第4話 もう遅い
ーーー征服歴1502年 プロストフェル王国東部 エルディンガー侯爵領領都 チャハティースーーー
戦勝を祝う祭りで賑わう城下町。
その歓楽街で最も高級な娼館には、客を持て成すためにレストランも併設されている。
そのバルコニー席は現在、一人の傭兵に貸し切られている。
溢れんばかりの金貨をばら撒き、この娼館一帯を貸し切りにして傭兵達の慰労会を開催している主催者は、目の前に座る客人が手土産として持ち込んだヴィーデ=ガスク連合王国産の蒸留酒の入ったグラスを掲げ、客人と杯を交わす。
そして一口、お互いにとって故郷の酒を飲む。
「…随分とお変わりになりわしたな、ウォーカー大尉」
「その名は棄てた。今の俺はベルだ」
「失礼いたしました、ベル殿」
ベルの対面に座った老紳士、かつて連合王国の戦場でベル━━かつてアレクサンダー・ウォーカーと呼ばれた男と共に戦った歴戦の老騎兵エバンス・フィデック准尉は、感情を消した顔で頭を下げる。
ベルは傷だらけの顔に気遣わしげな笑みを貼り付け、エバンスにこの場へ来た目的を尋ねる。
「それで、わざわざ海を越えてまで何故この国に来たんだ? その歳で長旅は体に悪いぞ?」
「我が主の命でございますれば。 この老い先短い爺の寿命など擲ってでも叶える所存でございます」
「なるほど。で、お前の主というのは先代のリガール辺境伯か?」
「いいえ」
エバンスはゆっくりと首を横に振る。
そして腹に力をこめ、自身の目の前に座る、
「我が主、エリカ・リガール様よりウォーカー大尉…申し訳ありません、ベル殿に伝言を言付かっております」
「…聞くだけ聞いてやる」
「ありがとうございます」
ベルの顔に貼り付けられていた笑みが剥がれ、その目と同じく生気の感じられない虚無が、その傷だらけな顔に浮かぶ。
エバンスは一度頭を下げ、挑むようにベルに誠意の籠もった目を向ける。
「『助けて欲しい』。エリカお嬢様のお言葉はただこの一言にございます」
「……………そうか」
ほんの一瞬だけ、エバンスの後ろにかつて共に戦い互いの命を救い合った銀髪の美女の姿を幻視した。
そして、思わず口をついた言葉に応える事がない事に忘れていたはずの痛みを感じて、その虚無な顔に苛立ちを浮かべ目を逸らす。
エバンスは先程までの、生きた屍人の如きベルの様子から考えられない、人間味のある反応に驚くが、辛うじて表情に出すのを堪える。
エバンスがベルを、2年前に姿を消した
混乱が続く時勢柄、手に入りにくい最高級の蒸留酒。
彼女が選んだのはそれだけ。金銀財宝も勲章も何もなかった。
そして頼まれた伝言も、”助けて欲しい“の一言のみ。
自身の苦境も、アレクが故郷を追われた時の謝罪も、彼が助けに来てくれたとした際の見返りさえ、何もない。ただの一言のみ。
ベルは一口、手土産の蒸留酒を飲む。
喉を焼く強い酒精、鼻を抜ける芳醇な香り。
それは確かに故郷を思わせる味であり、そしてこの酒を信頼する部下に預けたエリカが、ベルですら忘れていた約束を果たしたという証左だった。
『ありがとうアレク。今度お酒を奢るわ!』
『気にするな。あと酒なら蒸留酒を頼む』
それは、まだベルがアレクと名乗っていた頃の他愛の無い会話。互いに軽口を叩き合い、薄氷の上の平穏を楽しんでいた最期の一時の、ささやかな約束。
「律儀な奴だ」
ポツリと呟いた言葉に含まれていたのは、親愛か、悔恨か、それとも寂寥か。
グビリと、ベルはグラスに残っていた蒸留酒を飲み干す。
そして空になったカップに新たな酒をつぐのでもなく、その底を見つめる。
何も無い、僅かに酒の雫だけが残る虚無の器を。
「もう遅いさ…何もかも」
「ウォ…ベル殿?」
「…何でもない。遥々来てもらって済まないが、俺に出来ることは何も無い。帰ってくれ」
そう言ってベルは席から立ち上がる。
「お、お待ち下さい!」
「大方、新しい”カナンの騎士“を俺に殺してほしいんだろうが、無理だな」
「っ…!?」
エリカではなく、新しいカナンの騎士に嫡男を殺されたリガール辺境伯からの依頼を、聞くまでもなくベルは断る。
「貴方なら…いや、もう貴方しかいないのですウォーカー大尉!」
「勘弁してくれ…全てが終わった後、英雄として暗殺されるのは嫌なんだよ。生きるにしろ死ぬにしろ、わざわざ貧乏籤を引けるほど、俺はもうやる気がない」
もはやベルの顔に、先程のような感情の残滓はない。
ただ虚無のみが支配するその顔に、諦念の表情を貼り付けたベルは、エバンスに手土産を渡す。
「持っていけ、美味い酒の代金だ」
「これは…」
一抱えほどあるその袋には、大粒の宝石がぎっしりと詰まっていた。
それはベルが、自身の功績の代金として貰った金貨を、持ち運びしやすいように宝石に交換したもの。
「ウォーカー大尉…」
「俺はベルだ、そんな奴はもういない。だが、代金ついでに伝言を頼めるか?」
エバンスに伝言を頼んだベルの声音には少しだけ、かつてアレクと名乗った男の、穏やかな感情が混ざっていた。
「『約束は絶対に忘れない』と」
「承知いたしました…」
エバンスはまるで大元帥に対するがごとく見事な敬礼を行うと、振り返ることなく、この場から立ち去った。
エバンスがいなくなり、一人になったベルは余った蒸留酒をカップに注ぎ、味わうように飲もうとして━━━━
「っ、ゴボッゴボッ…ガハッ」
苦しそうな咳と共に、血の混ざった痰がベルの掌にべっとりとこびりつく。
「ガハッ…っ〜、ハァハァ…そうだな、もう遅いんだよ…何も、かも」
口に残る血の味を洗い流すように、ベルは酒を流し込む。
たった一人、誰もいない寂しいテーブルで。
~後書き~
息抜きに新作を書いてみました。
本作とは世界観は共有していませんが、本作を読んでいると少しだけニヤリとできる内容…かも?
https://kakuyomu.jp/works/16818093081801746160
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