九鬼くんは神木さんに勝てない

羽間慧

第1話 大人になってやりたいこと

 鬼に優しくする昔話は、すぐに思いつきそうにない。誰もが鬼の見た目を怖がり、盗まれたことを憎む。名字に鬼の字があったことで、よかったと思えたことなんてなかった。


九鬼くきってぶきみだよな」


 教室に入りかけたぼくの手が止まる。耳にこびりついた音は、泥にのまれたように深く沈み込んでいった。


 声の主は、クラスを仕切る鮫島さめじま航平こうへいだ。今年のクラス替えで初めて顔を合わすようになったけれど、お互いに距離を取っていた。鮫島くんは物静かなぼくが気に入らないみたい。ぼくは鮫島くんの騒ぐ声が苦手だった。


 鮫島くんは大きな声で話を続ける。


「だって、あいつ今にも死にそうな顔しているんだぜ? 体育のときもフラフラだしさ。今日からおれらのパシリにして、体力をつけさせてやろうかな。こき使っただけ、九鬼の足が鍛えられるだろ。おれって天才じゃね?」

「航平、言いすぎじゃない?」

「気持ちは分かるけどさ。九鬼がかわいそうだよ。倒れちゃうって」


 取り巻きの男子も笑っていた。


 ぼくは大きく息を吸う。何も聞いていないふりをして、おはようと言いながら教室に入る。席に着くまでにあいさつを返してくれた人は誰もいなかった。みんなの視線は全部、鮫島くんに集まっていた。


「やべっ。聞かれたかな?」

「聞こえていても怒らないってことは、だいじょうぶなんじゃないの?」

「いや。航平の声、けっこう大きかったよ」


 そういうの、ひそひそ声で話してよ。


 ぼくは文庫本で顔を隠した。タイムリミットは四十八。それまでの間、ずっとはれものみたいに見られてしまうのかな。


 十本のバースデーケーキのロウソクを空しく消した次の日も、ぼくの気持ちはブルーになる。未来を見通す力がなかったら、自分が死ぬ年を知らずにすんだのに。幼稚園に入る前から、命の終わる感覚を知ってしまった。不安になって泣き出しても、誰も分かってくれない。「やけに現実的な歳を出すのね」と母さんは笑った。ぼくは笑かせようと思って話したつもりはない。母さんより先に死ぬことが苦しくなった。ぼくが小さかったときに、父さんと離婚している。ぼくがいなくなったら、母さんは何を生きがいにすればいい?


 いろいろと考えた結果、ぼくに特別な力があることはナイショにした。その日をさかいに、だれにも言えないモヤモヤをもつようになった。


 子どもの夢を守りましょうなんて大人はよく言うけれど、夢から覚めてしまった子どもは純粋なふりをした方がいいの? 本当の気持ちにフタをしたままでいるのはつらいことを、分かっているのかな?

 未来が明るいすばらしいものだって、本当に百パーセント言い切ることができるのが不思議だった。担任の鶴野先生のことは好きだけど、きらきらとした目が怖かった。一時間目から逃げ出したくなった。


「今日は作文を書きますよ。テーマは、大人になってやりたいことです」

「おれは野球選手になりたい!」


 鮫島くんの弾んだ声が響く。

 もしも、ぼくが野球選手になって高い年俸をもらった場合、セカンドライフはわずかだ。四十歳までプレーできたとしても、八年しか生きられない。親孝行できる時間が足りなすぎる。

 ぼくは鉛筆を走らせた。


 ぼくが大人になってやりたいことは、身の回りの整理です。死んだ後に迷惑がかからないよう、必要なものをきちんと見極めていきたいです。


 書き終わってしまった文章を、すぐに消しゴムで消した。こんなどんよりとした調子で、四百字も書ける気がしない。

 ぼくは書いては消し、書いては消しを繰り返した。残り五分と言われたとき、鉛筆のあとが牛の模様みたいになっていた。


 どうしよう。提出してもいい内容が、何も思い浮かばない。


 白紙で出せば、昼休みに鶴野先生の呼び出しをくらう。心配そうにぼくを見つめる様子が浮かぶ。


 だから、いつわりの夢を作る。いい子のふりをする。


 授業が終わった後で、ぼくは伸びをした。本音で語れる場所がほしい。

 一時間目で疲れ果てたぼくを、隣の神木かみきさんが見つめていた。


「九鬼。どうかしたのか? 顔色が悪いぞ」

「いつもどおりだよ」


 まだぼくは死なない。死ぬ未来の光景は、見えていなかった。


「無理をするな。つらいときは泣きわめけ」


 神木さんは真顔で言った。


 優しい子なのか、言葉のセンスが独特なのか分からない。あいづちに困ったぼくは、当たりさわりのない返事をした。


「神木さん、すごいね」

「敬え。讃えるがよい」

「おい、神木。九鬼にからむなよ」


 会話に割り込んだ鮫島くんを、神木さんはあごで追いやる。


「貴様を召喚したつもりはないのだが」


 神木さん、怖いもの知らずだ。お前と呼ばれた鮫島くんはめちゃくちゃ手に負えなくなるのに、貴様呼ばわりするなんて。


 ぼくの頬は引きつった。鮫島くんの顔が真っ赤になる。


「おれは神木の召喚獣か!」

「そんなもの、こっちから願い下げだ。何でもかんでも噛みついて、愚かとしか言いようがない」


 神木さんは中指を立てた。


「だめだよ、挑発しちゃ」


 ぼくは勇気を出して間に入る。神木さんは小さく鼻を鳴らした。


「わたしは才媛だから許されるのだ」

「菜園? ナスでも植えるのか?」


 誤解した鮫島くんが不憫だ。ぼくは神木さんの代わりに説明する。


「漢字が違うよ。先週の漢字プリントで、愛媛って十回書いたでしょ。神木さんは、プリントの端に、賢い女性という意味の熟語も書いていたんだ。よく調べているねって先生が褒めていたでしょ?」

「はぁ? みんなに合わせろよ。天才気取りか」


 神木さんは微笑んだ。


「神木なぎさ。そう遠くない未来で、皆に英知を分け与える者だ。今のうちに、せいぜいゴマをすっておけ」


 ぼくは耳を押さえる。激しく点滅するフラッシュの音がした。


 ――神木先生、新薬ができたときの感想をお聞かせください。


 たくさんのシャッターの音で、記者会見だと分かる。テレビを見ているかのようなリアルな光景は、現実になる可能性が高かった。ぼくは神木さんに頭を下げる。


「未来の大先生とお知り合いになれて嬉しいです」

「ふふん。喜べ喜べ。われに平伏するのだ」

「おい、九鬼! こいつの冗談に付き合うな! 時間の無駄だぞ!」


 鮫島くんは信じていないけれど、見えてしまった未来は変えられない。ぼくは未来予知と未来確定ができるのだから。今日の授業でぼくは指名されない。体育はけがをする。そんな情報が朝の歯磨きで見えていた。

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