2章 再びの空へ9

「君がクローネか?」


「そうね」


「そうか。ではまずは感謝を。二年前、君のおかげで多くの命が救われた。馬鹿な兄の鬱陶うっとうしく泣く様を見ずに済んだよ」


「ん。その兄って?」


「高価な白衣を着た釘のような男だよ」


「……ドクター?」


 クローネは驚愕きょうがくに目を見開いていた。疑いのまなざしが女性に降りかかるが、彼女は疲れたように頷くだけだ。

 ……うーん。

 女性を舐めるように見る。腰まできれいに流れる髪は魅力的で、キキョウが母性を振りまいているなら彼女は美の化身とも言えた。

 つまり、兄妹には見えないということだった。

 冗談だろうと笑えばいいのか困るクローネに、彼女は意図を察し、鼻を鳴らして笑みを浮かべていた。


「似ていないのだろう? 今までさんざん、耳が腐るほど言われてきたし私もそう思っているさ。どちらかが拾い子なんじゃないかという論が一番納得できるのだが、母は自分の股から落とした子で間違いないと認めてくれなくてな。他人と証明する証拠もなくて困っているんだ」


 やれやれと女性は首を振る。それだけで周囲にかぐわしい香りが花開いていた。

 人を惑わす香りだ。存在自体が人を寄せ付け、視線を釘付けにする。異性同性構わずとりこにする美貌びぼううれいの表情を浮かべるだけで思わず手を差し伸べさせるようだった。

 すごいなぁ……。

 クローネは感動を通り越して感心していた。世の中にはこんな完璧な人間がいるのか。著名な画家が描いた絵画に声を当てていると言われたほうがまだ現実的だったからだ。

 この高嶺の花を手折る男性などいるのだろうか。手を伸ばせども届く前に他の手に叩き落とされることは間違いない。それもそれで難儀だ。持つものの苦労をクローネは知る由もなかった。

 呆気あっけにとられていた少女は反応を返せず、一人話続けてしまった女性はごめんなさいねと謝りを入れ、


「私はヒルダ。下層の層長よ」


「層長……ってことは一番偉い人?」


「そうなるかしら。どちらかと言えば問題事の処理係ってイメージだけど。この立場だって兄を縛りたい人が無理矢理推挙しただけだもの。体のいい人質ってところかしら」


 その無遠慮な物言いは周囲の人々を苦笑させていた。空気の読めなさは噂の兄を想起させるもので、しかしこちらは分かってやっているだけ性格が悪い。

 ヒルダは魔性の微笑みを浮かべて手を差し出していた。ただの握手を求められているというのに、まるで受勲式じゅくんしきのように様になる。クローネは手袋を外し、汗のにじんだ手をり切れるほど服で拭いてからその手を取った。


「よろしく」


「えぇ。よろしく、クローネ……」


「……えっと、何か?」


 軽い握手のはずが、離れない。クローネの指には力が入っておらず、ヒルダの細く長い白磁器はくじきの指が絡んでいた。

 既に握手ではなく、指をさするような動きをしていた。それどころか片手で飽き足らず、両手で包み込まれる。

 さすがにおかしいと思ったクローネが手を引こうと力を込めるが、手首までがっしりと掴まれては無理に払い除ける他ない。そんなことをしてしまえば彼女の腕が無事でいられる保証がなかった。

 その間にもヒルダは一歩前に進む。頭一つ高い彼女の顔はどれだけ磨いた金よりも輝いていて、水晶よりも透明だ。

 その口元が顔に近づき、頬を通り過ぎる。耳元でささやかれた声は腰が砕けるほどに甘い。


「君には苦悩苦難が似合っているね。どうかな、この後私の部屋で話を聞かせてくれないか?」


「え、遠慮しときます」


「怯える必要はない。一夜を共にしよう」


 ヒルダは身を引く少女の腰を抱き、引き寄せる。

 ……ひいぃっ!

 食われる。包み込まれてドロドロに溶かされる。そんなビジョンがクローネの頭に浮かんでいた。


「――そこまでにしておけ」


 固まるクローネの肩に暖かく硬い手が置かれていた。癒着ゆちゃくした皮膚をがすように割り込んだのは痩躯そうくの男性、ソクラティスだった。


「嫉妬かな?」


 引き離されても蠱惑こわくの表情を浮かべるヒルダ。彼女に阿呆あほうと投げ捨てたソクラティスは背中を向け壁になる。


「大丈夫か?」


「いや、まぁ……うん。何かされたわけじゃないし……」


 そうつぶやく声はどんどんと小さくなっていき、語尾は殆ど風に消されていた。

 怪しくうごめいていた指の後をなぞる。鉄芯のように冷たく細い指が触れていたところだけ、火を噴く程に熱さを帯びていた。


「すまない。彼女は同性愛者であり英雄性愛者なんだ」


「なにそれ?」


「困難に立ち向かう人しか愛せないらしい。本当かどうかはなんとも言えないが」


「本当よ。そんなこと嘘ついても仕方ないじゃない。それよりなんで邪魔するのかしら? 悪いことしてる訳じゃないのに」


「許可なく相手に迫ることは悪いことだろう」


 手慣れた様子で美女をあしらう。普段の彼を知っているものからしたら、驚きを通り越して卒倒そっとうする光景だった。

 無下に扱われたヒルダは、愛らしいふくれっ面を見せる。冷徹れいてつに見える彼女の童女どうじょのような一面に、感化された人々が嫉妬の目を彼の背中に向けていた。


「昔から変わらないな。そんなことよりすべきことがあるだろう」


「……わかったわよ。で、新しい問題を起こしてくれたのはどこのどなたって――」


 ヒルダは最後まで言いきれずに息を飲む。その理由は、捕獲ほかくされた機体から飛び出した人物にあった。

 クローネもつられて後ろを向く。上空ではよく見る余裕もなかった。どんな男が操縦し、どのような意図を持って攻撃してきたのか、興味があったからだ。

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