第30話 ある家族の記憶

 翌朝。アリスは目を覚まし身を起こした。


「体が痛い……」


 昨日はウィリアムが退室後ソファで泣き続け、いつの間にかその場で眠っていたのだ。

 アリスは痛む肩をぐるぐると回してほぐすと、鏡の前に立った。


「ひどい顔ね」


 鏡に映るのは見慣れない顔だった。目の周りが赤く腫れている。アリスは今まで生きていて、昨日ほど泣いた日はなかった。

 この顔を誰にも見せたくない。こんな日は部屋に引きこもっていたいが、書斎で子供たちが待っている。アリスは朝食を断り身支度を済ませた。そして部屋を出る直前まで目元を濡らしたハンカチで冷やし続けた。


「おはようございます。アリス奥様」

「おはよう、ピエールさん」


 書斎に着いたアリスは節目がちにピエールや子供たちに挨拶した。冷やして少しはマシになったものの、昨日泣いたのは一目瞭然だったからだ。

 その努力も虚しく、ピエールの視線がアリスに突き刺さる。


「ウィリアム様と何かあったのですか?」

「黙秘するわ」


 アリスがそっぽを向いて返事すると、ピエールがふうと息を吐いた。


「大方、避妊薬でも飲まされかけましたか?」

「なんでわかったの?」


 アリスは腫れた目を無理やり見開き、食い入るようにピエールの顔を覗き込んだ。迫力がありすぎたのか、彼は圧倒され一歩後ろに下がる。


我が王ファハド様が『ウィリアムはアリスの妊娠を恐れて薬を作るかもしれない』と仰っておりました」

「そう。けど私は嫌。一体どうしたらウィルを説得できるのかしら」


 アリスが宙を見つめ呟く。ウィリアムの気持ちは理解できたが、やはりこちらにも譲れない思いがあるのだ。正反対の意見をどう変えられるのか。何と言えばいいのか。アリスにはわからなかった。


「アリス奥様、私にお任せいただけないでしょうか?」

「え?」


 ピエールの言葉に、アリスは首を傾げた。彼が夫を説得してくれるのだろうか? さすがに夫婦のことを任せるのは申し訳ない。それに彼がファハドの命令だと言ってウィリアムに強制してしまうことも考えられる。

 アリスの不安が顔に出ていたのか、ピエールは「ご安心ください」と微笑した。


「ウィリアム様に無理強いするようなことはいたしません」

「ピエールさん……」

「本来であればご夫婦にお任せすることですが、あの方も頑固なところがありますから……。昼食の時にウィリアム様と話しましょう」

「はい、お願いします!」


 アリスはしっかりと頷き、ピエールに礼を言った。


 昼食の時間。アリスが子供たちとテーブルを囲んでいると、書斎のドアが開いた。


「ア、アリス……」


 入り口にはローブ姿のウィリアムが立っていた。ピエールに連れられてきた彼は、その場で立ったまま指先を捏ねながらもじもじしている。既視感がある光景だった。


「ウィル、一緒に食事しましょう」


 アリスはウィリアムを呼び手招きした。

 すると彼は「うん!」と言って背筋を伸ばし、ローブを脱ぎ席についた。


「「いただきまーす!」」


 子供たちと一緒に挨拶をして食事をはじめる。

 途中、隣に座ってるウィリアムがニコニコと目を細めてアリスの方を向いた。


「アリス、食事に呼んでくれたってことは、僕の意見に同意してくれたってこと?」

「いいえ。それは違うわ」


 アリスが首を横に振ると、たちまちにウィリアムの表情が曇る。彼は俯いて黙り込んでしまった。

 困ったアリスはピエールに視線を送った。彼は顎を引き、自分の隣に座る子供に話しかけた。


「ルアン。君のお父様とお母様の話をしてくれますか?」


 ルアンと呼ばれた男の子は「うん!」元気よく頷いた。彼は子供たちの中では最年長の五歳。母はメイドのサーシャだ。


「父ちゃんは、俺が赤ちゃんの頃に病気で死んじゃったんだ。母ちゃんはこの屋敷で元気に働いてる!」

「まあ、お父様を……」


 アリスはルアンを気の毒に思い、眉根を寄せた。ピエールはなぜ彼の悲しい記憶を呼び起こそうとしているのだろう。もういい、止めてあげなくては。そう思い息を吸ったところで、ピエールは再びルアンに声をかけた。


「お父様がいなくて、寂しくはないですか?」

「うーん。父ちゃんのこと、覚えてないからわかんないや」

「そうですか。ではお母様はなんと?」


 ピエールの問いかけで、アリスはこの会話の意味がわかった。彼はアリスが子供を望んでいる理由に気づいていたのだ。

 アリスは横目でウィリアムを見る。彼は黙っていたが興味深そうに、わずかに身を乗り出してルアンの言葉を待っていた。


「母ちゃんは『父ちゃんが死んで悲しかったけど、俺がいるから寂しくはない』って言ってた!」

「素敵なお母様ですね。ありがとうございます、ルアン」


 それからはいつも通りに賑やかな食事が終わり、子供達は昼寝を始めた。

 ウィリアムはルアンの話を聞いた後も黙ったままだった。何かを考え込んでいるようだった。食事が終わってからもソファに座ってどこか一点を見つめ、唇を結んでいる。


「ウィル……」


 アリスはウィリアムの隣に座り、膝の上にあった彼の手に自分の手を重ねた。ウィリアムはこちらを向きこそしたが、悩ましい表情を浮かべ返事はなかった。


「ウィリアム様、先ほどのルアンの話を聞いてどう思われましたか?」


 ピエールが問いかけた。ウィリアムは顔を上げ、それからアリスを見つめ、言葉を紡ごうと静かに口を開いた。


>>続く

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