第13話「慰めの酒盃」

 気が付けば天地がひっくり返っていた。いや、ひっくり返っているのは俺の方だ。喉元に鋭いサーベルが突きつけられている。これでは立ち上がることさえできない。

 完璧な敗北だ。


「勝者、セッラ!」


 審判のはっきりとした宣言とともにラッパが高らかに響き渡る。客席から何重にも重なった大声が吹き上がり、日差しを遮る屋根が大きく膨らんだ。

 サーベルが下げられ、喜色満面の狼が上から覗き込んでくる。彼女は淑女的に手を差し伸べてきたが、俺は意地でも自分で立ち上がった。

 なぜ自分が負けたのか。少しずつ思考が追いついてくる。俺が放った剣を、彼女は跳ね除けたのだ、素手で。剣の腹を外側へ弾くようにして。当然、少しでも目測を謝れば指が飛ぶような危険な行為だ。だが、彼女は狼の鋭い目でタイミングと間合いを見定め、完璧にこちらの動きに合わせてきた。


「すごいな。悔しいが、完敗だ」

「お前こそ、男にしておくのがもったいないくらいだったぞ」


 再び正眼に構え、今度はお互いに肩を弛緩させて讃えあう。俺は初めて、職業剣闘士としての戦いの苛烈さ、真剣さを思い知った。初試合で黒星というのは最高のスタートダッシュとは言い難い。しかし、不思議なほどに心地の良い負けだった。

 セッラと握手を交わし、別々の通路から退場する。華麗に勝利を収めた彼女には惜しみない賞賛が、無様に負けた俺には罵詈雑言が与えられた。


━━━━━


「かんぱーーーいっ!」


 カウダの音頭で、大柄な獣人たちが一斉に杯をぶつけ合う。


「ほら、ウィリウスも飲めよ」

「ありがとう。乾杯」


 隣に座ったウルザがワインの入った杯をこちらに向けてくる。俺の手にも並々と注がれたものがある。彼女とコツンと軽く合わせて、そのまま勢いよく飲み干す。ゴクゴクと喉を鳴らし、口の端から少し溢しながら飲み干すと、周囲から「おおー」とどよめく声が上がった。


「なんだなんだ。もしかしてそんなに落ち込んでないのか?」

「随分女らしい飲みっぷりじゃないか」

「案外呑める奴だったんだな」


 空になった杯をテーブルに置くと、〈ソルオリエンス〉の仲間たちはとたんに色めきだって身を乗り出してこちらへ迫ってきた。自分よりも大きい女性が四方八方から寄ってくると、それだけでかなりの迫力だ。俺は仰け反らないように背中に力を入れつつ、テーブルにあった大皿に手を伸ばした。

 ここはカニスの街角にある酒場タベルナで、今日の主役に据えられているのは俺だった。宴の題目は俺を慰めること。もちろん、試合の結果が違っていれば祝勝会と名前を変えて同じことになっていただろう。


「ありがとう、みんな。不甲斐ない結果だったのに」

「いいってことさ。アイツはちゃんと強かったし、ウィリウスのことも随分調べてたみたいだからな」


 焼いた小魚を骨ごと食べながら、カウダが狼耳を立てて言う。

 店までの道中にも、俺を落ち込ませまいと思ったのか、仲間たちが口々に今日の結果はそれほど悪いものではないと慰めてくれた。“ギザ歯”のセッラは俺を男だと侮ることなく、正面から挑んできた。油断していない相手に勝つのは、なかなかに難しい、と。


「ウィリウスはもう30回も勝ってるんだろ? そんなに勝率も高くない闘士なんかいくらでもいるんだ」

「そうそう。三割勝てりゃ有望だよ」

「お前はそろそろ連敗記録止めなって」


 〈ソルオリエンス〉は新進気鋭の評判を得ているとはいえ、裏を返せば若いわりには結構やる、程度にしか思われていない。そもそも、大抵の剣闘士団は新進気鋭と称される。序盤で相手が研究できていない段階で負けこむようなところは、そもそもの実力が足りないのだ。

 そんなわけで、ここに所属する剣闘士たちの戦績を総合すると、勝率は六割に足らない程度らしい。それでも、剣闘士団としては普通より少し上なのだ。


「私としては、毎回勝って欲しいんだけどねぇ」

「げぇ」

「あたしらだって勝ちに行こうとはしてるんスよ。へへ」


 冗談混じりに嫌味っぽく言うのは細長い煙管を傾けたドミナだ。団長として財政も司る彼女としては、賞金は稼げるだけ稼いで欲しいものだ。

 剣闘士たちは一気に弱腰になって、愛想笑いでその場を凌ぐ。


「そうよぉ。ウィリウスが勝ってくれたらわたしももっといいお酒が飲めるのにぃ」

「うわぁっ!?」


 開始早々すでに呂律の怪しい声がしたかと思うと、突然服の下に生温い感触が滑り込んでくる。それは俺の胸元を弄るようにして奥へと入り込み、そのまま体を一周した。ピンクの鱗に覆われた細長い尻尾を辿ると、ケナに寄りかかって管を巻く、赤ら顔のリニカがニヤニヤと笑っていた。


