第三話 『霊魂監獄のアリス』 その6


 翼が羽ばたき、光をはなつ羽毛が雪のように舞う。アリス・レゾネイは夜空へと浮上していった。


 逆転した重力は、心地良い浮遊感を与えてくれる。まるで天に召されていくようで、聖なる死の気配に包まれる瞬間をアリスは愛せた。


『死ぬことは、こ、怖くありませんよ。これ以上の救いは、ないんですから』


 燃える月に照らされた赤い工場の群れが、今では遠くなった地上に立ち並んでいる。父親のことを思い出した。かつては彼も工場で働いていたのに……。


 幾度となく父親に汚されてしまった身体を、天使は夜空で震わせた。


『つ、罪深い、ことです』


 死者の『記憶』が、殺人鬼の『人格』が、植え付けられた『兵器』としての特質が、アリスの中で混ざり合っていく。


 凌辱の記憶が痛みを与え、痛みが怒りを呼んで、怒りは殺意と結びつく。


 夜毎に自分を襲うようになった頃の父親は嫌いだ。それでも、過去の父親は今でも愛している。だからこそ、聖なる音楽を奏でられる『楽器』にしてあげたくなった。


 聖なる形にしてあげることで、救ってやりたいのだ。おぞましい罪悪の道から助け出して、かつての敬虔な信仰心に律された、あの教会に相応しい正しい父親へと戻してあげたかった。『楽器』にしてあげれば、そうなる。音楽が響き、君臨しているあの場所に……。


 怒りだけでもなく、憎しみだけでもない。


 愛情もあったし、さみしさもあった。


 現在は大嫌いだが、過去に戻りたくもあるくせに……。


 未来へのほのかな希望があって、自分の存在そのものを消し去ってしまいたい。


 ……多感な『普通の少女』らしく、アリスの内面は迷宮のように複雑だっただけのこと。だからこそ壊れて、殺人鬼という表現を選ばされたに過ぎない。


 誰もが持つ殺意。


 怒りでも、憎しみでも、愛情でも、独占欲でも、善の感情からでも。


 殺意は生まれた。


 兵器化された彼女の脳内にはターゲットが表示されている。『有効な生産拠点を発見』。


『て、敵の工場を奪い取る。正義を成すための武器を、つ、作るのです……神さま、私に力を貸してください』


 祈りのために組み合わされた小さな手。それを中心に、世界が歪んでいく。現実を改変するための過程であった。


 アリスの視界のなかには、無限に近い可能性が映っては消える。錆び臭い工場が消え去り、花畑が広がる光景が見えた。巨大な彗星が尾を曳きながら赤い夜空に青い彩りを加える。穢れなき小さな子供たちが、小さな羽で飛び回る姿も。


 あらゆる世界がありえた。


 壊されそうな地球が、機械仕掛けの神と奇跡の力を与えてくれている。


 あとは、何を選ぶのか。


『こ、この世界を殺すための力なら、どんなものでも見える……ここに、そ、存在すべきものを、形を、わ、私が呼び寄せて……選んであげるんです……』


 夕の推理は当たっていた。


 殺人鬼アリス・レゾネイが選んだ『凶器』は、『大砲』である。


 可能性にあふれ、無限に広がる世界線……彼女の指が、その一つだけを摘まみ上げた。


『こ、この世界を、ちゃんと殺してあげるための音楽を……せ、聖なる力を、下さい』


 現実は改変されていく。


 工場にあったあらゆる金属たちが一つに融け合った。機械も素材もお構いなしに、ただただ一つへと集まっていく。


 こうして大砲が現れた。工場の群れを呑み込んで、それらを踏み潰しながら。天を突く巨大な塔のように巨大で、白い大砲である……。


『ああ、すばらしい。大きな『楽器』ですね。こ、これなら雄々しい歌が奏でられます……でも。ちょっと大きすぎる。支えてあげないといけませんね。持ち運べるように、大きな体で……』


 アリスは再び世界を変える。


『う、海から……来てください。クジラさん……』


 たんに好きな動物だったからだ。シロナガスクジラ。地球で最も大きな生き物。


『サメさんにも、襲われることがない。誰にも、いじめられることがないの。人以外には、殺されないほど、強くて大きい……』


 海が生まれる。


 セルジリア・シティーの工場地帯の全てが、唐突に現れたこの海に沈んでいった。


 ……当然。


 アキマの運転する車も、海水に襲われることになる。


「なんだこりゃ⁉ み、水が……っ⁉」


 道路そのものが海へと変わっていくのだ。波打つ青がアスファルトも街路樹も呑み込む。工場もビルも何もかもを。急ブレーキを踏み込み、どうにか広がっていく海に頭から突っ込むことはなかったが……海の広がりは止まらない。


「くそ‼」


 舌打ちしながら、車を後退させる。海は追いかけてくる。どこまで下がっても、どこまでも……。


「町全体が、沈んじまうのかよ⁉」


「いや。大丈夫だ。まだ、それほどの力は彼女にはない―――」


『クオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ‼』


 遠くへと響く、クジラの歌だ。


 海に沈んだ工場群のはるかな高みに向けて、100メートルはありそうなクジラがジャンプする。


「なんだ、あれ……」


「シロナガスクジラという地球の動物だ。オリジナルよりも、ずっと大きいけれど」


「しろなが……⁉」


 シロナガスクジラが海へと落ちた。巨大な波が生まれた。アキマは叫びながら愛車を必死に後退させたが、逃げ切ることはできない。波に突き飛ばされるようにして、車体は仰向けにひっくり返された。


 天地が逆になった状況であったが、命は助かる。三体のポッドが彼らの周囲の重力を制御して、過度な衝撃が体にかからないようにしてくれた。


「護衛ちゃん……いや、ブリジット、助けてくれたのかい?」


「死なれたら、私の評価が下がる」


「良い子じゃないか……って、車に水が入って……これ、しょっぱいな」


「クジラは、海にいるもんでしょ」


「オレらの世界には、いねーよ、あんな白いバケモン―――」


 大砲が、火を吹いていた。


 ドオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン‼


 爆音が響く。横転した車が揺れるほどの大きさで。


「クジラの歌に応えたんだ。いっしょに、アリスも歌いたがってる」


 砲弾が街並みに達し、無数の建物を爆炎で破壊したのは、この直後だった。ブリジット・グレース少尉は、ニヤリと笑う。地球連邦軍からの命令が更新されていた。『観測世界の崩壊が加速。あらゆる兵器の使用を承認』。


「クソ『犯人』が、一線を越えた。あとは力で倒せばいい!」



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