第09話「お風呂へ行こう」
帝国人を語る上で切っても切れないものはなんだろうか。そう問われれば、多くのものが
そうして適度な温度に調整された公衆の大浴場には、老若男女、身分の貴賤すら問わず多くの帝国人がやって来る。
かくいう俺は生粋の帝国人というわけではないが、その魂の源流は現代日本人のそれだ。風呂があるなら入りたいと思うのが当然のことだった。
「そう言うわけで、ちょっと行ってくる」
「待て待て待て待て待て!!!!」
カウダとの練習試合で手に入れた銀貨数枚を握って宿舎の外へ足を向けると、ぐいと勢いよく服を掴まれ引き戻される。掴んだのはウルザだが、俺の行手を阻むのはカウダやフェレス、以下〈ソルオリエンス〉の屈強な剣闘士たちだ。
自分でも憮然としているのが分かるくらい口を曲げて不満を訴えると、なぜか憐れみの目すら向けられ、妙に優しく嗜められた。
「お前なぁ……。男が一人で風呂に行くなんて、馬鹿なのか?」
腰に手を当ててやれやれとかぶりを振るウルザ。昨日酔い潰れるまで飲んだくれていた奴に説教されるのは納得がいかないが、彼女たちの言わんとすることは分かってきた。
俺も初めてのテルマエということで少し浮き足立っていた。奴隷時代はそんなところには行けないし、金も無かったからな。ようやく念願が叶うと思って、つい気が急いていた。
男女の価値観が捩れているこの世界では、俺は若い女みたいなものだ。確かに、一人で屈強でむさ苦しい、ついでに野生の本能強めな獣人女たちの中に飛び込むのはマズい。
「しかし、男湯と女湯で分かれてないのか?」
「男湯ぅ?」
素朴な疑問を口にすると、ウルザたちは揃って眉を上げた。
「性別で分けるってなら、時間帯で仕切られてる町もあるけどなぁ」
「そんなの守ってる奴はいないだろ」
「男しかいない時間帯があるなら、私はその時間を狙うね。何が嬉しくてむさ苦しい女ばっかと湯船に浸からねぇといけねぇんだって話だ」
ボリボリと頭を掻いて首を傾げる者、恥ずかしげもなく恥ずかしいことを堂々と放言するもの。時代もあるのか、文化的なものなのか、このへんは現代日本とは全然勝手が違うらしい。
風輝紊乱甚だしいということでお上が直々に男女の入浴を分けろとお触れを出したこともあるが、それもほとんど民衆の支持は得られず有名無実と化したようだ。
「そんな……。それじゃあ俺はどうすれば……」
ようやく風呂に入れると思ったのに、こんなところで足止めを喰らうとは思いもしなかった。奴隷時代は濡れた布で拭くくらいなものだったし、宿舎に来た昨日も水道の水をざぶんと被った程度で終わってしまった。それなのに女どもは妙にほかほかとした体で帰ってきて、怪訝に思っていたものだ。
「あー、まあ。一人で行くのが危ないって話だからな」
肩を落とす俺を見かねてか、ウルザが口を開く。その瞬間、何やら周囲の女性陣に緊張が走ったような気がした。
「ひ、一人くらい護衛を連れて行くのがいいだろ。――こほん、そういえば私もちょっと汗を流したいところだった」
「カウダてめぇ!」
素っ気ないような顔をしながらおもむろに手を挙げたのは狼獣人のカウダ。さっき組み合った奴だ。お互いに転がりまわったおかげで汗も泥もついている。なんなら、尻尾があるぶん彼女の方が汚れているかもしれない。
「あー! 私も! 鍛錬で汗びっしょりだし!? ついでに!」
「わたしもわたしも! 他意はないよ! ウィリウスも男だからね。淑女的に何ら問題はないよね!」
「仕方ないなぁ。ウィリウスがどうしてもってんなら……」
「ああああっ! 汗だっくだくだわぁ!」
カウダを皮切りに、獣人たちが次々と手をあげる。鍛錬をサボっていた奴まで水瓶をひっくり返してずぶ濡れで叫んでいた。ケモケモしく押し合いへし合いする彼女たちを見ていると、その逞しさに思わず震えてくるな。
軽く服の胸元を掴んでぱたぱたと仰いで見せると、十三対の獣の瞳がチラチラとそちらへ注がれる。なんか、餌を持って湖畔に立った時に集まる鯉みたいで少し楽しい。これで本人たちはうまく隠しているつもりなんだろうが。
「それじゃあ、全員で行くか?」
「なにっ!?」
「いいのか!?」
「し、しかたないにゃぁ」
誘ってみると反応はてき面で、彼女たちは弾かれたように走り出す。大部屋に飛び込んですぐに戻ってきた彼女たちの手には財布と着替えが握られていた。
正直なところ、俺も人並みに欲はある。それに彼女たちは日々鍛錬を重ねた魅力的な体をしている。それを間近で拝めるというなら、男としても剣闘士としてもつい喜んでしまう。
「おい、本当にいいのか?」
ふんふんと鼻息を荒くして張り切る剣闘士たちの中で、唯一ウルザだけがあまり気の進まない様子だった。
「もちろん。まだ出会ったばかりとはいえ、みんなの事は信用してるしな」
「お前……。本当に緊張感がないというか油断しまくりというか」
よく今まで生きてこられたな、とでも言いたげな目だった。実際、何かが間違えば今頃野垂れ死んでいた可能性はおおいにあり得る。
