第03話「入団試験」
非難轟轟、拍手喝采。真っ二つに割れた客席をぐるりと見渡す。男奴隷剣闘士が己の身分を賭けて戦う三十戦目ということもあり、その注目はかなり高い。帝国の首都から遠く離れた地方都市の小さな闘技場は、興奮冷めやらぬ獣人たちで紛糾している。
今日は巨額の金がゴロゴロ動くことだろう。
だが、俺には関係ないことだ。
視線を戻すと、舞台の砂に大の字で倒れ込んだままウンともスンとも言わないウルザが見える。油断したところに強く頭を打ちつけたのだ、まだ目覚めるにはしばらく掛かるだろう。
「おめでとう、ウィリウス」
「スゲェ戦いだったな! 私はちゃんとお前に賭けてたからな!」
ウルザの出てきた方の通路から担架を担いで駆け寄ってきたのは、この闘技場で働く獣人たちだ。胸元と腰に布を巻き付けただけの身軽な格好をした彼女らは、ニヤニヤと笑みを浮かべてまとわりついてくる。
本当に俺の勝利を信じていたのか、そのあたりは定かではない。しかし彼女たちが妙に馴れ馴れしい理由はよく分かっている。
三十勝を挙げた俺は、ついに奴隷身分から解放された。そうすれば残るのは、どこへでも行ける自由な男ひとり。彼女たちはそれを自分のものにしようと、虎視眈々と考えているわけだ。
一応はウルザを運ぶために駆けつけたはずだろうに、職務放棄していていいのか。
「……おい」
その時、舌舐めずりしながらにじり寄る獣人たちの背後からドスの効いた低音が響く。
「うわぁっ!?」
「な、目ぇ覚ましてんのかよ!」
振り返った救護員たちが悲鳴をあげて、文字通り尻尾を丸める。ぬらりと立ち上がったのは、額を真っ赤にさせて憮然とした表情を浮かべたウルザだった。
彼女が立ち上がったのを見て、しぶとく残っていた観客たちが歓声を上げる。
「うおおおっ! ウルザ、よく起きた!」
「さあ試合は終わってないぞ!」
「こっからが剣闘だ!」
虫のいいことを次々に叫ぶ負け組たち。審判はすでに試合が終わったと宣言しているが、そんなことはお構いなしだ。親指だけ立てた拳を下に向けブーイングの嵐を巻き起こしている。
救護員の二人は、担架に乗せるはずだったウルザが目を覚ましたのなら、とそそくさと逃げていく。
「うるせぇぞ、バカ犬共!」
直後、闘技場の隅々にまで響き渡ったのは雷鳴のごとき怒りの声だった。
「いい年した女が揃いも揃って。自分の負けも認められねぇ奴は墓穴掘って寝とけ!」
憤怒の表情を浮かべて吠えるのは、他ならぬウルザその人。人間の男に負けたはずの張本人の怒りを買った客席は、しんと静まり返る。
「おい、こっちこい」
「俺?」
「お前以外に誰がいるんだよ」
おもむろに手招きされ、誘われるままウルザの元へと向かう。すると、彼女は俺の手を握って高々と掲げた。
「この試合はカニスの造営官オクトウィウスが祖霊の慰撫のため開いた神聖なるものだ! 神龍と古き母たちの膝下で決した勝負に異論がある者は前に出ろ!」
彼女が語ったのは、今ではすっかり形骸化した剣闘試合の由来だ。今では試合ごとに賭け金と予想が飛び交う庶民のエンターテイメントと化している剣闘試合も、元々は神々と祖先の霊に捧げる神聖な儀式だったらしい。
その頃の名残で、開催の前には神官による奏上の儀式も行われるし、客席の最上部には小さいとはいえ神殿も置かれている。
観客たちが押し黙ったのはウルザの言葉に感銘を受けたからではない。今更そんな古臭い話を前に出されて、驚いたからだ。
「わははははっ!」
「い、今更そんな……」
そこかしこで笑いが噴き上がり、やがて再び賑やかな空気を取り戻す。だが、ウルザはむすっとしたままの不満顔だった。
ともかく、そろそろ手を下ろして欲しい。彼女に手を持ち上げられると、足がつかなくて脇が裂けそうだ。
「ウルザ、ありがとう」
「別にお前のためじゃない」
ぶっきらぼうにそう言って、大柄なクマ女はようやく降ろしてくれた。彼女は俺とは違って職業としての剣闘士をやっている。だからだろうか、彼女の横顔には、腹を抱えて笑う観客たちへの失望に似た感情が伺えたような気がした。
「とにかく、お前はアタシに勝った。それを誇れ。――奴隷は身分ではなく状態だ。そこから脱したのだから、これからは自由に生きられるだろう」
短くそう呟いて、彼女は自分が出てきた方へと歩いていく。まだ頭が揺れているのか、その足取りはおぼつかない。それでもしっかりと斧も握って、堂々とした退場だ。
彼女が通路の影へ消えていくのを見送り、俺は駆け寄ってきた審判から月桂樹の冠を受け取る。神聖なる儀式の勝者に与えられり、輝かしい功績の証だ。
悲喜交々の声を背中に浴びつつ、舞台裏に引っ込む。ここでの湿っぽい生活もこれでおさらば。俺は晴れて市井を堂々と歩くことのできる自由民となる。まあ、一人で出歩いたら三秒で路地裏に引き込まれて襲われるだろうが。
