【完結】貞操逆転獣人世界のヒトオス剣闘士

ベニサンゴ

第01話「闘技場の男奴隷剣闘士」

 檻の前までやってきた中年の女は、舐め回すような目をこちらに向けた。というか、実際に唾液で濡れた舌で口の周りを舐めている。俺が剣を持って盾を提げ、胸と股間を守るだけの簡素で装いをしているからだろう。


「ひひっ。いよいよ最後の試合だな。勝てば晴れて解放奴隷だ。せいぜい頑張るんだね」


 がしゃん、と穴に差し込んだ鍵を回しながら女は言う。多少年嵩とはいえ、異性からの激励の言葉。以前の俺ならばそれで多少の力も湧いてくるのだろうが、今はあいにくそういう気持ちにもならない。


「……」

「チッ。相変わらず人間の男の癖に反応の薄いヤツだな」


 俺が特に顔色も変えずに平然としていると、女は面白くなさそうに耳を伏せた。人間のそれとは全く異なる、黒く濡れた鼻がつまらなさそうに息を吐く。しまいには裾の下から覗く箒のような尻尾を退屈そうにだらんと垂らす。

 牢番の女は獣人と呼ばれる種族だった。中でも頭に犬の耳を付け、腰から尻尾を伸ばした犬獣人という一族だ。唇の隙間からは鋭い犬歯が覗いているし、手足の爪も鋭い。

 この帝国は、彼女のような獣人族が大半を占める。俺のような人間は珍しい。

 滑りの悪い鉄格子が悲鳴のような音と共に開いた。


「ほら、さっさと行きな。観客はアンタを一目見ようと集まってんだ」


 牢の外に出て、湿った石の上を歩く。長い廊下の先は明るく光り輝き、外の様子はよく見えない。しかし、頭上から既にくぐもった歓声が漏れ伝わってくる。

 剣を持ち、盾を見る。俺の命を繋ぎ続けてきた大切な相棒は、今日も万全の状態で息巻いている。ならば、なんら問題はない。


「長い間、世話になったな」

「なっ。……今更何を言ってんだ」


 最後の試合だ。この牢番の女と言葉を交わすのも最後だろう。手を差し出すと、彼女は年甲斐もなく頬を赤らめて目を泳がせた。毎日のようにセクハラをしてくるくせに、男らしからぬ剣ダコまみれの手を向けられただけでこんなに狼狽えるとは。

 少しおかしくなって笑うと、女はむっとした。俺の手を取り、様子を見つつ握りしめる。


「そんなに怖がらなくていいだろう」

「しかしな。人間は脆いだろ、しかもお前は男なんだからな」


 今更そんな殊勝なことを言われるとは思わなかった。

 牢番の女――犬獣人の女の体格は男の俺よりも一回り大きい。だが、これがこの世界の普通だ。男は女よりも弱く、小さいもの。故に女が男を守り、武器を取り戦うのも女の役目。それが常識。


「行ってくる」

「頑張りな」


 手を解き、光に向かって歩き出す。牢番の女の名残惜しそうな視線を背中に感じる。

 一歩前に踏み出すほどに俺を待ち望む歓声は大きく激しくなっていく。楽団のラッパが高らかに鳴り響き、太鼓が強く打たれ、彼女らの興奮を更に高めている。


「本日最後の試合は記念すべきものとなるでしょう!」


 客席を煽り財布の紐を緩めるために声を張り上げるのは、このステージを取り仕切る主催者の部下だろう。彼女の声に合わせて声援が吹き上がり、日よけの天蓋を膨らませる。


「異国よりやって来た、世にも珍しき男奴隷剣闘士! その身に纏うはごくわずかな布切れ一枚、そして胸当てただ一つ! 鍛え上げられた艶かしい肉体美をご覧あれ! しかし男だからと油断するのはご勘弁。その剣技は卓越し、立ちはだかる勇猛な剣闘士たちを打ち倒すこと二十九人! もはや番狂せとは言わせない!」


