いであった麦茶を一気飲みし、ジャガイモと塩の混合物を身体の奥深くへと押しやった。 

 時刻は午後六時を回ったところ。窓の外は薄暗くなってきているが、私は摂取した塩分を排出すべくこの後ジョギングをすると自分自身に固く誓った。

「あらあら、急いで食べなくてもいいのに。まだ沢山あるんだから。それで、感想はどうかしら?」

 輝子さんは目をキラキラと輝かせながら私を見つめる。私は耐え切れず、ついぞ目を逸らしてしまった。

「……ごめんなさい」

 それは憧れの輝子さんの手料理に対していっさいのフォローが思い浮かばなかったことへの謝罪か、それとも哀れな食材たちへの追悼か。

 私の右目から零れ落ちた一筋の水滴は、食卓の上にある肉じゃがに、もう一種類のしょっぱさを付け足すのであった。



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