第16話「大浴場の大欲情」

 聳え立つ白亜の列柱。大理石から削り出された太く見事な柱が一分の乱れなくずらりと並び、その足元を獣人たちが闊歩している。列柱廊の向こうに広がるのは丸いドーム状の屋根を持つ大きな建物で、人々は大きく開かれた口の中へと吸い込まれていく。


「どうだ、すごいだろう! ここが帝都で一番の、つまり世界最大のテルマエだ!」


 俺の前で振り返ったウルザが堂々と両腕を広げて誇る。彼女が帝都の繁栄を見せるために案内してくれたのが、この巨大で壮麗な建造物だった。

 カニスや他の町で訪れたどの公衆浴場よりもはるかに大きなテルマエは、当然人の数も桁違いだ。昼下がりの時間帯ということもあり、帝都中の人々が一斉に詰めかけている。


「ウルザ、フェレス、早く行こう!」


 建物の奥から微かに漏れ出す熱気と湿気が、何よりも俺を誘惑する。長い間、蜥蜴車の上で酷使していた体が、思い出したように悲鳴を上げ始めていた。


「ははは、そう急がなくても風呂は逃げないよ」

「ウィリウスはほんとにお風呂が好きだよねぇ。わたしにはよく分かんないや」


 帝国人が風呂好きというのは有名で、ウルザも暑さは苦手というものの水を浴びること自体は嫌いではない。しかしフェレスは濡れることそのものがあまり好きではないようで、帝都の荘厳なテルマエを前にしても思ったよりテンションが上がっていなかった。

 それでもうずうずとしてしまう俺に合わせて、彼女も一緒に建物の中へと入る。


「おお……、すごい……」


 手早く服を脱ぎ、ウルザたちと合流していざ大浴場へ。そこに広がっていたのは、驚くほど広大な浴槽とそれを満たす豊富な湯。それを楽しむ獣人たちの楽園のような光景だ。

 帝都から数百キロ離れた水源から、水道を通じて送られてくる綺麗な水が、惜しみなく投じられる薪によって温められる。湯気が立ち込めるこの大浴場には、帝国という力の絶大さが如実に現れていた。

 俺たちは湯浴みもそこそこに、さっそく浴槽へ足を通す。そのまま滑り込むように肩まで浸かれば、長旅の疲れが一気に溶け出していく。


「ふぅ、極楽だな」


 大浴場には百人を優に超える大柄な獣人族が詰めかけているというのに、それでも足を伸ばせるだけの余裕がある。周辺には広い運動場もあり、そこでは半裸の女たちが格闘技やボール遊びに興じている。これだけ広いと男の姿も多く、俺もそこまで浮いているわけではなさそうだった。


「ウィリウスがこんなにお風呂好きなら、今度ドミナに温泉地へ行くよう頼んでもいいんじゃない?」

「温泉地か。温泉もいいものだ」


 大半の公衆浴場は水を熱して湯を沸かす。しかし、一部の地域では地中にある熱水をそのまま使う、つまり温泉として利用しているところもあるという。湯治という文化もあるようで、火山近くの温泉地には貴族の別荘も多く立ち並んでいるらしい。

 温泉といえば温泉饅頭。いや、温泉卵もいいものだ。キンキンに冷えたビールなんかも恋しくなるが、この辺は基本的にワインしか出てこないんだよな。


「うぅー。ごめん、わたしちょっと上がるね」


 湯船に浸かりながら温泉のことを考えていると、耳を平らにしたフェレスが立ち上がる。古傷も目立つ褐色の肌を濡らした彼女は、水気を嫌うようにブルブルと頭を振って雫を飛ばす。


「蒸気浴ができるところもあるし、マッサージも受けられるみたいだからな」

「それならマッサージでもしてもらおうかなー」


 テルマエは大浴場を中心に色々な娯楽施設が集まったアミューズメント施設だ。ここで数日は楽しめるほどに設備が充実しており、風呂が苦手なフェレスでも楽しめる。

 軽い足取りで屋内へと向かうフェレスの尻尾を見送り、どうせなら俺も何かやってみるかと周囲へ視線を巡らせる。垢擦り、散髪、脱毛、爪切り、マッサージに占いなんてものまである。貴族らしい雰囲気の獣人たちが何やら活発に議論を交わし、その隣では庶民が噂話に興じている。


「うーん……。うん?」


 貴賤も老若男女も問わず、多くの人々が集まる光景は、まさに帝国の平和といって良いだろう。そんな光景に思わず見惚れていると、無数の人々の中で少し異彩を放つ背中が目に留まる。

 ウルザよりも更に大きく、ケナに迫るほどの広い背中をぎゅっと丸めて、何やらコソコソとしている。すわ泥棒かと警戒を強めるが、何かを盗んでいる様子はない。というか、さっきから壁に張り付くようにして、何かを熱心に覗いているような……。


