第02話「頭を使え!」

 ウィリウス。

 それがこの世界に生まれ落ちた俺の名前だ。そして、俺の中にはウィリウス以外の名前を持つ記憶がある。現代日本でごく普通の暮らしを送っていたある男の記憶だ。つまり俺は異世界転生を果たした転生者ということになる。

 とはいえ、現代知識を使って富を得るとか、神から授けられた異能で成り上がるとか、そんなうまい話はない。大陸の片隅にある人間族の小国で生まれ育ち、そこで男女の価値観が前の世界と大きく異なることを知った。世界そのものが異なる究極のカルチャーギャップだ。

 この世界は人間が弱い種族の筆頭だ。なかでも、人間の男は一層ひ弱だ。俺の目で見れば、この世界の女がことさら強すぎるのだが。人間の女でもバカみたいに大きな岩を軽々と持ち上げる。

 であれば、この世界の征服者とは誰か。俺は数年前にそれを知った。

 獣人族である。


「おりゃああああっ!」


 例えば、今目の前で大斧を振り上げている逞しい肉体の熊獣人。背丈は2メートルに少し足りないといったところか。なんにせよ、170cmと少しの俺からすれば見上げる大きさだ。

 まともに組み合えば、抵抗虚しく一方的に沈められるだろう。


「ふぅっ」

「チィッ! ちょこまかと動きやがって!」


 大きく開いた懐に潜り込むようにして、初撃を躱わす。熊獣人――ウルザは眉間に皺を寄せて悪態をつくが、勘弁してほしい。獣人同士ならあの大振りな攻撃を受け止めるという選択肢もあるだろうが、ただの人間の男にしかすぎない俺がそんなことをすれば、問答無用で複雑骨折だ。


「リスかお前はぁ!」

「人間だよ!」


 砂を蹴り、瞬時に反転する。勢いに任せて斧を振り下ろしたウルザは急な反撃には対応できないだろう。


「せいっ!」

「痛くも痒くもねぇな!」


 だが、彼女も歴戦の剣闘士だ。咄嗟に体を捻り、腰当てで俺の剣を防ぐ。ギン、と甲高い音がして、強い痺れが手を襲う。だが、これを取り落とすわけにはいかない。


「ふんっ」


 俺は気合いを入れて拳を握り、しっかりと剣の柄を掴む。

 そんな俺を見てウルザの赤い瞳がギラリと光った。ただの獲物だと思っていた存在が、存外強く反撃してきた。ただの狩りが楽しい試合へと変わった瞬間だ。


 ――そう。普通は狩りなのだ。

 獣人が支配する帝国は、この大陸で最大の版図を誇り栄華を極める。その原動力となるのは、屈強な獣人たちの軍勢だ。彼女らはたびたび国境の外へと溢れ出すようにして侵攻し、近隣の国々を襲う。そして金品財宝、何より奴隷を持ち帰る。

 女ならば安い労働力として、男ならば使いやすい欲望の捌け口として。奴隷は資源だ。働かせても金はかからず、不要になれば捨てればいい。言葉が聞けるだけ、便利な家畜のようなものだ。

 俺は帝国に攫われてやって来た奴隷の身分だ。でっぷりと太った豚獣人の奴隷商人は俺をどう売り飛ばそうかと考えていた。そこで知ったのは、帝国で盛んに行われている剣闘試合で三十勝すれば、奴隷身分から解放されるという話だった。

 もとより、趣味も兼ねて筋トレに勤しんでいた俺は、人間の男にしては。細い体と白い肌の若い男を好むこの国の獣人たちの醜美観には合わない。そんな理由もあって、俺は地方の小さな町の闘技場に奴隷剣闘士として売り払われたわけだ。


「しぇああああああっ!」

「うぉぉおっ!?」


 分厚い鉄の斧が迫り、現実に意識が戻される。間一髪のところで避けたが、鼻の頭が削げていないか心配になる。幸い、血の匂いはしない。


「アタシと戦いながらよそ見なんて、余裕じゃないか」


 対峙するウルザは怒りをあらわにしていた。

 そもそも、人間の男との試合を組まれること自体、彼女は納得いっていないのだろう。ウルザは新進気鋭の若き剣闘士だ。その成績は抜群で、今回の試合でも強く期待されている。

