第17話「貴族からの頼み」

「な、何やってんだウィリウス!!」

「うおっ」


 血相を変えて部屋に飛び込んできたウルザは、開口一番にそんなことを言う。のぼせた事もすっかり忘れたようで、肌にトーガを張り付かせたまま俺に詰め寄ってくる。


「あなたがウルザですね。〈ソルオリエンス〉の剣闘士の」


 部屋の奥から声がして、彼女はようやく俺以外の存在に気付いた。彼女の名を呼んだのは、耳の大きな狐に似た特徴を持つ獣人女性。片眼鏡を指で直す様からその知性が窺える。

 そして、彼女の隣で堂々と椅子に腰掛けているのが、豪奢な調度品に囲まれた広い部屋の主だ。ずぶ濡れの体を拭きながら、にこやかにウルザを出迎える。


「その名前は我も聞き及んでおる。なかなかヤるそうではないか」

「ヒェッ」


 猫のような気ままさと、威風堂々とした佇まい。背反する二つの性格が確かに内在する豊かな赤髪の女に、ウルザは掠れた笛のような声を漏らした。


「どうだ、ウルザ。我と一戦交えてみないか?」


 好戦的な目がウルザに向かう。彼女の腰が浮いたその時、狐獣人の付き人がこほんと一つ咳払いをした。


「トリクス様」

「うぐっ。わ、分かっている。試合はしない。戦いは申し込まない」


 腹の底から響くような声を聞き、トリクスはしゅんと大きな背中を丸める。これではどちらが主従か分からないな。

 ここはテルマエの奥にある一室。扉の前には鎧を着た兵士たちが立っていて、物々しい雰囲気だ。明らかに公共の施設とは言い難い場所に通されて、俺もトリクスがどのような人物なのか薄々察してきた。


「こ、このたびはウチの仲間が大変に申し訳ないことを……」


 ウルザがぐいと俺の腕を引っ張り、頭を押さえつける。豪快な彼女もまるで様子を変えて、恐々粛々と身を縮めていた。

 おそらく、トリクスはこの国の貴族なのだろう。自由民や帝都市民の上に立ち、国そのものの運営に携わる有力者たち。それならば、この状況も納得できる。納得できないのは、なぜ貴族ともあろう人物が男子更衣室を覗いていたのかという点だけだ。


「うむ、うむ。その件に関しては既に和解が成立しておる。な、ウィリウス」

「はぁ……」


 和解、まあ和解か。正確に言うならば、彼女がやっていたことを公言しない代わりに、俺がやったことも不問とする、という交換条件なのだが。


「お前、貴族様に喧嘩売るなんて馬鹿なのか?」

「あー、うん。すまない」

「アタシじゃなくてトリクス様に謝るんだよ!」


 ウルザが頭を抱えているが、俺も詳しいことは話せないのだ。ニコニコとしているトリクス本人はともかく、その背後から目を光らせている付き人が恐ろしい。キュオラと名乗ったその女性は、今も油断なくこちらを監視している。


「お前たちを呼んだのは、謝罪を求めるためではない。安心してこちらに座れ」

「ええ?」


 トリクスに促され、ウルザは不可解な顔をしながらソファに腰を下ろす。高級な革張りの座面の慣れない感触に眉を寄せる彼女に向けて、トリクスがぐいと身を乗り出した。


「ウルザよ。お主もなかなか強い剣闘士なのだろ。炎龍闘祭には出るのか?」

「え? まあ、そのつもりだ、ですが……」

「そう固くならずとも良い。どうせここには我らしか居らぬからな。……それよりも」


 慣れない敬語を使おうとするウルザに、トリクスはにやりと笑った。それを見て嫌な予感を覚えたのか彼女は体をのけ反らせるが間に合わない。トリクスの腕が彼女の肩を掴んだ。


「実はちょっと頼みがあってな」


 貴族からの頼みなど、良いことはひとつも思い浮かばない。ウルザの表情も引き攣る。


「試合の観戦チケットをいくつか融通してほしいのだ」

「チケット!?」


 予想の斜め上から飛んできた要望に、ウルザが頓狂な声を上げる。しかしトリクスとしては切実らしく、テーブルから回り込んで縋り付くようにして懇願する。


「頼む! 一般席でも、なんなら最上階でもいいのだ」

「貴族ならどこでも自由に入れるだろ! 勝手に入って勝手に見ればいいじゃないか!」

「それができぬから頼んでおるのだ。な、な? 頼む!」


 わざわざ人の目を避けて個室まで連れてきたのは、俺たちのためではなかったらしい。貴族が平民に頭を下げるという、なんとも信じられない光景が展開されている。こんなものが外に流れたら、貴族そのものの地位が揺らぐだろう。


「申し訳ありません、お二人とも。実はトリクス様は何よりも剣闘や戦車競争といった娯楽を愛しておられるのですが……」


 見かねたキュオラが事情を説明し始める。

 トリクスという貴族は血湧き肉躍るような白熱した戦いを観ることが三度の飯より好きだとかで、これまでも貴族としての責務を放ってコソコソと闘技場に遊びに行っていたらしい。しかし、そんな不真面目な素行が彼女の母親、トリクスの一家の当主の怒りを買った。帝都内の全ての闘技場、競技場にはトリクス立ち入り禁止の命令が下され、彼女はもう三日もそういった試合を観ることができないでいるという。


「たった三日じゃないか……」

「お主らは毎日試合を楽しんでおるのだろ! 卑怯じゃないか!」

「ええ……」


 ぷんすか、と不満を露わにして憤るトリクスは、体格ならこの部屋で一番大きいと言うのに幼い子供のようにすら見える。


「ほら、剣闘士なら関係者が通れる通用口を使えるだろ? あそこからささっと我を入れてくれればいいのだ」

「絶対怒られるやつじゃないか……」

「ば、バレたら責任は我が取る! お主らはちょちょっとよそ見をしてくれるだけでいいのだ」


 明らかに不正行為なのだが、貴族という圧倒的に上位の存在に言われたら、俺たちも頷くしかない。結局、ウルザも最後にはカックリと顎を引き、トリクスが両腕を掲げて喜んだ。


「よし、よし! やっと剣闘士の戦いが見られるぞ! それも炎龍闘祭とは、くぅぅ!」

「言っとくが、アタシらが初戦敗退したらアンタも入れなくなるんだぞ」

「分かっているさ」


 手引き役となる俺たちが炎龍闘祭の序盤で負ければ、トリクスも協力者を失う。関係者という名目で裏口から入ることもできない。しかし、彼女は何やら余裕たっぷりの笑みを浮かべて、鷹揚に頷いた。


「我の直感が囁いているのだ。お主らはきっと勝つとな!」


 そんな根拠のない言葉に、俺たちは揃って目を合わせて肩をすくめるしかなかった。

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