四、感情のお味

四、感情のお味




 川村さんが、止めた手を再び動かしはじめた。優しく撫でるように、髪がすかれていく。

「うまくいかないよね。よくあるよくある」

「ご、めん……」

「気にしないで。ゆっくりでいいから、まずは涙を止めようか」

 私だったら、初対面の相手にこんな風に泣かれたらうろたえてしまうな。

 無理やりそんなことを考えてみたら、徐々に涙は引いていった。

「言葉にするとやりやすいみたいだよ」

「言葉に……」

 自分の中にうずまく感情を、みつめる。薄目で見ても嫌になるくらい、どろどろで汚い。

 それを言葉にするのは抵抗がある。汚くて醜いものが形になってしまうのが怖い。はっきりとした形を認めてしまったら、それは、消えてくれなくなるんじゃないか、と。

「大丈夫」

 私の心を読んだのかと思うタイミングで、川村さんがきっぱりと言う。

「私、口は固いから。絶対に他で言ったりしないよ」

「そ、そっか」

 隣の席の友人のことを思い出した。晴れ晴れとした表情は、確かに悲しみなど忘れ去っていた。まっすぐ顔を上げて前を向く横顔は、まぶしかった。

 私も、そうなりたい。なれたら、いいな。

「……好きな人がいたの。その子は幼なじみで、女の子なんだけど」

 彼女に彼氏ができた。友だちとして見守ろるつもりだった。でも、辛かった。だから告白した。ちゃんと振られて前に進もうって。でも、やっぱり辛い。

 彼女に好かれる男の子が羨ましい。私じゃだめなことが悔しい。たぶんもう、前みたいな二人には戻れないことが悲しい。彼女のせいじゃない。私が、もうそうしたくないと思っていることが、すごく悲しい。

「うん、いい感じ」

 櫛の感覚が少し重くなって、髪の毛が引っ張られるような感覚になった。

 すぐに、呼吸が楽になってくる。私たちの周りだけ空気が綺麗になったみたいだ。

「いただきます」

 平坦な、でも少しだけわくわくを隠しているような、声がした。




 ほんの一瞬だけ眠っていたような気がする。はっとして振り返ると、川村さんがぺろりと唇を舐めているのが見えた。

 気づけば、心の中の大鍋はからっぽで、私はもう、悲しくはなかった。

「ごちそうさま。これで終わり」

「すごい、楽になった……」

「よかった」

「ごめんね」

 あの汚くて醜い感情を食べさせてしまって。

 きょとんとしている川村さんの視線から逃げて、私は再び前を向いた。

「嫌な感情ばっかりで、ごめんなさい……」

 少しの間があって、それから、うなじにそよ風が吹いた。川村さんが、小さく笑ったようだった。

「悲しみは、ハイカロリーなの」

「へ?」

「お菓子って、ハイカロリーな方が美味しいじゃない? 悲しみはね、濃厚で甘くて、高級なバニラアイスみたいな味なんだ」

 つまりすごく美味しい。

 そんな風に言われても、やっぱり腑に落ちない。

「山田さんの感情はね、少しひんやりしてて、甘い味と香りがメインだったよ。その香りがすっごくよくて。ただ甘いだけだと飽きちゃうじゃん? 香りのおかげで、飽きずに何口でもいけるっていうか」

 なにを聞かされているんだっけ?

 曖昧な相づちすらできないでいる私に構わず、川村さんは続ける。

「そこにぱちぱちするキャンディみたいなものが乗ってて、すごくいいアクセントになってるの。さらにチョコレートって感じの苦さとこくがあって、うまく甘さと絡み合って」

 だからね、そう言って、川村さんは一つ呼吸をした。

「すごく複雑な味だった。山田さん、辛かったね」

 もう大丈夫と思ったはずなのに、瞳の奥がきゅっと熱を持つ。

「辛かったよね。でも、ごめんね、私には、とっても美味しかった」

 声が弾んでいる。川村さんは、本当に美味しいと思っているんだ。私には、嫌なものとしか思えなかったあの感情の群れを。

 悲しみとは違うなにかが、ぐっと心臓を掴んだような気がした。

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