第10話「風呂上がりの冷たいもの」
「あれは……」
大浴場から脱衣場へと戻る道すがら、俺は足を止める。興味を引いたのは大理石の柱の側にできた長い行列だった。
「ウィリウス、どうした?」
俺がついてこないのに気付いたウルザも振り返り、俺の視線の先を追う。彼女は人集りを見つけて、ああと納得した様子で頷いた。
「今日は氷屋が来てるんだな。こんな昼間に風呂に入るのは珍しいから、忘れてたよ」
「氷屋?」
せっかくだから並んでみるか、とウルザは行列の最後尾へと向かう。立地もあってか、恥ずかしげもなく全裸――もしくは腰巻きだけつけてゆるく尻尾を振っている客も多い。それでもやはり男はほとんど居らず、ウルザが俺を守るように少し距離を詰めた。
「氷を売ってるのか。この暑い日に」
「暑い日だからだろう」
意外に思って首を傾げる。そんな俺を見てウルザはきょとんとしていた。
しかし、この世界には電気や家電といった便利な道具は存在しない。氷室くらいならあるかもしれないが、そもそも一年を通して氷が自然発生することもない土地柄だ。遠方から運んでくるにしてもかなりの値段となり、その冷たさを感じられるのは貴族だけになるだろう。
それなのに列に加わっているのは俺たちのような一般庶民ばかりだ。つまり、俺たちでも手が届く程度の価格ということになる。
「ああ、もしかして天然の氷だと思ってるのか」
「違うのか?」
「そんな貴重なもんじゃないさ。祈祷術で作ってるんだ」
祈祷術。またあまり耳に馴染みのない言葉が出てきた。あまりピンと来ていないのを表情から察したのか、ウルザは更に詳しい説明をしてくれる。
「祈りの力で自然や神々の力を具現化する術だ。使える奴はそんなにいないし、祈祷術の適性が分かったら神殿に入れられるから、まあ奴隷剣闘士やってたらそう見ないか」
聞くところによると、祈祷術とは指先一つで火を起こしたり水を浮かべたりと魔法のようなことができるらしい。祈祷術が使えるのは獣人の中でも数千人に一人程度。カニスのような地方都市では、周辺地域からも集められて二十人程度いるらしい。
「祈祷術ねぇ……。そういえば、俺の村を襲ってきた奴のなかにずいぶん強い奴がいたな。そいつが俺たちの家に火を付けたんだが、いやによく燃えた気がする」
「反応しづらいことを言うな……」
何気なく記憶を思い返しながら呟くと、ウルザは耳をピコピコと揺らす。俺としてはもう十年ほど前のことになるし、ある程度心の中で整理もついているのだが。
しかし、ウルザは俺の記憶にあるその炎も祈祷術によるものだろうと推定した。燃えないものを燃やし、炎を蛇のごとく操るというのも、人智を越えた技の範疇である。
「祈祷術が使える剣闘士はいないのか?」
「祈祷術が使えるなら神殿に籠ったほうが楽な暮らしできるからなぁ。奴隷の子だって祈祷術の適性があれば、神殿に引き取られて神官相当の扱いを受けられる」
どうやら祈祷師というのはなかなかに貴重で重要な存在らしく、帝国内では国をあげて積極的な保護が行われているらしい。まあ、一人で一軍を支えることができるほどの力を秘めた存在など、ちょっとした兵器みたいなものだろうしな。
そんな重要な祈祷師がなぜこんな公衆浴場で氷など作っているのかといえば、神殿の慈善活動の一環と祈祷術の修行を兼ねているようだった。おかげで庶民でも手の届く価格で、湯上がりの火照った体を冷やせるというわけだ。
「お、あれが祈祷師だよ」
列が進み、周囲に比べて小柄な俺にもその姿が見えるようになった。柱の足元に庇を作って、簡素な机が置かれている奥に、トーガとはまた違う白い衣を着た獣人の女がいた。
涼しげな青髪に獣らしい耳は見当たらず、頭はほとんど人間と変わらない。しかし、彼女の二本の腕が立派な鳥の翼になっていた。獣人のなかでも鳥の特徴を持つ、鳥人という一派、更に言うなら燕かなにかだろう。
燕鳥人の祈祷師は、金を払った客の前で大仰に翼を広げ何やら唱える。そして祈るように手を――両翼を重ねると、冷気がそこから漏れ出し、開いたところには拳大の氷が置かれていた。
「手品みたいだな」
「種も仕掛けもないんだがな」
祈祷師は次々と氷を作り、やがて俺たちの順番が巡ってきた。燕鳥人の女は俺をみると、少し驚いた様子で目を開いた。
「うわっ、男だ!? ……こほんっ! ようこそ。氷はいくつ必要ですか?」
こんな列に入浴着姿のまま並ぶ男がほとんどいないのは分かるが、それにしても分かりやすい反応である。今までの客よりも数段丁寧な物腰で、彼女は優雅に翼を広げる。
