2章 再びの空へ7

 薄灰色の世界はその先を隠すように巨大な壁となって行く手を阻んでいた。

 黒雲は引きずり下ろすために手を伸ばし、両翼に重くのしかかる。しかし十分に鍛え上げられた機体は翼を刃に変えて切り進む。風を裂く音を置き去りにして、お互いの腹を合わせた二機はその高度をあげていた。


『……燃料はどうだ?』


 告げられた言葉に、クローネは計器へ目を向ける。まだまだ余裕な値を示していることを確認すると意図せず口元が緩む。


「余裕よ」


 無線へ乗せた声に返答はない。代わりというように飛び出した機種に置いていかれまいと、クローネも速度をあげる。

 雲の濃淡が水に浮いた油のように不規則な模様を描いている。いつ終わるともしれない景色の先を目指し、高度計は勇み足で針を進めていた。

 それは何の前触れもなく現れた。

 飽きるほどの時間、変化のない飛行を続けていた時だった。一瞬の青が一面の蒼に変わる。雲の蓋を抜け、雲海の上に。


「……呆気あっけないね」


 感想がぽつり。無線からは笑い声が響く。


『呆気なくしたんだ』


「……そっか」


 技術が、資材が潤沢であれば、空は手が届く場所になってしまった。達成感と物悲しさが胸中に渦をまく。


「……ねえ」


『なんだ?』


「これから、どうする?」


『そうだな――』


 彼は一息溜めてから、言う。


『皆が心配しないうちに帰るが、しばらく見てようか』


「見るって何を?」


『次の夢だ』


 ……は?

 疑問符を浮かべながらクローネは正面を向く。低気圧症で頭がおかしくなったのだろうか、と真剣に心配をしていたが、見つめる先の景色を前に思考が停止する。

 太陽がそこにあった。大きく、赤い陽の光。それが今雲に沈もうとしている。

 空は青から赤へと移り、きらびやかな星が数点顔を覗かせていた。天球は恐ろしいまでに大きく、自己を見失うほどに小さくする。

 クローネは息を飲んで、ハンドルから手を離す。肩を抱いて震える身体を押さえつけなければ暴れて外に飛び出してしまいそうだった。


「――きっつ」


『……感想がおかしいな』


「仕方ないじゃん、怖いんだもん」


『何がだ?』


「空がこんなに大きいなんて知らなかった。世界中で迷子になったらこんな感じなのかな」


『――かもしれん』


 同意される。意外だ、と口が開く。


『俺も初めて見た時は震えてた。こんなに大きい空が気まぐれで雲を多くするだけで、人間なんて簡単に死んじまう。なら生きている意味ってなんだろうなって』


「……うん」


『でもそれが悪いなんて誰が決めたんだ。まだこの雲の下には星よりも多くの命が生きている。そいつらはそんなちょっとした気まぐれなんかで死ななきゃいけない奴じゃない。だから俺は飛ぶ。昔みたいに空を何千もの飛行機が飛び交うくらいになれば、ここも大きな庭くらいに考えられるはずだからな』


「……うん?」


 不貞腐れていたクローネは顔を上げていた。分かるようで分からない話をされた、いや途中までは何となく理解出来ていたが最後の結末だけ明後日の方向から襲いかかってきた気分だった。


「要は、この空が身近になるくらい飛んでいたいってこと?」


『そう言ったが?』


 さも当然という返答がなされ、クローネは肩を落とす。

 ……言ってないからっ!

 気持ちと同調して機首も下を向く。雲海面スレスレまで落ちた高度を急いで引き上げ、元の位置まで戻ってくる。

 ……ん?

 何も無い空に、何かを見た。なわけないよねと視線を逸らすが首の後ろあたりがチリチリとうずいて、嫌な予感に引っ張られるようにまた顔をあげる。


「んぅ……」


『どうかしたか?』


「いや……なんか見えた気がしたんだけど」


 クローネは目を凝らして見るが、それらしきものは見当たらない。山の中で暮らしている民はそれほど視力が良くなく、彼女もその例に漏れなかった。

 数秒経って、首が疲れてくる。やっぱり気のせいかと視線を下げたクローネは、無線から飛んでくる怒声に一瞬身を硬くしていた。


『っ!? 散開!』


 横を並んでいた機体が急旋回をして離れていく。クローネも訳が分からないままハンドルを切ると、その残影に向かって黒弾の雨が通り過ぎていた。

 ……はっ?

 何が、と思うよりも早くバンドルを握りしめる。襲われた、今はそれだけで十分だった。

 雲に刻まれた弾痕を追うように飛行体が急降下してくる。目の端で捉えたクローネもそちらにハンドルを向けていた。


『追うな!』


「馬鹿言うんじゃないよ! 向こうがやる気ならちんたら上で飛んでられないでしょ!」


 言葉をかなぐり捨て、クローネも雲の中に入る。

 視界はほぼない。白が後ろに駆け抜ける中、僅かな痕跡を見つけるために目を凝らすと、不自然に渦をまく気流がはっきりと捉えられていた。


「やろうっ……」


 どこの誰だか知らないが舐めたマネして。乱気流に沿うようにクローネは速度を上げて後ろに着く。

 機銃が付いていることに感謝しつつトリガーに指をかける。先制したのは相手からだ、気にかける必要はない。

 ――落としてやる。

 カチッ。

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