奴隷身分から解き放たれたということは、庇護者を失うということでもある。俺の身元を証明し守ってくれる者を、早々に見つける必要があった。庇護者のいない自由民は、そこらの奴隷よりもはるかに悲惨な暮らしぶりだ。
とはいえ、元よりそこまで心配はしていない。そもそもこの試合の前から段取りは付けていた。
「華々しい勝利だったわねぇ。おめでとう、ウィリウス」
暗がりの奥から艶やかな女の声がする。それと同時に、鼻にまとわり付くような煙草の匂いも。視線を向けると、微かに差し込む光を受けて、青白い肌が見えた。
「あっちに居なくていいのか」
「あの子の事なら心配無用よ。あれでタフなのが売りだから」
「丈夫なのは認めるが……」
奥からその人物が歩み出てくる。姿を現したのは、濡れたような長い黒髪の女だった。息を呑むような美貌を儚げにした麗人だが、この世界の女が普通であるわけもない。
まず目を引くのは、長い煙管を持ったしなやかな腕。それ以外、彼女は五本の腕を持つ。日差しの厳しいこのあたりでは珍しい青みがかった白い肌は、異国の情緒を掻き立てる。だが、その滑らかな腰のラインに続くのは、大きく膨らんだ体だ。
彼女の名はドミナ。蜘蛛虫人と呼ばれる種族の女だ。
「条件は満たした。約束は守ってくれよ」
「そんなに心配しなくてもいいわ。私も淑女の端くれ、男の子に乱暴はしないから」
男の子なんていう歳でも外見でもないが、190cmはある彼女から見れば俺も小さい男に過ぎないのだろう。どう考えても、この世界の女がデカいだけだが。
ドミナは鮮やかな紅から煙管を放し、濃い煙をふーっと吐き出す。そして、大きな体――蜘蛛の腹にあたるところを揺らしながら石造りの通路の中を歩き出す。付いてこいということだろう。
「でも、珍しいわねぇ。せっかく自由民になれたのに」
「後ろ盾がない。戻る故郷もない。……それに、俺にはこの生き方が合っている」
「ふぅん」
憂いを帯びたような睫毛を伏せた目が俺を見る。妖艶な雰囲気を醸す彼女だが、その正体は興行主、より詳しく言えば剣闘士団の団長だった。
そう。俺は晴れて奴隷剣闘士の身分から解放され、自ら職業剣闘士となるのだ。
「ま、私としては稼ぎ頭が増えて大歓迎よ」
「そりゃあ良かった。せいぜい死なないように頑張るさ」
三十勝目、つまり解放奴隷の身分が目前に迫っていた俺は、その後の行き道に悩んでいた。そんな折、地方を遍歴する巡業剣闘士団を率いて彼女がやって来たのだ。すぐに俺は彼女と会い、解放された後に剣闘士団に加入させてほしいと頼んだ。
人間の男の剣闘士だ。物珍しさが何よりも稼ぎを産む娯楽産業では、これほどのステータスもない。ドミナは二つ返事で頷くかと思ったが、一つだけ条件を取り付けた。
「さあ、この奥よ」
前を歩いていたドミナが立ち止まって振り返る。彼女の前にあるのは簡素な木張りのドアだ。その奥からは何やら賑やかな女性たちの声がする。ついでに、汗っぽい匂いまで。
俺はドアを叩こうとして、止める。別に鍵も掛かっていないし、遠慮するようなことはない。
意を決して、ノブを押す。
「ぎゃはははっ! 情けねぇな、全く!」
「うるさい、だまれ!」
「ヒトのオスに負けるなんて、誇り高きメスは流石だねぇ」
「がぁあっ! その顎砕いてやろうか!」
眼前に現れたのは石造りの狭苦しい部屋。そこに半裸で汗だくの獣人の女たちが寿司詰めになっている。犬獣人、猫獣人、兎に猪と種類も豊富だが、どいつもこいつもデカいし
恥じらいもない乙女たちの小部屋から漂ってくるのは、むせ返るような熱だけだ。
唐突に開いたドアの方へ、一斉に注目が集まる。あれほど騒がしかった部屋の中が、水を打ったように静まり返っていた。
そんななか、騒ぎの渦中にあった女がひとり、わなわなと震え出す。頭から水でも被ったのか焦茶の髪をしとどに濡らし、上体を曝け出したまま唖然として俺を見ている。
「お、おま、おま……」
ようやく発せられたのは、狼狽しきった声だった。目を白黒させて、丸っこい耳までぷるぷると震わせている。
「なんでお前、こんなところに!?」
たっぷり時間をかけて、大柄な女――ウルザが部屋中に響く大声を発する。
「なぜって、私がそう仕切ったからよ」
頃合いを伺っていたドミナが部屋に入ってくる。彼女を見て、小部屋に詰め込まれていた剣闘士たちが一斉にざわついた。皆一様に、詳しい説明を求めている。
「ウィリウスが解放奴隷となった後も剣闘士を続けるため入団したいと言った。私はウチのエースを打ち倒せるなら、と条件を出した。彼は結果を残し、条件を満たした。――だから歓迎しなさい。新しい仲間よ」
あまりにも簡単にすぎる説明に、ウルザ以下十数名の剣闘士たち――ドミナが率いる剣闘士団〈ソルオリエンス〉の面々は口をぽかんと開いて立ち尽くすのだった。
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