第11話「俊足の格闘家」

 今日も今日とて満員御礼の円形闘技場。獣人女たちが客席に詰め込まれ、芋を洗うような混雑ぶりだ。彼女たちは額に汗を滲ませ、ひと雨浴びたかのようにトーガを濡らしながら、眼前の舞台に向けて咆哮をあげている。

 すり鉢のような形をした闘技場の客席は、前列ほど良席ということになる。最前列に座れるのは主催者や貴族連中であり、その後方に獣人の女性たちとその家族らしきごく少数の男。後段、上段へと向かうほど観客の身なりも質素になっていく。

 そんななか、俺は見方によっては一番の特等席から舞台を見ていた。


「今日はフェレスが一番最初に出るんだな」

「アイツは新入りだからなぁ。まだまだ前座から抜け出せるほどじゃあないのさ」


 舞台の中央に立つのは青髪の猫獣人フェレス。〈ソルオリエンス〉の中ではウルザと絡んでいることが多い、人懐こい性格の剣闘士だ。獣人女性としては比較的小柄で、数センチほどしか身長差がないということもあり、俺もよく話している。

 本日の第一試合は彼女が出場することになり、俺たちは関係者ということで舞台に続く入退場口の影からの観戦を許されていた。

 俺の隣で解説役を務めてくれているのはウルザだが、他の先輩方も固唾を飲んで試合の始まりを待っている。


「フェレスは武器を使わないのか?」


 陽光が容赦なく降り注ぐ熱砂の舞台に立つフェレスは、驚くほど簡素な出立ちだ。足首と手首に布を巻き、胸をサラシで固定し、腰を僅かな布で隠している。逆に言えばそれ以外の全てを曝け出し、濃い褐色に焼けた肌に汗が滲むのもよく見える。

 観客たちにとっては女が半裸になっているだけの、ともすれば笑いすら誘うような格好だが、俺にとっては少々目のやり場に困る姿だ。猫耳の可愛らしい彼女は丸みのある童顔に反して、その肉体は極限まで鍛え抜かれている。女性らしいラインを残しながらも傷跡の残る四肢は、彼女が新入りながらも厳しい鍛錬を弛まず続けてきたことを何よりも雄弁に語っている。


「彼女は格闘家ファイターだ。手足が最大の武器なのさ」


 フェレスの戦闘スタイルは非常にシンプル。武器を持たず、防具を着けず、ただ己の肉体のみで勝負する。ある意味でもっとも原始的かつ根源的な戦い方だ。

 対する敵方もまた同じく半裸以下の布しか身に纏わぬ格闘家だが、向こうはより体格に勝る牛獣人の女だった。あちらもあちらで四肢が俺の胴よりも太く、下手をすれば3メートルに迫りそうなほどの巨女である。鼻息を荒くし、二本のツノも黒々と磨かれ、戦意は最高潮に達している。

 審判が二人の間に立ち、今にも襲い掛かりそうな双方を必死に止める。彼女の視線の先に座っているのは、主催者であるこの町の有力者だ。ゆったりと身を横にして寝そべる彼女が、おもむろに手を挙げる。


「始めっ!」


 その瞬間、審判が後ろへ飛び退き、同時に楽団が高々と音を響かせる。

 開戦の合図だ。


「ぶるぅああああああっ!」


 動いたのは牛獣人。彼女は頭より大きい立派な乳房を大きく揺らし、勢いよく駆け出す。まさに猛牛と言うべき破壊力を孕んだタックル。遠く離れた位置から見ている俺でさえも足がすくみそうになるほどの迫力に溢れている。

 だが、対峙するフェレスは動じない。彼女の背中しか見えないが、その顔には笑みすら浮かんでいるような気がした。


「せいっ!」


 フェレスが砂を蹴る。青い尾が線を引き、かろうじて彼女の動きが捉えられる。それほどまでに、彼女のステップは機敏なものだった。前にばかり集中していた牛獣人は、真横へと飛び退いたフェレスに一瞬反応が遅れる。


「馬鹿め、そこはまだ間合いだ!」


 だが、牛獣人は余裕の鼻息を噴き出す。彼女が両腕を広げれば、その幅はゆうに3メートルを超える。多少の回避は無効化するほどの、圧倒的な間合い。彼女はブルドーザーのような勢いで、周囲全てを薙ぎ払う勢いで突進を継続する。


「自分から急所を見せるなんて親切だね!」


 ――その巨体が、突如揺らいだ。

 勝利を確信していた牛獣人の顔が驚愕に染まり、客席がざわつく。

 フェレスは地面に這うほどに身を低くして、猛牛の突進を避けていた。更にそこから、全身の筋肉を滑らかに収縮させ、足を蹴り上げる。しなやかな竹のように曲がりながら迫った足の甲が牛獣人の肋骨へと叩き込まれる。


「がはァッ!?」


 重量で遥かに勝るはずの牛獣人が、小さな小さな猫獣人の少女の一蹴によって傾いた。

 驚くべき事実。信じがたい光景にどよめきが広がる。だが、猛攻はここから始まったばかりだった。


「せいやぁあああっ!」


 天を衝くような。重心を崩され、まともに動けない牛獣人の腹のど真ん中に、固く握り込まれた拳が突き込まれる。

 ぼごん、という鈍い音。内臓が凹む衝撃。拳が、鉛の如く鍛えられた腹筋を抉った。


「おごぉ」


 肺を潰された猛牛は、口から空気の全てを吐き出す。脳にまで揺れが伝わり、視線が乱れた。


「なんて強さだ……」


 思わず、賞賛が口から溢れた。とても経験が浅い若手とは思えないほどの練度、そして技の重さだ。俺とほとんど変わらない体格ながら、俺よりも遥かに拳に力が宿っている。普段は飄々とすらしている彼女の真剣な表情は、歴戦の戦士のそれだった。


