第12話「初舞台」

 俺の〈ソルオリエンス〉所属剣闘士として初の試合が組まれたのは、ウルザとの試合から二週間後のことだった。

 剣闘士といっても毎日のように戦うわけではなく、また俺は力の弱い人間族の男ということで、ドミナの図らいで十分な休息期間を与えられたあと。ようやく巡ってきた稼ぎ時である。これまで鍛錬中の練習試合や仲間が出場する試合での賭けなんかでチマチマと小銭を稼いでいたが、やはり選手として試合に参加する方が一気にまとめて稼ぐことができる。

 ドミナが俺に提示したファイトマネーは、奴隷剣闘士時代には予想すらしなかったほどの金額だった。勝利すればそこに更に賞金が加算されるというのだから、恐ろしささえ感じてしまう。ここでようやく、俺は三十勝を挙げたことで前の奴隷主が稼いだ金額の大きさを思い知ったのだ。


「ウィリウス、緊張してるのか?」


 控え室の長椅子に腰掛けていると、控えめなノックと共にウルザが入ってきた。俺が押し黙っているのを見て、怖気付いているとでも思ったようだ。その表情は不安げで、耳も力が抜けている。


「いいや。試合の前はいつもこうしてるんだ」


 いわゆるルーチンワークというものだろう。

 大事な試合、負けられない一戦の前に、必ず行う儀式めいた手順。俺の場合は両手の指を一本ずつ曲げ、また一本ずつ開いていくという単調な動きだった。それを繰り返していくうちに精神が落ち着き、冷静になっていく。

 おそらくは、“以前”から魂に染みついた動きだ。


「今日の対戦相手は〈アウルプス〉の“ギザ歯”だろ? アイツは速度よりも大技が好きだからな。初動も大振りになる可能性は高いぞ」

「そうは言っても狼獣人だ。早足程度でも俺には追いつけない」


 対戦相手がどんな人物なのかという情報は既に公表されている。奴隷剣闘士時代は同じく奴隷身分だったり、囚人だったりする相手がほとんどだったが、正式な職業剣闘士となれば相手も相応の格に引き上がる。以前なら素人同然の奴もいたが、今日からはそんな甘い考えは通用しない。

 〈アウルプス〉は〈ソルオリエンス〉と同じ巡業剣闘士団で、狼獣人がメンバーの大多数を占めている。対戦相手となる“ギザ歯”のセッラは、最近活躍し始めている有望な剣闘士だ。

 相手がセッラであると判明した日から、俺はカウダとの練習試合を増やしていた。一口に獣人族といっても、フェレスのような猫獣人は速度に秀で、ウルザのような熊獣人はパワーに長ける。狼獣人もまた、他の獣人種族とは異なる能力を持っているはずだった。

 対戦相手を意識し、研究し、技を磨く。どれも奴隷剣闘士時代は全くと言っていいほどやらなかった行為だ。対戦相手は舞台に出るまで分からず、相手の素性も得意な武器も、種族さえ知らなかったのだから。


「――でも、大丈夫だ」


 ルーティンを終えて、拳を一度握りしめる。

 狼獣人の戦い方、体の動かし方は頭に叩き込んでいる。“ギザ歯”のセッラに関する過去の試合の評判もある程度集めることができた。できる限りの対策はしたのだから、恐れることは何もない。

 舞台の方で大きな声が上がったようだ。そろそろ時間だ。


「頑張れよ、ウィリウス」

「おう」


 ウルザの端的な激励を受け止めて、舞台へ続く廊下を進む。

 〈ソルオリエンス〉の面々がそこに並び、次々に声を掛けてくれた。

 奴隷剣闘士時代と比べた時の最も大きな違いがこれだ。


「ウィリウス、やっちまえ!」

「相手は女だ容赦するんじゃねぇぞ!」

「勝ったら一緒にお祝いしような!」


 今の俺には仲間がいる。彼女たちに報いるためにも、勝たなければ。


「――対するは、麗しき男剣闘士ウィリウス! 先日まで奴隷として戦っていた彼が、なんと〈ソルオリエンス〉の所属となってこの闘技場に戻ってきた! その体がずいぶんと肉付きが良くなって見えるのは、剣闘士団でからだろうか? プロとして初の試合となる今回、彼はまた新たな奇跡を見せてくれるのか!? さあ、多くの期待を背中に受けて、登場だ!」


 セクハラめいた前口上。それを聞き流しながら、サンダル越しの砂の熱さを感じとる。

 舞台の中央に灰色の髪の狼獣人が立っていた。カウダよりも一回り小さいが、それでも見上げなければならな大きさだ。露出の覆い、胸当てと腰巻きだけの簡素な装備。手には湾曲した異国の剣と盾。

 細いウエストに指を添え、好戦的な目つきを俺に向けている。そのフサフサの尻尾がゆったりと左右に往復し、彼女の余裕を語っている。


「あはぁ、可愛い子が出てきたな」


 長い舌で口元を舐めて、セッラが嘲笑した。自分よりも小さく非力な存在を前にして、早くも勝利を確信した表情だ。真っ赤な舌の隙間から、彼女の異名の元ともなった鋭利な牙が覗く。