 実力も示して来たのに、こんなに付き合わされるとは。とでも思っているのだろう。


「すまないな。これが三十戦目なんだ」


 そう言うと彼女は口元を緩めた。必死に崖を登ってきた子猫を軽く蹴飛ばして再び谷底に落とすような、そんな顔だ。

 奴隷剣闘士は三十勝すれば解放奴隷となる。それは彼女もよく知る周知の事実だ。だからこそ――ウルザが勝てば俺はまた牢に戻ることになる。


「そりゃあ残念だったな!」


 斧が落ちてくる。剛風が耳元で唸る。

 剣闘は真剣勝負だ。当然、当たれば斬れる。腕でも落とされた日には奴隷剣闘士すら続けることはできず、男衒にでも売られるのだろう。屈強なケモノの女に性的に消費されるのに多少興味がないかと言われれば嘘になるが、ゴミのように野垂れ死ぬのは御免被りたい。あと、この国の奴らはみんなデカいし臭いし乱暴だ。


「大人しく牢に引っ込んでたら、アタシが買ってやるよ!」


 下品な笑いをあげながら、熊が迫る。彼女の容姿も――体格は横に置くとして――美人といって間違いない。デカいし臭いし乱暴だが、容姿はいいんだよな。容姿だけは。……ワイルド系熊女に飼われるのもいいのか?


「いや、ダメだな」

「ぬおおっ!?」


 思考を蝕む邪念を振り払い、伸び切ったウルザの腕を盾で叩く。いくら人間の男が相手とはいえ、彼女は油断しすぎだ。盾も持たない超攻撃的なスタイルにも関わらず、まるで動きを考えていない。

 そこに付け入る隙がある。


「はぁっ!」


 盾を捩じ込み、強引に彼女の胸元へと分け入る。立派な乳房の下に岩のような筋肉を纏う腹がある。そこに剣を差し込めば、俺の勝ちだ。


「――――ッ!」


 ウルザの顔が焦燥に固まる。熱い視線と大声を向けていた観客たちが一斉に悲鳴をあげた。

 あの、ウルザが致命的な隙を晒した。男が勝利を目前としている。


「ガァアアアアッ!」


 獣人族の本性、剥き出しの野生が咆哮を放った。ビリビリと空気が震えるほどの威圧に、足が屈しそうになるのを必死で耐える。ウルザの赤い双眸が俺を睨む。彼女の太い腕が俺を払い除けようと迫る。

 だから俺は剣を投げた。


「ぬぅわっ!? おま、何を――ぎゃっ!」


 展開は一瞬だった。

 俺が投げた剣がウルザの顔を掠めるように飛び、彼女は一瞬仰け反った。そのまま意に介さず動き続けていたら、俺が剣を立てるよりも僅かに早く、俺の腕を叩き折っていたことだろう。

 だが、刹那の時間が生まれた。俺は木を登るようにウルザの大腿を蹴り、肩に手を掛けて跳ね上がった。その勢いのまま向かう先は、彼女顔面。より性格に言うならば、荒々しく乱れた茶髪に飾られた額だ。

 俺の最大最強の武器は盾でも剣でもない。それがあることを決して気取られないよう、二十九の試合をずっと隠し通してきた秘密の武器だった。


――ガツンッ!


 額と額。お互いの硬い頭蓋骨が強く打ち合う。筋肉はいくら鍛えられても、脳みそまで筋肉になることはない。首という、常に重たい頭を支え続け鍛えられた強い筋肉の集合体を総動員し、勢いよく打ちつける。その衝撃はダイレクトに脳を揺らす。

 ウルザの巨体がぐらりと揺れる。彼女の目は裏返り、半開きの口から赤い舌が飛び出している。俺は倒れゆく巨木から飛び降り、一応油断なく盾を拾って構える。

 だがすぐに反撃の心配は無用と知った。


「う、ウルザ失神! ――勝者、ウィリウス!」


 戸惑いの色濃い審判の声。客席から溢れんばかりの絶叫と罵詈雑言、そして僅かながらの歓声が上がった。

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