「たまたまアタシの方が入団が早かったからウィリウスの対戦相手になったけど、ちょっと状況が違えばアイツが選ばれてたはずさ」


 ウルザは誇らしげに腰に手を当てる。


「フェレスは過酷な鍛錬も手を抜かない精神力があるし、天性の才能も持ってる。武器の扱いこそ微妙だけど、それを補って余りあるだけの力を持ってる」


 牛獣人の女もただでは倒れない。太い足で踏ん張り、肩を力ませて背中を曲げる。吠えるような大声と共に、大きな拳を突き出す。風を切る音が聞こえるほどの鋭い殴打。

 だが、すでにそこに青猫の姿はない。


「こっちだよ!」

「なっ、いつの間に!?」


 フェレスの足が、相手の巨木のような足を蹴る。膝裏を強かに打たれた牛獣人はたまらず足を折り、大きく体勢を崩した。

 フェレスの真骨頂は、その体格に似合わない剛力ではない。しなやかな肉体の柔軟な動きから派生する、驚くほどの敏捷性だった。それはおそらく、猫獣人としての能力の高さもあるのだろう。青い尻尾がなめらかにひるがえるたび、彼女は瞬間移動のように場所を変えている。

 その動きは目まぐるしく、もはや鈍重な牛獣人には目で追うことすらできない。常に視覚に回り込まれ、次々と不意の一撃を打ち込まれる。

 ここにきて、観客たちも理解した。牛獣人の屈強な体格は、もはや有利を取る武器ではなく不利を取る枷でしかないのだと。


「ぶもおおおおおおっ!」

「あははっ! 怒っちゃって可愛いねぇ」


 牛獣人が憤怒の咆哮を上げるが、フェレスは怯えすら見せない。むしろ、相手の動きが大振りになるのに乗じて、その太い手首を無造作に掴み取った。

 フェレスが初めて両の足をしっかりと砂に沈め、腰を落とす。何かを仕掛ける。そう思った瞬間に――。


「うおおおおおおっ!?」


 見上げるほどの巨体が、宙を舞っていた。想像すら及ばないほどの重量が、呆気ないほど軽やかに。空へ飛び出した牛獣人本人すらも、驚愕に瞳孔を極限まで開いていた。


「決まったァアアアア! フェレスの大技、一本投げだ!」


 顔を真っ赤にさせて興奮の極みに達した審判の絶叫。

 大きな弧を描く牛獣人の陰に隠れているのは、他ならぬフェレスだ。彼女が牛獣人の太い大腕を持ち、投げ飛ばしているのだ。


「すごいな。あれは祈祷術か?」

「試合でそんなもん使えるわけないだろ。そもそもフェレスは使えない」


 冗談半分に言うとウルザも苦笑して答える。

 となればつまり、目の前のこれはまごう事なきフェレスの技なのだ。

 おそらくは、牛獣人自身の勢いを転嫁させたもの。柔術や合気、つまり武道と呼んで相応しいほどに洗練された格闘の技術。彼女のそれは我流だが、確かにその力を宿していた。


「ぐもぉぉ……」


 頭から勢いよく砂地に落ちた牛獣人は、首こそ折らなかったものの再起不能と判断された。舞台の中央に立ったフェレスは、高く拳を掲げて勝利を誇る。

 華麗にして圧巻の戦いを見せつけた若き格闘家に、客席からは万雷の拍手が贈られた。


「いぇーーい! 大勝利!」


 月桂冠を猫耳に乗せたフェレスが満面の笑みで駆け戻ってくる。俺たちは彼女を賞賛で出迎え、その健闘を讃えた。嬉しそうに耳を揺らす彼女に冷たい水の入った壺を差し入れると、早速大胆に頭から被って汗と砂を洗い流した。


「ふぅ。気持ちぃい」

「お疲れ、フェレス」

「ありがとうね、ウィリウス」


 入団して初めて見た仲間の試合。まだ数日の付き合いにも関わらず、彼女が勝っただけで自分でも驚くほど胸が躍った。水で髪を濡らし、毛先から雫を滴らせたフェレスを見ていると、視線に気が付いた彼女がムフンと笑う。


「あれあれ? ウィリウスったらわたしの闘いぶりに惚れちゃった?」


 尻尾がぷらぷらと楽しげに揺れている。大胆に胸を押し付けてくる彼女に、俺は素直に頷いた。


「ああ。正直びっくりしたよ」

「えっ!? あ、そ、そう? ふーん?」


 自分から寄ってきたくせに、彼女はぽっと頬を赤くして耳を小刻みに揺らす。俺は彼女の手を取って、自分の方へと引き寄せた。


「フェレス」

「ちょっ、ウィリウス!? そんな大胆な。み、みんなも見てるし――」

「ぜひ、俺にもあの技を教えてくれ!」

「…………へ?」


 何か、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をするフェレス。ぽかんと口を開き、呆然と立っている。俺は彼女に向かって真剣に思いを伝えた。


「体格差をモノともしないあの格闘術は、俺もぜひ体得したい。ぜひ!」

「……はぁ。いいよいいよ。なんとなくそんな感じだと思ってたし」


 一気に力をなくしたフェレスは、どこか落胆したように肩を落としてトボトボと控え室へと去っていく。そんな彼女の背中を見送りながら、俺は新たな術を体得できる可能性に心を躍らせた。

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