「二つくれ」
「チッ。はいはい。二つね」
一歩前に出たウルザが指を二本立てると、祈祷師は露骨にやる気をなくす。神職のくせになんて奴だ。
とはいえしっかりと祈りは進み、やがて彼女の翼の上に氷が現れる。一度に作れるのは一つだけらしく、陶器の器に移されたそれがこちらに差し出された。二つ作られた氷のうち、これに渡されたほうが明らかに二回りほど大きい。
「おい、なんかデカくないか?」
「そんなことないよ。私、誰にでも、公平。祈り、平等」
ウルザがむすっとして言うと、祈祷師は下手なカタコトで取り繕う。
神殿勤めといっても、とんだ生臭坊主である。
「神殿生活は女ばっかりだからな。溜まってんだろ」
「分かりやすいなぁ、獣人は」
そっと耳元で囁くウルザ。
俺は呆れてため息を吐いた。
祈祷術が使えるのは例外なく女だけ。こんなところでも女性が優遇されているらしい。そのせいで男性との接触が全て断たれた禁欲的な生活を余儀なくされるのは、当人たちにとっては不幸なのかもしれないが。
「うふふっ。私の祈りが男の子の体内に……。しっかり味わって食べてね!」
「お、おう。ありがとう」
何やらゾクゾクと肩を震わせる祈祷師に少し不気味なものを感じつつ、軽く礼を言ってそこから離れる。
こうして買った氷をどうするのかと思えば、ウルザはそれを掴んでおもむろに握り砕いた。ボロボロと小さな欠片になったそれを、彼女は美味そうに食べ始める。
「ええ……」
氷を砕くというなかなか強烈な光景を目にして、思わず唖然とする。見れば、周囲の獣人たちも何食わぬ顔で氷を砕き、口に放り込んでいるようだった。
「どうした、食べないのか」
「俺は同じ食べ方ができそうにない」
少し気落ちした俺を見て、ウルザも察したらしい。人間の男には到底無理な食べ方である。
「ウルザ、砕いてくれ」
「えっ」
器ごと氷を差し出す。なんなら、俺はそっちの小さい方でいいと言うと、彼女が氷のように固まってしまった。
「ウルザ?」
「あ、いや……。いいのか? アタシの手で触ってるんだが」
「別に気にしないさ」
「ええー」
ウルザは自分の手にある器と、俺が差し出したものを見比べる。何やら熟慮に熟慮を重ねようとしていたが、そうこうしているうちにも氷は溶けるだろう。俺が急かすと、彼女は一大決心を固めたような勢いで砕いた氷の入った器を突き出してきた。
「ほ、ほら!」
「おお、助かる」
器を受け取り、早速一欠片食べてみる。普段は全くと言っていいほど感じることのない冷たさが舌の上で広がり、清涼感が温まった体内に染み渡る。これは、なかなか美味いじゃないか!
「お、おお……」
舌の上で氷を転がす俺を見て、ウルザが固まっている。
「どうした?」
「なんでもないっ」
不思議なやつだ。彼女は二回り大きな氷塊も一撃で砕き、猛然と食べ始めた。それがなくなる前に、俺はふと思いついたことを試そうと立ち上がる。
「ウルザ、近くに露店あったよな。果物とか蜂蜜とか売ってる店」
「うん? ああ、どっかにあると思うぞ」
きょとんとするウルザと共に露店を探す。公衆浴場は人が集まる娯楽施設だ。内外に多くの店が集まってくる。そのなかに南国のフルーツや砂糖よりも一般的によく使われる蜂蜜を売る店もあった。
俺はそこで手早くマンゴーっぽい見た目と味の果実と蜂蜜少しを買い求めた。
「そんなものどうするんだ?」
「こいつに掛けて食べればうまいだろ」
それを砕いた氷の上に掛ければ、簡単なかき氷の完成だ。一気に料理に変わった器を見て、ウルザも思わず声をあげた。
「おお、こりゃいいじゃないか!」
シャリシャリとした冷たい氷に、蜂蜜と果実の甘さがよく合っている。
熊だから、というわけではないだろうが、ウルザも蜂蜜は好みらしく、多めに掛けて楽しんでいるようだった。
「お、おい。私も蜂蜜くれ」
「私もだ!」
近くの長椅子に座って二人でかき氷を楽しんでいると、周囲の客たちも競うように露店へ駆け込んでいく。露店の商人たちは突然の繁盛に戸惑いながらも、飛ぶように売れていく商品にニコニコしていた。
「お前、不思議な奴だなぁ」
ぺろりと口の周りの蜂蜜を舐めながら、ウルザがそんなことを言う。
「そうか?」
俺が首を傾げると、彼女はふんと笑って頷いた。
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