「テメェこの酔っ払いが!」

「何ドサクサに紛れてセクハラしてんだババァ!」


 こちらも酒が入って気が大きくなったカウダたちが、そんなスケベ医者に目尻を吊り上げて吠える。


「うるさいわねぇ。触診よ、触診♪」

「いっつも仕事中は酒呑まないって言ってるじゃないか!」


 カウダが俺の体から蛇の尻尾を引き剥がし、そのまま強引に持ち上げる。だがリニカも負けてはいない。蛇の体はほとんど筋肉の塊のようなもので、その力は獣人剣闘士たちにすら拮抗する。


「てめこの!」

「離しなさいよぉ!」


 騒がしい店内で、騒がしいじゃれ合いが始まった。

 そんな様子を眺めていると、つい笑みが溢れてしまう。


「まったく、男の前で何やってんだか……」


 隣でちびちびと飲んでいたウルザも、そんな先輩たちの様子を見て呆れているようだった。しかし、不意に俺の方へと顔を向けると、少し気まずそうに丸い耳を萎れさせた。


「どうした?」

「その、すまん。アタシが試合前に言ったこと……」


 ああ、と納得する。

 彼女は控え室での助言を悔いているようだ。セッラは大技を使うだろう。その隙を狙え、と彼女は言った。しかし、実際には向こうが素早い攻撃を仕掛けてきた。ウルザの読みが外れたということだ。


「いや、気にしてないよ」


 しかし、俺は正直戸惑いながら首を振る。ウルザの赤い瞳を見上げながら、少し話す。


「確かに助言は外れたけど、それと試合の勝敗は関係ない。あれは俺とセッラの戦いだったし、完全に実力で負けたのさ」

「でも……」


 なおも食い下がるウルザに、逆に俺は苛立った。


「あれは俺の勝負だ。責任は全部俺にある。それとも、ウルザは俺が勝っても自分のおかげだと言いたかったのか」

「そう言うわけじゃない!」


 彼女の大きな声に、一瞬周囲の視線がこちらに集まる。無意識のうちに立ち上がっていたウルザは、はっと気が付いてすとんと腰を下ろした。


「すまん。出過ぎた真似だった」

「分かってくれたらいいさ」


 闘技場の舞台において、勝敗を決めるのは自分と相手の二人だけ。どちらかの力量がより勝っているか、ただそれだけが重要なのだ。勝っても負けても、それは自分に原因がある。

 男だから負けたわけじゃない。女だから勝ったわけでもない。俺よりもセッラが強かった。ただそれだけの、単純で明快な話だ。


「でもまあ、嬉しいよ」


 俺はウルザの杯に水で薄めたワインを注ぐ。彼女はすんと鼻を鳴らして顔を上げた。


「今まで、勝っても負けてもその気持ちを共有できる相手はいなかったからな。こうしてみんなで飲むのも初めてだ」


 勝敗に関わらず、試合が終われば牢に戻る。それが俺の生活だった。

 共に勝ちを喜び、負けを悲しむ仲間がいるということが、何よりも嬉しかった。


「今度はウルザの試合があるんだろ。その時は祝杯を上げさせてくれ」


 ウルザの表情がみるみる明るくなっていく。まるで荒野の枯れた花に水を注いだようだ。感極まった彼女は腕を俺の肩に回し、ぐいと自分の方へと引き寄せる。


「もちろんだ! 期待しとけよ!」


 そう言って彼女は勢いよく杯を掲げる。

 彼女が女々しく豪快に酒を飲み干すと、勢いに乗った周囲の先輩たちが豪快に笑い声を上げた。

 みるみるうちに酒が減り、給仕の男たちがあっちこっちから呼び止められる。やがて誰ともなく陽気な歌が流れ出し、店全体を巻き込んだ大合唱へと変わって行った。


「うぇーーい!」


 顔を真っ赤にして陽気な声をあげるウルザ。同じような赤ら顔の先輩たち。リニカはがっぱがっぱと壺から直接ワインを飲んでいるし、ケナはすでに眠そうだ。そんな彼女たちを、ドミナが愛おしそうな目で見渡していた。


「ウルザが飲むぞ! まずはuだ!」


 名前の文字数だけ杯を空ける、酔っ払い共のゲームが始まる。

 熊が豪快に立ち上がって喉を鳴らし、空の杯を放り投げると、周囲から歓声があがる。七杯も飲まされるのは流石に怖いと、俺はそっと肩を縮めて気配を消した。

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