七、十年スイートビター




 葵と友だちになってから、十年が経っていた。

 高校を卒業して、別々の大学に進学してからも、社会人になってからでさえも、疎遠になることはなかった。

 二人で食べた甘味は数知れず。葵と食べるものは、どんなものでもとても甘くて美味しかった。そして、ほんのり苦かった。




 近所に新しくできたカフェで、私たちはランチを食べ終えていた。メインはもちろんこの後のスイーツだ。

 ごちそうさま、とフォークを置いた後、先にメニューを開いたのは私の方だった。

 この店はパフェに力を入れているらしい。旬の桃を丸ごと使った涼しげな桃のパフェ、豪華で大胆に板チョコがそびえ立つチョコレートパフェ、自分でアイスを選べる定番のパフェ……。どれも美味しそうだ。

「葵はどうする? デザート……」

 言いかけて気がついた。いつもなら、メニューを手に取るのは葵の方が早い。私が先に開いたとしても、すぐに「それ美味しそう!」と食いついてくるはずだ。

 不思議に思って顔を上げる。

 葵は、メニューではなくて、私の瞳をまっすぐ見ていた。

「結婚するの」

 誰が? なんて、わざとらしく言うことはできなかった。




 葵に恋人ができたことは聞いていた。

 もちろんショックだったし辛かった。

 けれど笑って「おめでとう」と言えたのは、心の底のお皿に、二つの心が乗っていたからだ。失恋したからって、葵との友情まで捨てたくなかった。

 好きだけど、恋人にはなれない。

 好きだけど、友だちでいられる。

 悲観的になるより、私は後者を選んだ。

 自分の選択に納得していた。そう、思っていたはずなのに。

 パフェの写真が、じわりと歪む。気づけば、涙が頬を伝っていた。

「……みどりが、ずっと私を好きでいてくれたこと、気づいてたよ」

 少し低くて落ち着いた声で、葵が言う。

「応えてあげられなくてごめん。突き放すこともできなくて、本当にごめん」

 謝らないでよ、言いたいのに、声が出てこない。

 体中が、悲しいだけの涙に沈んでしまう。

 大事にしていたお皿も、ぷかぷか浮かんでさらわれていく。そこに乗せていた素敵なものは、どこへ行ったのだろう。

 暗い心のまんなかに、ぽつんと赤い光が見えた。どんなに濡れても消えない灯り。きらきら綺麗な飴細工。

 私はまだ、こんなにも、葵のことが好きだった。




 差し出されたハンカチを受け取って、それでもまだ涙は止まらなかった。

「デザート、いい?」

 この状況で? 思う間もなく葵が立ち上がる。

 私の後ろに立った葵は、そっと髪に触れた。

 私はその感触を知っている。思い出されるのは、べっこう飴みたいな甘い琥珀色だ。

 はっとした。

 髪をすいている感覚がある。

「一人から一回しか食べられないっていうのは嘘なんだ。そうしとかないと、何度も頼られて、面倒くさいことになったりするから」

 髪を引かれる感覚が重くなる。反対に、心は少し、軽くなる。軽くなってしまう。

「嫌、待って!」

「悲しみは、ハイカロリーなんだよ。つまり腹持ちがいいってこと」

 髪を引く力はどんどん重くなる。

「悲しみなんてさ、いつまでも持っていてほしくない。私は、みどりの笑った顔が好きだから」

 好き……。そこに恋は含まれていないことが、顔をみなくたってよくわかる。

 飴細工が砕け散る。欠片が雨のように降り注ぐ。輝いて美しいその向こうに、一つ、小さいけれど素朴で可愛らしい飴の包みが落ちている。私はそれを拾い上げた。これはたぶん、葵も持っているもの。だから私も大事にしたい。捨てることなんて、できない。

 ああ、悲しい。

「私、葵が好き。恋人ができたって、一番、仲がいいのは私なんだって、そんなこと思ってた」

「うん」

「振り向いてもらえないのなんて、ずっと前からわかりきってたのに。心に大嘘をついて、一緒にいることを選んだのに」

「ごめん」

「葵、悲しいよ。すごく悲しい」

 べっ甲の櫛が、私の髪を三度すいた。




 視界がクリアになっていた。

 少し離れた席のカップルが、こちらをちらちら見ていることに気づいて恥ずかしくなる。葵が貸してくれたハンカチはびしょ濡れだから、後で洗って返さなきゃ。

「ありがとう、もう大丈夫」

 熱いお湯に長時間つかった後みたいに疲れていた。

 私はもう、悲しくはなかった。

「どんな味だった?」

「これが近いかな。なんだかとても透き通ったような、綺麗な味だったよ」

 肩越しに伸びてきた人差し指が、桃のパフェを差した。透き通った綺麗な味って、どんなものだろう。私には想像もつかない。

「……ねえ、恋心も食べられるの?」

 ふと思う。

 それはどんな味がするんだろう。

「うん。恋愛『感情』だからね……食べる?」

「いや、だめ! ちゃんと自分で忘れるから!」

 そう、と小さく笑った吐息が、うなじをくすぐる。しく、と小さく胸が痛んだ。それだけだった。

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