第29話 初めての夫婦喧嘩

 アリスはあまりの驚きに返事ができなかった。薬を勧める夫の笑顔が恐ろしかった。


「アリス、どうしたの?」


 ウィリアムがアリスに手を伸ばす。恐怖と困惑で訳がわからなくなっているアリスは、彼を拒絶して顔と体を背けた。その拍子に手に持っていた避妊薬の瓶を落とす。


「あっ!」


 ガラスでできていた瓶はテーブルの角に当たって割れ、地面に落ちた。黄色い中身の液体が絨毯にじわりと広がる。


「あ、落ちちゃった。アリス、怪我はない?」

「ええ、平気よ。ごめんなさい私、驚いてしまって……」

「ううん」


 ウィリアムが床を掃除する。アリスには柔和な笑顔を浮かべ「怪我がなくてよかった」と言う彼のことがわからなかった。先ほど恐ろしいことを口走っていたはずなのに。その表情はずいぶんと優しかった。


「さあ、終わったよ。けど薬はこれしか無かったんだ……。また明日作るから今日はもう寝ようか?」

「ちょっと待って、ウィル」


 アリスは引っ張られた手に力を込めてウィリアムを引き止めた。彼は「どうしたの?」と首を傾げている。


「座って。話がしたいわ」

「わかった」


 ウィリアムが隣に座った。アリスは握られた手を握り返し、意を決して問いかける。


「ウィル、どうして避妊薬なんか用意したの?」

「どうしてって、アリスに妊娠してほしくないからだよ。アリスこそ、どうしてそんなことを聞くの?」


 アリスは顔をこわばらせた。それほど夫の返事がショックだった。かなり変わった出会い方だったが愛し合って結婚し、いつかは家族が増えていくものだと思っていた。しかし彼の思いは違ったのだ。当たり前かのように話すウィリアムの言葉に、アリスは身を抉られるような痛みを覚えた。


「どうしてって……あなたの子供がほしいからに決まってるじゃない。ウィルは違うの?」


 アリスはエメラルドの瞳に涙をいっぱい溜めてウィリアムを見つめた。

 彼は一瞬ためらうように視線を泳がせ、苦々しい表情でアリスから目を逸らす。


「僕は……いらない」


「そんなっ」と言ったところで、溜め込んでいた涙をボロボロと流すアリス。自分から顔を背けている夫の腕に縋りつき、声を詰まらせながら訴えかけた。


「どうして? どうしてなの、ウィル。あんな薬作ってくる前にちゃんと説明してよ。私、納得できないっ!」

「だって……アリスが、死じゃうかもしれないから」


 ウィリアムがベソをかきながら呟いた。蜂蜜色の瞳は先ほどのアリス同様涙が溜まって揺れている。

 アリスは彼の生い立ちを思い出した。ウィリアムの母は彼を産んだ直後に亡くなっているのだ。そのことがトラウマとなって妊娠を避けいるのか。やっと彼の考えが腑に落ちた。


「ウィル、あなたのお母様のことがあったからね?」


 アリスはウィリアムの頬を撫でた。彼が黙って肯首したので、今度さらに手を伸ばし艶のある黒髪を撫でる。


「ねえ、ウィル……。私は家族を亡くしたことはなかったけど、病弱な弟を見ていたし、不安な気持ちはわかるつもりよ」

「だったら、子供は諦めてくれる?」


 目元と鼻の頭を赤らめるウィリアム。

 彼を不安にさせたくない。そう思いながらもアリスは首を横に振った。


「諦めない。あなたとの子供が欲しいわ。それに私、生まれてから今まで病気をしたことがないの。とても頑丈なのよ。だから安心して——」

「無理だよっ!」


 強い否定の言葉とともに、ウィリアムが立ち上がった。両手を握り締め肩を震わせている。アリスは咄嗟に手を伸ばそうとするが、それより早く彼が動いた。


「ごめん。僕、今日は仕事場で寝ることにする」

「ウィル、待って!」


 アリスの呼びかけには応えず、ウィリアムは寝室を出ていった——。


>>続く

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