「ウルザ、あの壁の向こうって……」

「男の更衣室だろ?」


 少し暑くなってきたのか、ウルザが気怠げに答える。それを聞いて、あの大柄な女が何をしようとしているのか察した。

 やっぱり覗きも出るし、女が男の着替えを覗くのか……。

 よく日に焼けた肌は鍛え上げられた筋肉を包み、背中を見るだけでもかなりの猛者と推察できる。長い尻尾は先端がふさふさとしていて、頭はボリュームの多い赤髪で包まれている。濡れてなお荒々しく波打つ剛毛の隙間から見えるのは、小さな耳だ。

 湯船から立ち上がり、そっと背後へと向かう。近づくにつれて、荒い吐息とブツブツと小さく呟く声が聞こえる。


「ハァハァ……。けしからんな、これはけしからん。こんなところに穴があるとは! こんなものがあっては風紀が乱れ、帝都の活気も翳るというもの。ぬぬっ!」


 なにが、ぬぬっだ。彼女は真後ろに立つ俺に微塵も気付かず、壁に開いた小さな穴に目を密着させている。ぶんぶんと尻尾を振りながら、夢中になって覗きをしているのだ。

 当然、周囲には多くの客がおり、そんな彼女の様子に気付いている者も少なくない。


「くっ、物陰に隠れてしまったか。アヤツの体はずいぶんと鍛えられていたのだが……。も、もう少し大きくできないか?」


 女は鋭い爪を穴に突き刺し、ガリガリと掘る。少しでも覗き穴を大きくしたいという欲求に支配されていた。

 覗きに視姦に公共施設の破壊。これはもう役満だろう。


「おい」


 俺が声をかけると、ぴくりと耳が動く。人間のそれよりもはるかに柔軟に動く耳だけがこちらへ向けられる。


「そんなところで何してるんだ?」

「ぬぁああっ!?」


 予想外の背後から男の声がしたからか、女は驚き飛び上がって振り返る。広い背中に違わぬ巨体で、見上げると首の背が痛くなりそうだ。彼女は豊満な胸を惜しげもなく晒し、覗きがバレたというのに威風堂々とした立ち姿で俺を見る。


「な、なんと男か!」

「男で悪いか。この覗き魔」

「ぬぅぅ。わ、我は覗き魔などではない。このテルマエの欠陥を発見し、それを調査するためにだな……」


 下手な言い訳を始める獣人女。しかしこっちは荒っぽい剣闘士たちに揉まれてきたのだ。多少牙を見せられた程度で臆することはない。

 腰に手を当てて睨みつけると、彼女は半歩後ろに下がる。だが、彼女の燃えるようなオレンジの瞳が、俺を捉えてキラリと輝いた。


「むむっ。よく見たらお主、ずいぶんとイイ体つきをしているな。男にしては珍しい……。仕事は何をやっている? どこに住んでいるのだ?」


 覗きがバレたことなど忘れたかのように、ぐいぐいと詰め寄ってくる獣人女。この圧の強さはなんなのか。いっそ清々しいほどの態度に、つい笑ってしまいそうになるが、近づいてくるのは力や体格で勝る存在だ。むしろ恐怖の方が強い。


「ちょっとそこの運動場でレスリングでもしないか? いや、他意はないぞ。お主のその肉体を見れば分かる。かなりの実力者だろう? 一戦手合わせ願いたい!」

「誰が覗き魔と組み合うんだよ。お前が行くのは運動場じゃなくて管理者のところだ」

「ぬふふ。ツレない態度もなかなか良いではないか」


 なんだこいつ、話が通じない!

 わきわきと両手を動かしながら迫る彼女に、俺も思わず後ずさる。しかし、背後には大浴場の浴槽だ。


「さあ、一戦! 一戦だけでいいから。ちょっとだけ、先っちょだけ!」

「絶対それだけで終わらないだろ!」


 ちなみに。総合アミューズメント施設であるテルマエには、当然いかがわしい感じの店もある。扇状的な格好をした若い男が、湯上がりで火照った女たちを誘うのだ。


「ふへ、ふへへ」

「ええい、気持ち悪い笑いをするんじゃない!」


 ぐい、と腕で押し除けようとするが、当然その程度で動じるほど獣人族は柔ではない。むしろ俺の腕を掴んでこちらへ引き寄せようとする。本格的に身の危険を感じたその時、咄嗟に体が動いた。


「せええええいっ!」

「ぬわーーーーっ!?」


 よいではないか、と腕を引いてきた女。俺は逆に彼女の腕を抱えるようにして身を翻す。そのまま勢いを利用して、力一杯投げ飛ばす。うまく体を使えば、自分よりもはるかに大きく重たい相手も投げられることを、俺は習っていた。

 綺麗な弧を描いて吹き飛ぶ獣人女。彼女はそのまま頭から浴槽へと墜落する。大きな水飛沫が広がり、周囲から悲鳴が上がる。

 せいせいした気持ちで鼻を鳴らした、その時だった。


「と、トリクス様ーーーーーっ!」


 何やら血相を変えた獣人が、大きな声で叫びながら大浴場へと駆け込んできた。

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