 立板に水を流すような滑らかな言葉。その節々に隠された情欲に思わず苦笑してしまう。


「そして本日、この試合! この日この場所この時間! ついに三十戦目を迎えたり! 試合に勝てば晴れて奴隷身分から解放され、自由民としての地位を保障されることとなりましょう! さあ、運命を定める大試合。男神が微笑むのはいったいどちらか!」


 サンダルが砂を踏み締める。容赦なく降り注ぐ日差しの熱が滲むように伝わってきた。

 闘技場の広い砂地に歩み出れば、歓声はついに最高潮へと達する。


「ウィリウス! ウィリウス! ウィリウス!」

「やれーーー!! やっちまえ! ウルザなんかぶっ飛ばしちまえ!」


 俺の名を叫ぶ声がする。俺に賭けた奴らだろう。

 周囲をぐるりと取り囲む円形闘技場の観客席は間違いなく満員だった。夏の盛りで茹だるような暑さだというのに、獣人たちは全く意に介した様子はない。トーガの胸元を大きくはだけさせ、艶やかな汗を滲ませながら、牙を剥いて叫んでいる。

 その中に俺と同じような人間の姿は見当たらない。全てが犬や猫や蛇といった動物の特徴を持つ獣人たちだ。そして同じく、男の姿も見当たらない。いや、遠く距離の離れた最後列から、侮蔑のこもった目を向けるものなら多少いるか。


「美麗なる男奴隷剣闘士、ウィリウス!」


 名を呼ばれ、剣を掲げる。


「オオオオオオオオオッ!!!」


 轟声は石造りの闘技場を揺るがすほどの圧を広げた。


「立ちはだかるのは、こちらも連戦に連勝を重ねる稀代の新星!」


 再び、滑らかな口上。

 反対の壁に開いた通路から大柄な女が現れる。俺と同じく胸当てと腰当てだけを身に付けた半裸の女だ。だがその体格は大きく異なる。筋骨隆々、高身長。おそらくは2メートルに迫るほど。濃い茶色の髪は乱れ、そこに埋もれるようにして丸みのある耳が少しだけ覗いている。正面からは尻尾が見えない。熊獣人の剣闘士だ。


「北方よりやってきた勇猛なる熊獣人! その怪力は獅子にも勝り、その頑強さは牛すら凌ぐ! 破竹の快進撃は今や帝都にすら届いている!」


 物々しい言葉に合わせて、その女は牙を剥いて吠える。


「ウルザ! ウルザ! ウルザ!」

「男だからって容赦するんじゃねぇぞ!」

「押し倒してキャンキャン言わせてやれ!」


 下品な野次と共に対戦者の名前が連呼される。熊獣人の剣闘士、ウルザ。その手に持った両刃の大斧を使い、現在も連勝記録を伸ばし続けている若き剣闘士。

 彼女は今、燃えるような荒い息を吐きながら、獰猛な眼をこちらに向けている。

 もはや言葉はいらない。この場において男女という区別は消える。残るのは互いの命を狙う剣闘士がふたり。


「両者、対面!」


 審判が中央に辿り着いた俺たちの肩を押さえる。そうでもしなければ、ウルザはすぐにでも飛びかかって来そうなほど気迫に満ちていた。まるで数日飢えさせた猛獣のようだ。

 客席の騒がしい声も聞こえない。世界が急速に狭くなり、澄み渡る。純粋な二者だけの領域へと変わったのを肌で感じた。

 最前列の一番良い席ではこの試合の主催者である造営官がゆったりと肘をついてこちらを見ている。審判が視線を送り、主催者が手を天に掲げる。それが合図だった。


「開始ッ!」


 審判の声と共に、ラッパが高らかに吹き鳴らされる。


「うぉおあああああああっ!」


 次の瞬間、熊獣人の巨女が叫び声を上げながら斧を振り上げた。

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