「か弱いで申し訳ないな。手加減してくれよ」

「ふん。あいにく、私は子ウサギを狩るのにも全力を尽くすんだ」


 こちらがプロなら、むこうもプロ。

 口では侮るようなことを言いつつも、すでにその構えに一分の隙も見当たらない。彼女がこれまで積み上げてきた評判も、その実力をそのまま反映しているのだと、俺は確信を深めた。


「双方、構えっ!」


 審判が叫ぶが、既に俺たちはどちらも臨戦態勢だ。蹄で地面を掻く荒馬のごとく、手綱が離れた瞬間に走り出せるだけの用意ができている。

 急速に世界が狭くなる。うるさいほどだった客席からの野次も消える。

 俺とセッラ。二人だけの世界。どちらかが倒れるまで、戦うことを運命づけられた。


「――始めっ!」


 高らかにラッパが鳴り響く。

 俺とセッラ。動き出したのはほぼ同時。

 灰色の長い髪が広がる。尾が線を描く。サーベルが陽光を受けて煌めいた。

 ウルザの予想は外れた。セッラは大技を好むが、それだけに固執するほど偏屈ではない。むしろ状況に合わせて柔軟に動きを変え戦略を練る柔軟性を持っていた。

 細く、湾曲した銀の刃が滑らかに迫る。最短距離での刺突。その一撃は、素早い。


「ふんっ!」


 俺が間一髪で回避できたのは、ある意味で偶然だった。

 サンダルが砂の上を滑り、わずかだが体が傾いた。その小さな誤差が明暗を分けた。だが、そこで試合が終わるはずもない。セッラはすかさず腕を力ませ、サーベルの刃を横にする。薙ぎ払い。


「せぁあああああっ!」

「させるか!」


 激しい声と共に迫る剣を、俺は右腕の盾で受け止める。革張りの使い古した盾では、真正面から受け止めることはできない。狼獣人の強靭な腕力にかかれば、芯材の木もろとも俺の腕を切り落とすだろう。

 だから、受け止めるのではなく受け流す。サーベルの刃が盾の表に触れると同時に、わずかに傾ける。表面に塗った蝋が刃を滑らせ、勢いをそのまま上に曲げた。


「ちっ。なかなかやるじゃないか!」

「お褒めいただき光栄だ!」


 それで態勢が崩れてくれれば言うこともないのだが、現実はそう甘くない。セッラは軽やかな足取りで態勢を立て直し、油断なく盾を構えながらジリジリと摺り足で横へ動く。俺もまた、彼女を正面に捉えながら動く。お互いに睨み合いながら、砂地に円を描く。

 初撃を凌ぐことはできた。相手のセオリーを外した速攻を耐えた。セッラはすでに、次はどう動くべきかと考えているはずだ。その表情に焦りはない。

 向こうは余裕の表情を浮かべていると言うのに、俺は既に少し息が上がっている。あの盾を構え続けるだけで、腕が痺れそうなほどだった。まったく、彼我の力の差は相変わらず圧倒的だ。


「――職業剣闘士というのは、厄介だな」

「ほう?」


 俺は呼吸を整える時間を稼ぐため、必要のない言葉を口にした。セッラは親切にもそれに反応してくれた。三角の耳をぴこんと立てて、興味をこちらに向ける。


「囚人は全てを諦めてるか自暴自棄になってるかのどっちかだ。奴隷もそう変わらない。――俺が今まで相手してきた奴は、大半が戦いの素人も同然だった」


 現代日本で安穏とした暮らしを送っていたはずの俺が、曲がりなりにも三十勝を重ねることができたのは、それが一番大きな理由だった。奴隷剣闘士が戦うのは、囚人にせよ奴隷にせよ、自分から望んで舞台に立ったわけではない者ばかり。ある意味では単純で、その動きは予想しやすい。

 しかし、職業剣闘士はまるで違う。彼女たちは明確に勝ちを意識しているし、そのためにどう動くべきかを常に考えている。油断しない捕食者ほど厄介なものはいないだろう。

 ウルザの言うような本来の剣闘、祖霊を慰める儀式としての形はほとんど形骸化している。だがそれでも、自らこの舞台に立ち続ける剣闘士たちには、彼女たちなりの誇りや矜持といったものが確かにあった。


「お前はどうなんだ?」


 セッラが問うてくる。

 二週間前まで奴隷だった俺はどうだと。

 答える代わりに、剣を構える。上段に。より攻撃的な方に。


「勝つさ。もちろん」


 砂を蹴って走り出す。言葉の途中で動き出したことで、わずかにセッラの反応が遅れた。騙し討ちのようで少し良心が痛むが、この場においては油断した方が悪い。

 俺が突き出した剣の切先が、狼獣人の胸元へと迫って――。

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