第3話 アリスはすでに、絆されている
「さあて。水を差すようで悪いが、ふたりともこの書類にサインしてくれ」
「なんでしょう、兄さん?」
アリスがウィリアムと見つめ合っているとファハドはニヤニヤと笑いながら書類をひらめかせていた。
彼の思惑通りになったことやウィリアムに見惚れていたこと、その一部始終を見られていた羞恥心が押し寄せ、アリスは視線を落とした。
ウィリアムは兄から書類を受け取る。彼が「ああ」といって頷いていたのでアリスは顔を上げ、書類を覗き込んだ。
「婚姻申込書?」
「アラービヤでは婚姻はまず領主に申し込みをして、受理されたら
ファハドの説明に、自分の新たな結婚相手が本当に領主だったのかと驚くアリス。当の本人は婚姻申込書をアリスに見せながら頬を染めている。
「アリス……サイン、してくれるかな?」
アリスはふっと息を吐きながら口角を上げた。不安げに揺れる蜂蜜色の瞳がかわいらしく思えてしまったからだ。ウィリアムから書類を受け取り、さらさらと自分の名前を書き記す。
「はい、どうぞ!」
アリスが書き終えた書類をウィリアムに手渡すと、彼は「ありがとう」とにっこり微笑みながらそれを受け取った。万年筆を手に取ってアリスの名前の隣に、自分の名を並べて書いた。
「ウィリアム・サウード……っていうのね」
ウィリアムの肩がびくりと跳ねる。アリスが彼の背後から書類を覗いて呟いたためだ。
「ご、ごめん。僕、名前もちゃんと名乗ってなかったんだ。改めて、ウィリアム・サウードです」
アリスは右手をウィリアムの前に差し出し、微笑みかけた。
「知ってると思うけど私はアリス・ヴェンダー」
「僕のことはウィルと呼んで……よろしくお願いします」
アリスの右手がぎゅっと握られた。ウィルとふたり、顔を見合わせて笑い合う。
「よろしく、ウィル。私はもうすぐアリス・サウードかしら?」
アリスが首を傾げる。そのタイミングでファハドがウィリアムの手から書類を受け取り、口の端を吊り上げる。
「準備含めて式までは一ヶ月ってところだな。とりあえず俺は明日王宮にこれを提出してくる。まあまだ夜だし、今日のところはみんな休もう」
ファハドがあくびをしている。
そうだ、とアリスは慌てて彼に問いかけた。
「あの、私が攫われてから一体どれほど時間が経ったのでしょうか? 実はあのとき一週間後に結婚式を控えていて……」
自分の話はまとまりつつあるが、家族たちはどうなったか。行方不明になってしまった自分を探して奔走しているのではないかなど、アリスは心配になった。
「あれから、もうすぐ丸二日ってところだな。なんと言っても三国抜けないといけなかたからな。途中何度か馬車も替えないといけなかったし急ぎすぎて事故にでもあったら大変だ。ラウリンゼを出るまで数時間。出てから丸一日かけてアラービヤに到着。それから半日くらい経って今の時間だ」
「二日……そうですか」
アリスは唇に指を押し当て俯いた。勝手に一日以上家を空けたことなど今まで一度もなかった。家族や宿屋はどうなってるだろう。
その心配を見抜いたのか、ファハドがアリスの肩を静かに叩いた。
「外泊なんてしたことなさそうだもんな。どのみち夜は動けない。なんとかするから今日はもう休みなさい」
「はい……」
「ウィリアム、お前もだぞ。アリスが目覚めるまでずっと眠気覚ましを飲んで起きていただろう? 今日こそ休まないと身体を壊すぞ」
ファハドはアリスの肩に置いていた手をウィリアムの頭の上に移した。ぽんぽんと叩くとウィリアムが「兄さん、恥ずかしいから!」と言って顔を真っ赤にして頭を揺らす。
「ま、そういうことだからまた明日な。おやすみ」
ファハドはアリスとウィリアムに手を振って、書類を手に部屋を出ていった。
一気に部屋の中は静まり返り、アリスは改めてウィリアムに身体を向ける。
「ウィル、丸二日……ずっと起きていてくれたの?」
「うん。勝手に攫ってきてしまったし、せめて目が覚めたときそばにいられればと思って……」
照れくさそうにウィリアムがはにかんだ。アリスは彼の方手を取り、両手で優しく包み込む。
「正直恐ろしかったし不気味だったけど……気持ちは嬉しいわ。ありがとう、ウィル」
「アリス……っ」
ウィリアムはもう片方の手も寄せて、その場でポロポロと流して泣きはじめた。
「ちょっとウィル、どうしたの? 急に泣かないでちょうだい〜」
突然のことにアリスも戸惑い、困り顔でウィリアムの顔を覗き込んだ。
「だ、だって、まさか結婚を承諾してくれるとも、こんなふうに、ありがとうだなんて言われるとも、思ってなくて……」
「じゃあどういうつもりで「攫い婚」だなんて大それたことしたのよ」
「それは……ううっ……」
アリスは目いっぱい眉尻を下げ、苦笑した。大胆なのか小心なのか、ウィルという人間は不思議だと思った。
「さあ、今日はもう休んでちょうだい。私もまだ体が少しだるいから眠らせてもらうわね」
「あ、あのアリス……」
「なあに?」
アリスがもう一度眠るべく枕などを整えていると、ソファから手に取ったローブを着たウィリアムが傍に戻ってきた。
「今日、この部屋のソファで寝てもいい?」
「いいけど、狭いんじゃない?」
袖から出ている指先がまたもじもじしている。アリスは本当に不思議な人だと彼に気づかれない程度の笑みを浮かべた。
「へ、平気だから……お願い」
「わかったわ。それじゃあおやすみ、ウィル」
「ありがとう。おやすみアリス」
次の朝。アリスが目覚めると、ソファにいるはずのウィリアムが傍の椅子に座っていた。彼はアリスが眠るベッドに上体だけ倒れ込むような形で眠っている。ローブのフードはかぶっていないので艶やかな黒髪が目に入った。
「ん……ウィル?」
「ア、アリス……おはよう」
ウィリアムは身体を起こし、寝ぼけつつ柔らかな笑みをアリスに向けた。
「おはよう」
アリスが挨拶を返すと、意識がはっきりしてきたのかウィリアムは慌てて椅子から飛び跳ねた。その拍子によろめいて床に尻餅をつく。
「だ、大丈夫、ウィル?」
「いてて……。僕は大丈夫」
アリスもウィリアムを助けようと急いで上体を起こしベッドを出ようとする。
そのとき、部屋のドアが開いた。
「おはよう、ふたりとも! ん、何してるんだ?」
「「…………」」
あまりのタイミングの悪さに、アリスとウィリアムは無言でファハドを見つめた。にやけるアリスに今にも泣き出しそうなウィリアム。ふたりの表情は対照的だった。
「じゃあ、俺はこれから王宮に行く。申込書が受理されたらだから明日には戻る。アリスはそれまでにご両親に結婚に承諾したって内容で手紙を書いておいてくれないか? それと支度金を持って俺はもう一度君の実家に行ってくるよ」
ファハドはテーブルの上に
「どうした、アリス?」
「あの……私も実家に連れていってください!」
わずかに眉を上げ首を傾げるファハド。アリスは明瞭な声で彼の漆黒の両眼を見据え願った。
>>続く
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