「ウルザてめぇ私たちのこと信頼してないのか?」
「ちゃんと淑女的に接するに決まってるだろ」
「さ、先っちょはセーフか?」
先輩方もそうだそうだと言っている。結局、ウルザも荷物を持ってやって来て、俺たちは町の大衆浴場へと向かうことになったのだった。
「ふぅぅ。生き返るな……」
カニスは帝都からも離れた地方都市だが、それでも立派なテルマエが備られている。温水の大浴場が二つに、冷水の浴場が一つ。更にマッサージを受けられる部屋や、運動場。更には小さいながらも図書館すらある。石造の立派な建物の周囲には食べ物なんかの露店が集まり、全体として大きなアミューズメント施設と化していた。
トーガを着てぞろぞろとやって来た剣闘士たちも、早速それを脱ぎ捨てて大浴場へと向かう。俺も彼女たちに守られるようにして、ついに念願の風呂に身を沈めることができたのだった。
「風呂は誰だって好きだからな。自分用の風呂を持ってる貴族も、わざわざこういう公衆浴場まで来ることがあるらしいぞ」
隣で胸まで浸かったままウルザがそんなことを言う。彼女はよく鍛えられた褐色の肌を惜しげもなく晒し、生まれたままの姿で白い大理石の縁に背を預けている。一戦交えて分かっていたことだが、やはり彼女の肉体はよく鍛えられている。それでいて湯に浮かぶ二つの双丘も立派なものなのだから、不思議なものだ。
「本当に。思ったより混んでてびっくりしたよ」
帝国人の風呂好きも筋金入りだが、この公衆浴場の賑わいを見ればその理由もなんとなく分かる。ただ体を清める場というだけでなく、コミュニケーションの場としても機能しているのだ。
これだけの規模のテルマエが、この町でももう一つあるというのだから驚きだ。
「オラァ!」
「グワーーーッ!」
「てめぇ、覚悟しろ!」
列柱廊に囲まれた浴槽の側では、半裸どころか全裸のままの獣人の女たちが遊びに興じている。革張りのボールを投げ合い、激しくぶつけ合っている様は迫力満点だ。たぶん、俺があそこに混ざれば骨の一本や二本は覚悟しなければならないだろう。
やはり獣人と人間ではもともとのフィジカルに明らかな格差がある。
ふと周囲に並ぶ柱の側に目をやると、細身で色白な男たちが身を寄せ合うようにして風呂を楽しんでいる。しっかりと胸元まで布で包み隠していて、貞淑そうな格好だ。正直、違和感しかないが。
「その、ウィリウス。……お前ちょっと大胆すぎないか?」
「そうか?」
ウルザが少し言いにくそうにしながらも指摘する。実のところ、周囲からも隠し切れない視線が注がれていた。
今の俺の格好は腰に布を撒き、肩にも布を掛けて肌を隠すというもの。正直、窮屈でしかたない。湯船に浸かる時くらいは外したいのだが、ここではこれでも大胆な男だと認識されるようで、同性からはヒソヒソと囁かれ、異性からは好奇の目線を向けられている。
最初、普通に全裸で湯船に行こうとしたら、顔を真っ赤にしたウルザに止められた。
「人間族ってみんなそうなのか?」
「いや、違うと思うが」
「自覚があるなら直せよ……」
呆れたように言うウルザ。ただ初心なだけの女かと思ったが、どうやら紳士的――いや、淑女的な性格の持ち主らしい。肩にかけた布を少し寄せると、少し安堵したようなため息が聞こえた。
「ウルザめ、余計なこと言いやがって」
「せっかくの眼福が……」
……どうやら周囲の先輩方は、そうでもないらしい。
ともあれ、久々の風呂というのは気持ちがいい。周囲の視線も気にならないくらいだ。
俺はもう少し深く浴槽に沈んで、記憶の中にしかなかった心地よい温度を堪能する。女性は全裸が普通だから落ち着かないかと心配していたが、なんかもう一周回ってどうでもいいな。
「うー……」
快楽に身を浮かべていると、不意に隣から低い唸り声が聞こえてくる。瞼をあげて見てみると、日焼けした肌でも分かるくらい体を熱らせたウルザが背を曲げていた。
「もしかして、風呂は苦手なのか?」
「……北の出身だからな」
ぼそりと呟くウルザ。熊獣人というだけあって、寒さには強いが暑さは苦手らしい。それなのにわざわざ俺の入浴に付き合ってくれたのか。
「じゃあ、そろそろ上がるか」
「いいのか? もっと居てもいいんだぞ」
「明日も来れるだろ。風呂は耐え忍ぶようなもんじゃない」
周囲の先輩方はいつの間にか運動場へ移動している。どうやらボール遊びに熱が入っているらしい。
俺に付き合わせるのも申し訳ないということで浴槽から上がり、ほかほかと湯気を立たせるウルザと共に脱衣場へと向かう。その道中で、俺はあるものを見つけてふと立ち止まった。
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明日から1日1話、07:05の投稿になります。
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