イルマタルは館を脱走し、夜のトリドを歩く。
さて続き書くか、と思った時、コンコン、とノック音が響いた。
書いたものを引き出しに入れて、どうぞ、と告げる。
「失礼します」
入ってきたのはメアリーさんだ。
褐色の肌に、真っ直ぐな黒い髪をシニョンにまとめたメアリーさんは、フリルのついたヘッドドレスを被り、黒いドレスに白いエプロンを身につけている。このディアス家のメイドさんだ。
火の国の人に多い容姿なのに、同じ容姿の使用人の中でも、彼女の立ち姿はなぜか目を奪われる。みんな同じ服を着ているのに、なぜか彼女だけが、太陽の光に照らされたかのように輝かしい。
メアリーさんは体幹がしっかりとしていて、肩幅も広い。間違いなく戦闘職か、以前は戦闘職だった人だ。警備員の勘。
「イルマタル様。今晩、アマド様がお帰りになられるようです」
「あー……そう、なんですね」
彼のことをなんと呼べばいいのかわからなくて、言葉を濁した。うっかり自分の夫をフルネームで呼びそうになる。
メアリーさんは真顔でじっと私を見つめていた。怪しまれているな、これ。そりゃそうだ。氷の国からの嫁入りって、今でもスパイなんかじゃないかって疑われがちだし。戦闘職についていたなら、なおさらスパイを疑うだろう。電撃結婚にもほどがあるし。
早く、夫と少しでも距離を詰めねば。
とりあえず今日彼と話す内容は、呼び方だな。
ヘイ、帰ってこない。
帰ってくると言われたので、そのために心の準備とかしてたのに、結構ショックを受けるぞ。メアリーさん曰く、「トラブルが起きたようです。今日は戻られないかもしれません」とのことだった。ドタキャンは結構辛いんだ私は。幼い頃は悲しさのあまり、家出をするぐらいだったんだぞ。
大きな窓を開けると、昼の陽射しが残ったような風が、部屋に入り込んできた。
昼は目を差すほど眩しかった白い家の壁も、薄暗くなった空の下では、カナリア色の灯りに染まっている。
ギターの音と、踏み鳴らす音、軽快な手拍子の音が聴こえてくる。人の笑い声も聞こえてきた。
……海鮮を焼いた匂いや、アルコールの匂いもする。その香ばしい香りに、ごくり、と喉を鳴らした。
今、私はとても悲しい。
けれど、自分の機嫌は自分でとってこそ。よって私は、――この館から脱走することにする。私は下界におりて、酒を飲み、自分の心を癒すのだ。
そうと決まれば、まずは変装しよう。クローゼットから服とカツラを取り出す。
ここら辺で着られている女の子のドレスを着て、鏡の前に立った。
肩までに切りそろえられた、ハシバミ色の髪はボサボサ。鏡に映った水色の目は大きく、我ながら子どもみたいな顔だと思う。もっとキリッとした顔に生まれたかった。
……まあ、性格も子どもじみているのは、自覚あるけど。性格が大人なら、ドタキャンに拗ねて家を飛び出すなんてないだろうし。
ある程度髪をとかしてから、真っ黒な色のカツラを被り、口紅を塗る。うん。これで別人に見えるだろう。
ふわりと回ると、バラの花弁のように、フリルを沢山使ったピンクのドレスが広がった。丈が長いのが気になる。私ロングスカート着ると確実に裾を踏むんだよね。気をつけなきゃ。
足を大きく広げて、窓の縁を踏む。そのまま、日が沈んだ町に飛び降りた。
■
火の国トリド。
古い言葉で『猛暑』を意味するこの都市は、その暑さを避けるため、夜に活動する。だからレストランは、日がとっぷり暮れてから開店するらしい。
朝から開店するのは『バル』と呼ばれる、カフェとバー、食堂と小売店がくっついたお店だそうだ。火の国じゃこのバルが多いらしい。火の国の人たちは、このバルを社交場にするんだとか。
テラス席に座るおじさんたちが、串刺しの料理を食べながら、大きな笑い声を立ててビールを飲んでいる。思わず私は、笑ってしまった。楽しそうなお酒だ。
歩いていると、屋台に売っている揚げ物が食べたくなった。
「すみません! これ、二つ。それから、サングリア!」
私が声をかけると、屋台にいる十五歳ぐらいの男の子が、はいよ、と返す。
「どうぞ、
ウインクをする男の子の言葉に、私は引きつった笑みを浮かべるしかない。多分君より歳上、私……。お酒飲めないお嬢さんに見えてるのかよ……。
買ったあと、私はさっき通った道を戻る。テラス席に座った女性を見つけて、声をかけた。
「はい、メアリーさん!」
イカの揚げ物とジュースを渡すと、変装用なんだろう、眼鏡をかけたメアリーさんは目を丸くした。
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